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 それだけしか吸わないなら、もうやめたら。  苦笑まじりに言われた言葉が不意に脳裏によみがえる。ゆっくりゆっくり吸っていた一本は指の中で半分ほどになって、静かに煙を上げている。なぜ煙草を吸うようになったのかは覚えていないが、生活に絶対に欠かせないものというわけでもない。かつて『彼』に言われた通りやめてしまってもいいのだが、何となく惰性で吸い続けている。  指先でもてあましていたそれを一度は灰皿に置きかけて、結局また口許に運ぶ。鈍くなっていた頭がクリアになっていく。休憩時間が終わる頃には、丁度その一本を吸いきっていた。 「坂井さん、お電話ありましたよ。本社の杉浦さんから」  オフィスに戻るなり営業の高木から声をかけられた。本社から。厄介な話か、面倒な話か、腹の立つ話の三択だ。聞かなかったことにしたい気持ちでいっぱいだったが、ご丁寧に連絡先をメモした付箋を手渡されては逃げ場がない。腹を括って自席に戻り、社用携帯電話でその番号を呼び出した。相手はほんの二コールで応じた。 「北関東支社の坂井です。お電話いただいたと聞きまして」 『のっけから嫌そうな声してんなぁ』 「それはそうですよ。今回はどんな厄介話ですか」  本社の杉浦は元々直属の上司だったこともあり心安い仲だ。相手には恐らく坂井のしかめ面すら見えているのだろう。ダハハと豪快な笑い声が耳元で響いた。 『お前にとっちゃあ面倒ごとに違いねえが、北関東にとったら悪い話じゃないよ。『シエスタ』の新作が出ることになった』  さすがに話が変わる。心なし、背筋を正す。 『と言ってもバージョン違いが出るって感じだけどな。詳細は今からメールするが、若者向けがコンセプトの新色が三種類』 「で、その特設ページを作れと」 『そういうこと。ま、サンプルでいいよ。来週中にいけるか?』  来週中。緩んでいた眉間に再び皺が寄る。 「今日が金曜日ということはご存知ですか?」 『いやあ存じ上げなかったなあ。失敬、失敬。ま、そういうことでひとつ頼むわ』 「ちょっと杉浦さ……」  一方的に電話が切れる。やはり面倒な話だった。くそ、と毒づきたい衝動をぐっとこらえて、メールの受信ボックスを更新する。杉浦からのメールにはお疲れ様やらよろしくやらの定型文は一切なく、本文は「詳細」の二文字のみ。添付されているファイルを開く。数ページに渡る新商品の仕様と画像が列記されているのにざっと目を通す。 「若者向け……か」  口の中で独り言ちる。坂井の部署は主にキッチン関連の電化製品を取り扱っている。会社自体は大手と中小の間程度の電化製品メーカーだが、その中でも坂井がいる北関東支社は調理家電に特化したブランドを扱う部署で、扱いは独立した子会社に近い。商品の性質上、顧客は既婚女性がメインターゲットになる。『シエスタ』は北関東支社が扱っている商品の中でも売り上げの大半を占めている看板商品のコーヒーメーカーだ。従来のコーヒーメーカーと比べると、価格はおよそ二・五倍。出来上がるコーヒーの質をひたすらに追求し、他との差別化を行うことで高い人気を誇り、これを所有していることが一種のステータスと呼ばれるような位置づけにある。この商品に限れば客層はある程度の年齢以上の男性がメインになる。  坂井はこの商品の立ち上げから関わってきた。長年スタンダードモデル一本でやってきたが、ここにきて新作とは。それも、これまでとは異なる客層に向けた販路の拡大を狙ったものである。当たれば利益は莫大だ。それは理解できる。できるが、ウェブページの作成にどれだけ時間がかかるかを本社とて分かっているはずなのに、全く無茶を言ってくれる。  はあ、と溜息をつきながらメールを閉じる。今更ながら件名に『機密』の二文字を見つけた。こういうことも請け負うので坂井の席は壁に面しているのだが、そのことを知らないのだろう、隣の席の佐藤がパソコン画面を横からひょいと覗いてきたので、さりげなく商品仕様のファイルを閉じる。 「何?」 「坂井さんって、本社の経理も請け負ってるんですか? 大変ですね」  彼は堤の同期、つまり新人だ。坂井の本業を知らなくても無理はない。しかし説明が面倒だ。どう言ったものかと考えていると、離れた席から北関東支社を仕切る部長の岡島が笑い声をあげた。 「坂井、また何でも屋だと思われてるのか」 「部長が雑務を全部私に振るからじゃないですか」 「だってお前が一番速いし、手も空いてるだろ」  言い返せない。二人のやり取りについていけない佐藤が「あの」とおずおず割り込む。 「坂井は本来はウェブ担当なんだよ。うちのウェブ関連は全部こいつが作って管理してんだ」 「ええっ、全部?」  この北関東支社が扱うブランドのHPだけでも膨大なページ数があるのだ。立ち上げの時期のことを思い出して坂井は一瞬遠い目になった。だがそれも新人の頃の話。今は気楽な身分だ。 「全部と言っても北関東の分だけだし、一度作ってしまえばあとは時々更新するだけだよ。大した仕事量じゃない」 「全く知りませんでした……」  そうなのだ。