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「私ね、子どもは欲しいけど、キャリアの空白は作りたくないの。あなたもキャリアの空白は作りたくないでしょ?」
「それはそうだよ。キャリアを積まないと会社のなかで生き残れないし。潰れた時もキャリアがあれば転職も有利だし。でも、子育てとキャリアの両立は難しいと思うよ。家事や育児を分担すると言っても互いに残業も出張も多いから」
僕たちはロスジェネの結末を知っている世代だ。一度踏み外したら奈落の底まで落ちてしまう。ワーク&ライフバランスが幻想だと知っている世代だ。だからこそ、会社員としての人生設計が大事だと学んだ世代だった。
「そう思うわ。これを見て、二十四時間保育のサービスがあるの」
妻が差し出したのは『二十四時間365日完全サポート子育てセンター』のパンフレットだった。『二十四時間365日の完全サポート、次世代型保育施設。プロのノウハウでお子様の特性に合わせた躾を行います』と書いてある。
「ここを見て、『子育ての不安があっても、豊富な事例からお子様の性格に合わせた最適な躾を行います』って書いてあるでしょ」
「でも、子育てって自分たちでした方が良いんじゃないかな?」
「私も最初はそう思っていたけど、後輩をうまく指導できないのに長所を引き出す子育てが出来ると思う? 私たちのやり方が間違って子どもの良さを引き出せなかった時に一番つらい思いをするのは子どもだと思うの」
確かに、うちの両親もいい加減だった。
「才能を引き出して貰えたかと言えば、確かに疑問に感じるよ。進路相談でも頭ごなしに全否定されたし。でもさ、子どもには親の愛情も大事じゃないかな? 一緒に過ごす時間が子どもには大切じゃないかな?」
妻は良くぞ訊いてくれましたと別のページをめくった。
「躾をするのは私たちのアバターなのよ。私たちが会社に行っている時間でも、子どもにはいつも私たちと一緒にいる安心感があるの。それに、躾のステージに合わせて公園デビュー、初めての買い物、動物園、水族館。オプションを使えば有名アトラクションにも行けるのよ」
「それってアバターがついて行くんでしょ?」
「そうよ。五感を刺激するVRシステムだから、本物の私たちと区別できないわ。天気に予定が左右される心配もないし事故も事件のトラブルもなく安心して楽しめるのよ」
「いや、そうじゃなくて。子どもと同じ思い出を共有できるのかな? って事。子どもはVRの世界で僕たちと一緒だと思っているけど、僕たちはその時間は会社にいるでしょ?」
「ありがとう。子どもと一緒にいたいと思う気持ち、とっても嬉しいわ。要所ごとにメールが送られてくるの。さらにオプション設定するとリアルタイムでVRをスマホでチェック出来るのよ」
「小学生になったらどうするの?」
妻は少し悲しげになった。更に別のページをめくった。
「ここに学校のトラブル件数のグラフがあるでしょ。イジメ、通学中の事故、給食による食中毒、体育の授業や運動会での事故で一生寝たきり、先生の思い込みで間違った教育指導をされたり、トラブルに巻き込まれないで卒業できる確率はほぼゼロなの。それでも、小学校に通わせたい?」
クラスに一人だけ放課後まで残らされていた女子がいた。その後すぐに転校していった。今なら分かる。
「自分は教科書とか盗まれた事があった。先生に相談しても『失くした事を他人の所為にしてはいけない』と怒られたよ」
「私たちの子どもに同じ思いをさせたくないの。義務教育オプションを選べば理想的な小中学校で教育を受ける事が出来るわ」
「なんか良い事づくしだね。失敗や挫折の経験も成長する上で大事じゃないかな?」
「たしかに、時には失敗や挫折が必要だと思うの。私は高校の第一希望に受からなかったわ。だから大学受験は万全の備えで臨んだの。今にして思えばあの時の失敗で第一希望の大学に入る事が出来たと思うの。オプションを設定すれば失敗や挫折を体験できるわ。もちろん、PTSDにならずに最大の成長を得られるものよ。社会に出てから役に立つはずだわ」
分かったよ。子ども将来の為に最大限の努力をするのは親としての幸せだよ。そして僕たちは子どもを授かり、退院の足で二十四時間365日完全サポート子育てセンターに向かった。
あれから十年が過ぎた。
子どもは、沢山の友だちとよく遊びよく学んでいるらしい。オプションの家族旅行では家族三人でロッククライミングを楽しんだ事になっていた。VRの世界の自分は高所恐怖症ではないらしい。
最近はCMも多くなっていた。
子育てカプセルから出てきた少年が家族と対面するシーンだった。子どもはいつものように両親の下に近づくと今日の出来事を楽しそうに話している。若干、戸惑っていた両親も子どもの話に耳を傾け楽しそうに微笑んでいる。友だちが応援してくれる中、逆上がりが出来た時にみんなから歓声が上がった事とかを話していた。
別のCMでは、VRの百メートル走で負けた少女が毎日毎日走り方の練習をして、子育てカプセルから出てきた時には、アスリートの身体に仕上がっていた。リアル世界での短距離走に出場して両親に優勝メダルをプレゼントした。
「あなた、CMなんて見てないで。うちの子が絵画コンクールで入賞したってメールが来たわ」
ソファーの隣に座ると、入賞した絵画を見せてくれた。
「良く描けているね。美しさと威厳を感じる風景画だね。どこの風景だろう?」
「もう・・・、オプションの家族旅行で行ったニュージーランドよ。映画の舞台にもなったところよ」
CGで描かれているのに、油絵の具を使っているような質感だった。
「私たちの子に、絵の才能があったなんて思いもしなかったわ。私たちが子育てしたら、絵の才能に気づかなかったかも」
「将来、芸術大学に行くのかな?」
「そうね、頑張って学費を貯めないとね」
さらに数年が過ぎた。
「あなた、この間からメールが来なくなったの・・・・」
センターにメールしても返信がない。電話をしても話し中だった。毎時間のように来ていたメールがぱたりと来なくなった。
「明日、会社を休んで子育てセンターに行こう・・・」
と、話をしている時だった。テレビに緊急ニュースのテロップが流れた。
「子育てビジネスで急成長した『二十四時間365日完全サポート子育てセンター』が閉鎖されました。現在、社長の行方が分からなくなっているとの事です。以前より子育ての自覚を失った親による滞納が問題になっていました。また、離婚してどちらも養育費の支払いを拒否したトラブルも抱えていたようです」
了
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