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手伝います、と堤が申し出るのを一蹴。ソファに座らせてテレビをつける。
「好きなのを見ていていい。あと、何か食べられないものはある?」
「すっげー辛いとかじゃなければ何でも」
「わかった」
それだけ言って、自身はキッチンへ向かう。手は既に洗ってある。米もあと十五分で炊きあがるようだ。まずは汁物。切った状態で保存してある野菜たちを冷蔵庫から取り出し、鍋に水を二百ミリリットル、粉末だしと一緒に放り込む。蓋をして中火よりやや弱く。その間に浸けておいた豚肉の袋を取り出す。軽く揉んで、常温に戻しておく。今日の副菜はセロリの和え物と切り干し大根。作り置きしておいたのを合計四つの小鉢によそってダイニングテーブルへ。食器棚の小鉢が全て出払ったのは久しぶりだ。ぽかりと空いた空間に、むしろなにかが満たされていく。
視線だけで窺うと、堤はニュース番組を見ているようだった。昨日のサッカーの試合の様子に見入っているのか、暇なのか、テレビをじっと見つめたまま動かない。茶くらい出せばよかったかという思いがよぎるが、今は料理の真っ最中。段取りが狂うのはきらいだ。
感傷は脇に置いておいて、作業を再開。鍋が煮たってきたので、軽くまぜ、一度火を止めて味噌を溶かす。小皿で味見。丁度いい。弱火でもう一度煮たったら火を止める。完成。
次は主菜だ。フライパンに薄く油を敷いて中火。豚肉を袋から取り出して焼いていく。じゅわ、と美味しそうな音と、醤油と生姜の香ばしい匂いが一気に広がった。その音と匂いで堤がこちらを見る。取り合うことはないが、人に見られていると思うと何となく手つきが慎重になる。
肉を裏返したところで炊飯器が鳴る。フライパンに蓋をして、弱火やや強め。冷蔵庫に残りわずかだったキャベツを切る。包丁よりもピーラーが手早くかつ細切りにできる。あっという間にふたり分の皿に千切りの山ができた。頃合を見て、フライパンの蓋を開ける。もう一度ひっくり返し、水分を飛ばしたら完成。皿によそい、テーブルへ。次に味噌汁。最後に白米を茶碗によそって、対称になるよう向かい合わせて並べたらフィニッシュだ。
「できたよ」
声をかけると、堤はテレビを消して立ち上がり、テーブルの上を見てわあっと声を上げた。
「坂井さんが作ったんですか、これ」
「作るところを見ていただろう」
「そうですけど。本当に、って感じで」
「いいから座って」
短く言って、水の入ったグラスをふたつ置く。堤はおずおずとダイニングチェアに敷かれた紺色のクッションに腰を下ろした。坂井もその向かいの薄緑のクッションに座る。
「いいんですか」
「どうぞ」
「いただきます」
堤に一呼吸遅れて、坂井もいただきますを唱和。まず汁物に手をつける。堤はほかほかの生姜焼きに箸を入れ、大きく分けて一口。ぱっと目を輝かせてすぐに白米を頬張った。数回噛んで、飲み込む。
「おいしいです」
「そうか」
素っ気なく返すが、内心ささやかな満足感を覚えながら、自身も生姜焼きを一口。良い出来だ。じっくり漬けこんだ甲斐があった。然程会話もなく、食事が進む。
「米が足りなかったら言ってくれ」
「いえ、丁度いいです」
それだけが唯一交わした言葉だった。
「ご馳走さまでした」
手を合わせたのはほとんど同時だった。堤ははじめこそハイペースで食べ進めていたが、最後の汁物に随分時間をかけていた。猫舌なのか、あるいは遠慮しただけで食べられないものが入っていたのかもしれない。
そんなことを勘繰りながら坂井が立ち上がると、堤も食器を持って立ち上がる。
「いいよ。座ってて」
「このくらいしますよ」
にかっと歯を見せて笑うと、坂井を追い抜かしてキッチンへ。シンクに食器を優しく置き、蛇口をひねって食器をすすいだ。
「いいって。食洗機に並べるだけだし」
「だけなら尚更やりますよ。坂井さんこそ座っててください」
意外と頑固だ。諦めて、己の使った食器をシンクに置いた。
「お茶をいれるよ」
「お願いします」
キッチンに並んで作業をする。水の流れる音に、食器がカチャカチャ鳴る音。じきに電気ケトルの中で沸騰しはじめたお湯がコポコポと歌うのが重なる。
こういうのは久しぶりだ。食器を片付けるのはいつも『彼』の役割だった。その横で自分がコーヒーやお茶を入れる。ほんの一瞬だけ、かつての日常が戻ってきたような気がした。
