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 十二時五分。午前中にここまでは、と考えていた作業が終わる。坂井は両手を頭の上で組んで、ん、と体を伸ばした。昨夜もあまり眠れていないが、仕事が予定通りに進むと気分が良い。水筒のほうじ茶で喉を潤す。  ゆっくりと昼食が取れそうだと思いながら、デスクの端に置いていた弁当箱に手を伸ばす。そのとき、背後から「坂井さん」と押し殺した声に動きを止められる。最近なにかをしようとするとこうやって声をかけられることが多いのは気のせいだろうか。 「お昼、ご一緒しませんか」  半身だけを振り返らせれば、堤が左斜め後ろに立っていた。顔には柔らかい笑みが乗っていたけれど、その口の端は無理矢理持ち上げられているように見えた。 「生憎弁当を持ってきている」 「今日は俺も買ってあるんで。休憩室で食いません?」  腕を持ち上げて上階を差す。手首に引っ掛けられたビニール袋がカサリと揺れた。コンビニの袋ではない。濃い青のそれは、察するにパン屋だ。  返答の代わりに、弁当袋と水筒を持って立ち上がる。堤も黙ってついて来た。  昼時ということもあり休憩室にはまばらに人の姿があった。喫煙スペースに二人、若い男性ふたりが談笑している。あとは窓際のテーブルスペースでサンドイッチをつまんでいる女性がひとりと、その端で机に伏せて仮眠しているらしい若い男がひとり。いずれも別のテナントの人間ばかりだ。話をするには丁度いい。  坂井は喫煙スペースから一番離れたテーブル席に腰を下ろして、弁当を広げる。堤も向かいに座った。こちらは袋に手をつけない。 「いただきます」  両手を合わせてから箸を抜く。まず手をつけるのはひじきの煮物。少し甘すぎた。次、卵焼き。丁度良い。 「あの、坂井さん」 「いいから先に食べたら」 「あ、はい……」  気の乗らない風ではあるが、堤は言われた通りに袋からパンをふたつ取り出した。見たことのない店のものだが、クロワッサンらしきものと、パニーニと言うんだったか、チーズやらハムやらを挟んだパンを押し潰して焼いたようなものの組み合わせだった。 「いただきます」  手を合わせて、袋に入っていたおしぼりで手を拭く。クロワッサンの欠片がこぼれないように片手を添えながら先端の尖った部分にかじりつく。その細やかな配慮が、やはり昨夜の姿とは結び付かない。ゆかりごはんを三十回しっかり噛んでから嚥下し、ほうじ茶で一息。 「この辺のベーカリー?」 「あ、いえ。自宅の近くにあるパン屋さんで」 「駅の近くのぶどうの看板のところ?」 「いや、駅前のところは高いんで本当に家の近くの……」  そこまで言って、色々と思い出したのだろう。堤は、はあ、と息を吐き出した。甘い香りが広がる。 「坂井さんも、赤川駅の近くに住んでらしたんですね」 「最寄りだな」 「あの店は、よく?」  堤が指しているのは当然パン屋の話ではない。昨夜の居酒屋は坂井の家から程近く、会社からは離れていた。あそこで遭遇したということは、互いに知らなかっただけで最寄り駅が同じなのだろう。 「いや、初めて。自宅から徒歩圏内だが」 「……」  向こうから何か話してくれるかと期待したが、それきり堤は口を噤んでしまう。坂井からの詰問を待っているのか、それとも何と言おうか逡巡しているのか。チーズハンバーグを一個咀嚼する間待ってみたが、離れたところから談笑が控えめに響いてくるばかりで、堤はクロワッサンをぎゅっと握ったまま押し黙っている。仕方ない。坂井は口を開いた。 「堤くんは、プライベートではいつもああいう感じなの?」 「……いつもじゃ、ないです」  クロワッサンを包んだ透明のビニール袋を指先で弄びながら、堤はぽつぽつと話し出した。 「昨日のは、高校の同級生たちで。たまたま近くに来ていたらしいので急に誘われたんです」  高校でのノリが抜けないまま騒いでしまった――ということかと思いきや、堤は少しだけ趣の異なることを言った。 「あいつらは、ああいうノリが好きなんです。馬鹿みたいなノリをしているのがステータスだと思っているっていうか。だから俺も合わせているだけで、普段は、そんなじゃないです」  意外だ。彼の口からそんな険のある言葉が飛び出すとは。 「あのメンバーで集まるといつもそうなんです。でも、俺が注意しちゃうとしらけるし、難しくて。だからと言って坂井さんに迷惑かけていいわけじゃないですけど……」 「俺以外にも、他の客やお店の人にもだと思うが」 「あ、はい……すみません」  元よりやや小柄な身体を更に縮こませて、項垂れる。そして思い出したように尻ポケットから何か薄いものを取り出した。 「あの、これ。クリーニング代です」 「要らないと言っただろう。昨晩のうちに洗濯済みだ」 「いえ。受け取ってください」 「……」  面倒だ、と坂井は内心苛立ちを覚えた。他人に借りを作るのは面倒だ。貸しを作るのはもっと面倒だ。これで終わるなら終わらせたい。 「……分かったよ」  箸を一旦おいて、しっかりと封のされた茶封筒を受け取った。中身がいくらかは知らないが、もらったところでどうするか。数秒考え込み、妙案が頭の片隅を通り過ぎる。そんな坂井の腹の内など知る由もなく、堤はクロワッサンを持ったまま両手を顔の前で合わせた。 「だからあのっ、これでってわけじゃないんですけど、昨日のことはできれば会社の人たちには……」  成程、それが本題らしい。そんな心配をせずとも、坂井には仕事の話以外をするような仲の人間は職場内にいないというのに。  だが、堤のこの発言は坂井の望む方向へ話を進めるのに実に好都合だった。いつの間にか空っぽになっていた弁当箱の蓋を閉じ、ゴムバンドで縛りながらもったいぶる。ちら、と上目で窺うと、堤はクロワッサンに向かって拝んだような格好のまま坂井をじっと見据えていた。 「そこまでして、内緒にしたい?」 「はい……」 「なら俺からも条件がある」 「は、はい」  ごく、と堤の喉が上下する。どんな条件を突き付けられるのか緊張しているのだ。坂井は思わず頬を緩めそうになった。実際には表情筋は一ミリたりとも動いていなかったと思うが、それくらいには愉快だった。見せつけるように、茶封筒を顔の前に掲げる。 「俺の家に来て、一緒に夕飯を食べてほしい」 「はい……はい?」  言われた言葉の意味が分からない、とでも言うように堤は目をしぱしぱさせた。少しだけ目にかかった前髪が小さく揺れていた。 「今日……はいきなり準備が難しいから、とりあえず明日。仕事が終わったら赤川駅で待っていてくれ」 「え、どういう、ことですか……」 「そのままだよ」  ご馳走様でした。両手を合わせて、さっと弁当箱を片付ける。坂井はそのまま何も言わず休憩室を後にした。オフィスのある六階へは階段で下りながら、頭の中では献立と材料を列挙していた。
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