開いた時間に経理などの事務を請け負っていたら、いつしかその仕事量が本業を上回り、今ではすっかり庶務担当と化している。今まではそれでよかったが、新商品の特設ページとなれば一から立ち上げる必要がある。しかも期限は一週間。しばらくは本業に専念しなければならないだろう。視線で部長を窺うと、話は通っているのだろう。ニカリと笑って大きな声を上げた。 「久しぶりに本業の依頼だろ。そんなわけで、しばらくは領収やら決済やら雑務は俺に直接回してくれ」  それは全体への言葉だった。広くはないオフィスのあちこちから了承の声が上がる。話が速くて助かる。では早速本業に取り掛かるかと、久しく使っていないウェブ作成ツールを立ち上げたとき、何となく視線を感じて顔を上げる。こちらを見ていたらしい堤とばっちり目が合った。何となく、気まずい。今日はちょうど金曜日。堤との「食事会」は毎週金曜日ということになっていた。  両腕を頭の上で伸ばす。肩の血流が良くなって気持ちが良い。突然降ってわいた仕事ではあるが、無理はしない。定時を十五分過ぎたところで坂井はPCの電源を落とした。 「お先失礼します」  まだ大半が残って仕事をしているオフィスを後にする。堤も営業先らしい相手との電話中だったが、家で落ち合うことになっている。ビルを出て駐車場までの道すがら、今日の献立と調理の手順を頭の中でもう一度トレースした。 「わ、魚。久しぶりに食べました」  にこにこと人好きのする笑顔を浮かべて、堤は鮭のホイル焼きを美味しそうに頬張っている。坂井はその向かいでほうれん草のスープを啜った。 「自炊だとなかなかね。俺は肉より魚派だから結構食べるけど」 「自分じゃ料理しないから、ありがたいです。米が進む……」  気持ちが良いほどモリモリ食べる。少しだけ気を好くして、坂井もホイル焼きに手を付けた。味噌で味を付けたこともあり、確かにこれは米が進む。 「今更だけど、金曜日で本当に良かったのか」  口の中がいっぱいなのだろう、堤は小さく首をかしげて坂井の意図を尋ねた。 「飲みに行くとか、誘われるだろう。金曜日は」  ごくんと喉を鳴らして、うん、と上を向く。 「あるときもありますけど、大概水曜とかですよ。みんな、金曜日は自分の時間を大切にしたいみたいです」 「それは……」  その自分の時間を坂井に使っていて堤はそれでいいのか、と聞きたくなったが、愚問にも程がある。堤は坂井に弱みを握られていて、その坂井が金曜日に来いと言っている立場なのだ。断れるはずもない。  別に、金曜日に大したこだわりはないのだ。前回初めて堤が家に来たのがたまたま金曜日だっただけのこと。曜日の変更をやんわり提案すると、堤は箸を止めてうーんと唸る。 「でも他の曜日はそれこそ急に誘われたりもしますし、あんまり誘われないのは月曜ですけど月曜は結構忙しいし。別にいいですよ、金曜日で」  にぱ、と笑う。遠慮をして言っているのか、ただ純粋に事実なのかの判断は坂井にはつかなかった。そういう匙加減が、堤は本当に上手い。気を遣って言っている言葉でも相手にそうと気づかせないようにするのが。だからこそ好かれもするのだが、気苦労も多かろう。坂井には到底真似できない。 「そういえば」  と、マカロニサラダを箸でつつきながら堤が漏らす。 「俺も知りませんでした。坂井さんが本当はウェブの担当だって」  ああ、と苦笑いが口の端に登る。 「課長が悪いんだよ。新しい人にあいつは何でも屋だからって紹介するから」 「でも、本当に何でもできますよね。すごいなぁ」  そう言って柔らかく笑う。言われ慣れてきた社交辞令だ。今更何も響かないはずだった。なのに言ったのが堤だというだけでむず痒いものを感じている自分がいることに気づいて、坂井は軽く動揺した。それは坂井が堤のことを一目置いているからなのか、それとも彼の人当りの良さに絆されたか。  何にせよ。勘違いをしてはならない。社交辞令だ。奥歯で浅漬けのきゅうりを噛み潰す。その後は他愛のない会話をして、食事はつつがなく進んだ。 「今日も美味しかったです。御馳走様でした!」  元気よく言って、今日も食器を自ら洗いにいってくれる。坂井は先日と同じように、その隣でお茶を淹れた。 「今更だが、迷惑じゃないか。大して仲良くもない人間の家で手料理なんて」  坂井としてはほんの気まぐれ、一回きりのつもりだった。あんまりにも堤の反応が良いからこうして二度目も誘ってしまっているのだが、先程の社交辞令で少し冷静になった。堤は断れない身なのだ。相手の反応を窺う。 「なんでですか。俺自炊なんか全然できないから、超助かってますよ。むしろご迷惑おかけしてないですか」 「いや、こっちから誘ってるんだし。どうせ毎日作るから、たまに誰かが食べてくれると嬉しい」 「じゃあ、ウィンウィンってことで」  打ち切られてしまう。良い、のだろうか。堤は誰に対してでも人当りがいい。的確に欲しい言葉をくれる。だからこそ、それが本心なのか分からない。だが、久々に自分以外の声が響く家が妙に心地よくて、それ以上踏み込む気になれなかった。
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