「あれ、スイッチどこですか」
食洗機に食器を並べ終わった堤が手をさまよわせている。坂井は茶筒を開けようとしていた手を止め「ここ」と食洗機のボタンを押した。そのとき軽く、堤の指先に触れる。少しびっくりしてしまうくらい冷たかった。
「お湯を使えばよかったのに」
「いやいや、まだそこまで寒くないですし」
確かに季節は夏を終えたとはいえ、昼間はまだまだ半袖で丁度いいくらいの気候。だが冷水で食器を洗うにはあまりに肌寒い。坂井は冷えた堤の右手を両手で包み込んだ。え、と堤の喉から妙な音が鳴る。
「さ、坂井さん」
黙って熱を与え続ける。ケトルがカチ、とスイッチを跳ねあげる頃には、坂井の手のひらの熱は全て堤に吸い取られていた。
「ちょうどお茶が入ったよ。ソファに行ってて」
「あ、はい……」
茶筒から匙一杯分の茶葉を取り出して、急須に落とす。すぐに熱湯を注ぎ、軽くゆすって耐熱グラスに注ぎ分けていく。少し冷ましたほうが美味しいとか何とか言うが、そこまで通ではない。
グラスをソファの方へ持っていくと、妙に硬くなっている堤の隣に腰を下ろした。
「はい。熱いけどどうぞ」
「ありがとうございます。何から何まで……」
習慣で、テレビをつける。特に興味のないクイズ番組だが、他に見たいものもないのでつけておく。お茶を一口。濃すぎた。
「あの」
目線はテレビに向けたまま、堤が口を開く。
「どうして、ご飯なんですか」
これは堤の所業を黙っておくための交換条件だ。坂井にとって得でなければいけないのに、食事を振る舞われてはむしろ堤のほうに益がある。そのあたりが落ち着かないのだろう。ふ、と坂井は口元を緩めた。吐息で緑茶の表面が波立つ。
「この部屋、一ヶ月前までもう一人住んでいたんだ」
「え、あ、はあ」
「今は一人暮らしだ。一人飯というのが慣れなくてね。誰か食ってくれる相手がいたほうがやりやすい」
「……それは」
何かを言いかけた堤は、しかし、何でもないですと言葉を飲み込んでしまう。そこで何となく会話が途切れた。察しの良い堤のことだ。最近ひとりになったという言葉の真意は伝わったに違いない。悲観ぶるつもりは全くないが、別に隠すことでもなかった。だが上司の家庭の内情など知りたくなかっただろう、気まずそうにしている堤には悪いことをしたかもしれない。
沈黙。テレビでは、歴史に関するクイズが始まっている。台本なのか素なのかは分からないが、回答者からなかなか答えが出ずに思考時間が引き伸ばされる。次のヒントです、と画面が切り替わり、見た事のある城が画面に出た。思わず口が動く。
「黒田官兵衛」
ほとんどふたり同時だった。顔を見合わせる。ややあって回答者が同様の偉人の名前を口にし、司会者の「正解!」の言葉と同時に派手なファンファーレ。こらえきれずに、ふたりの口から笑いが漏れた。
「堤くんも、歴史すき?」
「坂井さんも?」
「それなりだけどね」
「それじゃああの映画見ました? 大坂の陣が舞台の」
「ああ、原作小説は読んだけど映画はまだかな」
「絶対見たほうがいいですよ。特に騎馬の描写がすごくって……」
そこから映画の話をしたり、クイズ番組に挑戦したり、和やかに時間が過ぎていく。時計が二十一時を周り、さすがに、と堤が腰を浮かせる。
「長居してすみません。そろそろお暇します」
「むしろ長々引き留めてすまないね。送ろうか」
「いえ、歩いてすぐです。こんな近くに坂井さんが住んでいたなんて知りませんでした」
玄関に向かって、靴を履く。その様を何となくじっと視線で追ってしまう。
「またおいで」
その言葉は自然と坂井の口を衝いて出た。しまった、と思うが遅い。これは「交換条件」なのだ。坂井が言えばそれは強制になってしまう。だが堤は大きな目を細めてくしゃりと笑った。
「いいんですか。喜んで!」
じゃ、と玄関の重たい扉を開けてくぐっていく。坂井は外までは見送らなかった。扉が閉まり、壁に横向きにもたれかかる。
久しぶりに楽しい夜だった。そう、楽しかったのだ。
「……良くないな……」
独り言ちる。決して大きくなかったはずの声は、ひとりきりの部屋にやたらと反響した。
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