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 オフィスの天井を見上げると首がゴキリと鳴る。水曜日。さすがに疲労が溜まってきた。カップの底に一口だけ残ったコーヒーを飲み干して、坂井は席を立った。十二時五分。今日は珍しく弁当を用意できなかった。財布を手に、オフィスを出た。  ビルから歩いて五分。パン屋でサンドウィッチとプリンを買い、ちょうど近くに公園とは名ばかりの空き地があったので、木製のベンチに腰かけて包みを開く。袋の中におしぼりが入っていなくてわずかに顔をしかめる。こんなこともあろうかとウェットティッシュを持ち歩いていて良かった。手を拭い、色とりどりの野菜とエビカツがみっちりと押し込まれたサンドウィッチを頬張る。トマトベースの味だが、最後にほんのりとマスタードが尾を引く。サービスは残念だが、味は好みだった。一切れを半分ほど食べ進めて、ふと上を見上げる。地方都市とはいえ、中心地に程近いオフィス街。ビルに挟まれて空は狭い。それでも久しぶりに外の空気を吸った気がして、少しだけ気分が軽くなる。  仕事に追われるのは嫌いではない。ここまで忙しいと考えものではあるが、多少手ごわいと思えるものに立ち向かっているときのほうがやりがいのようなものを感じる性質だった。だから、これまで仕事がどんなに大変でも苦痛と感じたことはなかった。だが、ここ数日は確実な疲労――それも精神的な疲労が身を蝕んでいるのを感じる。今朝もどうにも起きるのが億劫で、弁当を作る時間を犠牲にして睡眠に充てた。慣れない二度寝をしたせいか、いまいち朝から頭がぼうっとする。残り半分のサンドウィッチを一気に押し込み、咀嚼しながら途中で買った缶のカフェオレを一口。は、と息を吐く。サンドウィッチはもう一切れ残っている。坂井は小食なほうではない。普段ならばこの二切れでも足りないくらいなのだが、どうにも食が進まない。しかし持ち帰るにしても真ん中から開いてしまったビニールの包装は再利用が難しい。もてあましていると、あれ、と頭上から声が降ってきた。 「坂井さん。珍しいですね」  見上げると、背後から堤が見下ろしていた。黒目の大きい童顔が悪戯っぽく笑っている。改めて振り返ると、スーツの上下をしっかり着込み、小脇にプラスチックのケースを抱えている。営業に出向いた帰りだろう。 「ひとりの気分ですか?」  言葉の意味を一旦飲み込んで、堤の手にビニール袋が提げられていることに気づいた。つまり、ここで自分も昼食を摂って良いかの確認だ。相手が断りやすい尋ね方は、何とも彼らしい。 「別に構わないよ。どうぞ」  気持ち、荷物を自分の身体に寄せる。堤はありがとうございますと言いながらベンチを跨ぎ、坂井の隣に腰かけた。本日の昼食はコンビニで済ませるらしい。とにかく大きいが売りのおにぎりが出てきたので、なんだか少しおかしくなった。小柄な割によく食べる。雰囲気はよく似ているが、やはり「彼」とは違うのだと、改めて思い知らされた。 「今日お弁当じゃないんですね。珍しい」 「ああ、さすがに作る余裕がなくて」  話しながら、自然と二つ目のサンドウィッチに手が伸びる。重たいと思っていた具材は、何なく喉を通り抜けていった。 「忙しそうですよね。期限、一週間でしたっけ」 「ああ。無茶苦茶すぎる」  とはいえ、大枠はできたのだ。あとはデザインのディティールを詰めるのと動作の確認だけ。上手くいけば、金曜日どころか明日の木曜日には終わるかもしれない。そんなことを考えている間に、サンドウィッチは全て口の中に収まっている。さすがにプリンは持ち帰ることにして袋に戻す。三時のおやつにでもするかと思っていると、堤が、んん、と喉を鳴らしてから言いづらそうに口をもごもごとさせた。 「大変なら、金曜日無理しないでくださいね。って俺が言うのも変んですけど」  じ、と真っ直ぐに見上げてくる顔は神妙だ。どうやら本当に心配されているらしい。 「いや、俺も息抜きになっているからいいんだ。君こそ、断りたいときは遠慮しなくていいから」 「俺は本当に助かってるんで」  とは言うが。カフェオレを一口。横目で、じ、と堤を窺う。本当に童顔だ。スーツを着ていなければ大学生と見分けがつかない。いや、高校生にすら見える。実際彼は若いのだ。新卒。つい半年前まで大学生だった。坂井とてまだ二十代ではあるが、数年の社会人経験がもっと年上に見せているらしく、実年齢より上を指摘されることが多い。それに、坂井には自信が気難しい性質だという自覚がある。先日の給湯室での会話が何よりも如実にその自覚が謙虚や卑屈でないことを示していた。  そんな自分と、若い堤は一緒にいて気苦しくないのだろうか。誘ったのがこちら側である手前気にはなるが、何度尋ねても堤ははっきりと否定し、坂井にとって耳触りの良い言葉を言うだろう。そのやり取りに坂井は意義を感じない。意義のない会話は、したくない。飲み物と一緒に言葉を飲み込んだ坂井に気づいたわけではないだろうが、堤は「でも」と少し大きな声を出した。 「本当に無理なときはちゃんと言いますよ」 「うん。そうして」  さ、と背後から風が吹く。独り暮らしを始めたのは夏の盛りだったが、長袖でも冷たいと感じる風が吹く季節になったのだ。妙に他他人事のように、そんなことを思った。 『まあ、いいんじゃないか』  坂井に無茶な依頼を寄越した張本人である杉浦は、電話先でからからと笑ってそう言った。その「まあいい」を練り出すのに坂井がどれだけの労力を費やしたか分かっていないわけではないだろうに、分かっていてなおその言い方なのだから余計に腹が立つ。悪い人間ではないのだが、五十を過ぎたからこそ出る余裕だろうか、飄々とした物言いが時折ものすごく癪に障る。 「ご要望にかなったようで何よりです」  返す坂井の声も思わず尖るというものだ。それに気づいたわけでもないだろうが、杉浦の声のトーンは反比例してひとつ落ちる。 『まあ十分なクオリティだし、今回はお前みたいなスカした若者がターゲットだからいいけどさ、お前これ本当に「若者向け」って思って作ってんの?』  ド、と密かに心臓が跳ねる。自分なりに今回のコンセプトを理解し、意識して作成したつもりだった、現に及第点はもらったはずなのに。電話を握る右手に力がこもる。努めて、平静な声を絞り出した。 「……はい。どこがまずかったですか」 『いや、これでいいよ。だけどさ、お前これ作るときに誰かに相談したり意見聞いたか?』 「いえ……」 『だよな。そういうとこだよ。今は十分やれてるけど、いつか壁に当たるぞ。今のうちに、話せるやつのひとりふたり作っておけ』 「ご教示ありがとうございます」  二、三言ねぎらいの言葉をもらって電話を切る。杉浦の言葉は見事に坂井のウィークポイントを突いている。若者向け、というコンセプトに今回ひどく苦戦したのだ。若者が好むデザイン、キャッチコピー。それらが何度作り直してもしっくりこなかった。俺は技術屋であってデザイナーではない、と言い聞かせ、結局は従来のページとかけ離れないように『シエスタ』の高級感を残しつつ色味や文字量を調節するにとどまった。  坂井とて二十代を後半に差し掛かったばかり、十分「若者」に分類される年齢だ。だが、自分が「一般的な若者」かと問われれば瞬時に否定できる。昔から、マジョリティはいつだって手の届かないところにある。それを悲しいとも不都合だとも思ったことはなかったが、いつか壁に当たるという杉浦の言葉は、心のどこか底の底にあった坂井の小さな不安の種を十分に刺激した。  ふ、と短く息を吐いて、オフィスチェアの背もたれに深く背を預ける。わずかに痛むこめかみを右手の親指と人差し指で軽く押す。はっきりと疲労していた。木曜日に終わらせられるかと期待もしたが、結局こうして金曜日の朝だ。とはいえ、今日一日は比較的穏やかに過ごせる。部長の机にたんまりと積み上がった雑務の書類を引き受けながら、ぼんやりと今晩のメニューに思考を馳せた。 「坂井さん、お疲れ様です」  チャイムで呼ばれてドアを開けると、目の前にずいと薄いベージュの袋が差し出された。その脇から、童顔がニュッと覗いて笑う。 「もしよければ、ご飯のあとに食べましょう」  反射的に受け取る。袋の中には箱が入っているらしく、底面は平で冷たい。上から覗く取っ手で察した。ケーキだ。 「どうしたの、これ」 「今日、例の仕事上がったんでしょう? お祝いって程じゃないですけど、ごはんのお礼も兼ねて」  気を遣わなくていいのに。  食事会は自分が強引に誘っているのに。  色々と思い浮かぶが、どれを言ってもきっと堤はのらりくらりとかわすだろう。素直に受け取り、ありがとう、と返す。 「上がって。準備はもう出来てるから」 「お邪魔します。今日、本当によかったんですか」 「勿論。どうぞ」  玄関からリビングに続くドアを開けると、食欲をくすぐる匂いが強く押し寄せた。 「カレーだ!」 「サフランライス食べれる? 普通の白米も冷凍があるけど」 「全然! むしろ好きです」  三回目ともなれば慣れたもので、シンクで手を洗いながら堤が声を弾ませる。社交辞令ではなく本当に好物のようだ。その様子を横目に、キーマカレーと付け合わせの卵を盛り付ける。どれが誰のという決まりがあったことはないが、何となくいつも「彼」が使っていたほうの深い青の皿を堤の前に置く。 「卵黄まで乗ってる。最高。超美味しそう」 「カレーはちょっと自信あるよ。召し上がれ」 「いただきます!」  スプーンに大盛にしてがっつく姿が無邪気で、疲れていた心が少しだけ和む。坂井もカレーとライスを同量ずつ口に運んだ。 「うンまぁ……」  一言だけ言って、無心でカレーをかき込んでいる。好物を前に目を輝かせて、まるで子どもだ。堤のこういう無邪気で真っ直ぐなところと、人のほしい言葉をさり気なく差し出してくる聡いところがどうにも結びつかない。同じ職場で働くようになって半年、家に招くのは三回目。坂井は未だにこの堤という男を掴みかねていた。 「ご馳走様でしたっ」  勢いよく手を合わせる堤の前には、空になった食器が三つ。一方坂井の前にはどれも半端に中身が残った皿が三つ。今日は随分早食いだったと思って、とある可能性に気が付く。  堤は、もしかしてこれまでの過去二回、坂井に食べる速度を合わせていたのではないだろうか。これは逆の立場で覚えがあるのだが、食事の終わりのタイミングが大きくずれると、主に遅いほうが気にする場合が多い。いつも「彼」は待たせてごめんねと謝っていた。それをさせないために、まさか――?  考えすぎ、だろうか。 「あ、先に片付けてますので、坂井さんはゆっくり食べてくださいね」  そんなフォローまでされては、ますます疑惑が高まるばかりだ。カレーに落とした卵黄の余りの卵白で作ったスープの残りをかき込む。坂井のほうがキッチンに近いほうに座っているので、背後から食器を洗う音がする。それに混じって、小さな鼻歌も。  どうして堤は、こんなに人の懐に入り込むのが上手いのだろう。この空間の居心地がよくてたまらない。  おかげで、錯覚してしまう。自分にもまた、こうやって誰かと過ごす時間が来るのではないかと。まだ、誰かに愛される資格があるのではないかと。  だめなのに。もう、自分にそんな資格はないはずなのに。 「あ。そういえば前に言ってた映画、今日テレビでやりますよ」  食後のケーキをつついていると、不意に堤がそんなことを言った。テレビの電源を入れて番組表を確認する。二十一時からの欄に、確かに堤が以前勧めてきた映画のタイトルが並んでいた。定番の戦国を扱った時代物だが、着眼点と演出が尖っていてなかなか良いと評判の作品だった。 「もしよければ、一緒に見ていく?」  ミルクレープをフォークで割りながら、何気なく言う。堤は向かいでティラミスを掘り返しながら「いいんですか?」と顔を輝かせた。 「でも、それ見たら結構遅くなりますよ」 「それは、こっちの言うことでは?」  苦笑する。遅く帰されるほうが心配するのが妙におかしい。 「そんな遅くまでお邪魔しちゃって迷惑じゃないかなって。だって、坂井さん今日疲れてるじゃないですか」  確かに、激務明けではある。今週hあ普段しない残業も少しだけした。だが今日は比較的ゆっくり過ごせたし、疲労困憊というほどでもない。 「自分の家だし、気にしなくていいよ。でもそうだな……遅く帰すのはちょっと気が引けるから、もしよければ泊まっていく?」  それは本当に何気ない提案だった。いくら堤が男とはいえ、深夜にひとり徒歩で帰らせるのはさすがに罪悪感が大きい。幸い男同士であるし、これまた幸いにこの部屋にはつい最近まで使われていた部屋がひとつ余っている。実のところを言うと坂井にとって堤は広義な意味で性的な対象に含まれている。しかしそれは堤の知るところではないし、坂井にも職場の後輩をどうこうする予定はないのだ。 「そんな、さすがに迷惑じゃないですか」 「全然。元々ふたり住んでた家なんだし、部屋はある」  自虐のつもりはなかったが、そう取られても仕方ない。堤はぐ、と言葉を飲み込むと、うめくように「じゃあお言葉に甘えて」と絞り出した。  この軽率な提案を後に坂井は大いに後悔することになるのだが、もちろんこの時は知る由もなかった。
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