男子高校生と姉の友人

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男子高校生と姉の友人

 部活帰りに異性の部屋に邪魔するなんてとんだ軟派野郎だ、と俺自身も思っている。一か月も通いながら、いまだに何とかフラワーの芳しい香りが漂う空間には慣れない。まるで自分だけが除け者のように感じる。  その香りを掻き消すように、出汁と砂糖と醤油の煮え滾る鍋の中に、切ったイカを入れていく。  隠し味にマスタードを入れたポテトサラダは冷蔵庫に仮眠させた。背中に刺さっている視線は、いつものことなので放っておく。  今日の味噌汁の具はワカメと油揚げ。最後に小葱を振りかければ完成だ。  役目を終えたザルやボウルをシンク移し、スポンジに洗剤を絞る。  その時、細いものを背中に当てられた。 「今日のごはんは何かな、(しん)君?」  振り返ると案の定、亜沙(あさ)さんが上気した頬を機嫌良さそうに弛めて、俺に背中に人差し指を埋めていた。握っているグラスには半分になった発泡酒が、威勢よく輝いている。  「それは里芋? 里芋とイカの煮物だ。 美味しそうじゃなイカ」  探偵の真似事か指で顎を掴み、真剣さを装った顔でギャグを言うものだから、思わず噴き出した。亜沙さんも垂れ気味な目尻をますます下げて笑い声を上げる。 「もう、真君が変なところで笑うから私も面白くなっちゃったよー」 「先に変なこと言ったの亜沙さんじゃないっすか」  えー、とグラスを煽りながら楽しそうにする亜沙さんに纏わりつかれながら洗い物をして、鍋の様子を見て火を止めた。味噌汁を温め直し、炊き上がったばかりの白米を大ぶりな茶碗によそっていく。  何気なく振り返ると、俺の作業の手元を見つめていた亜沙さんも顔を上げる。  ひまわりみたいな笑顔を向けられると居たたまれず、息を詰めて必要以上に作業に集中しようとしてしまう  食事を全て盆に乗せて、ワンルームのちょうど真ん中にあるローテーブルに持っていくと、亜沙さんは躾けられた犬みたいに定位置に膝を揃えて座った。  俺も彼女の向かいに腰を下ろす。  それを合図に手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。 「んー、美味しい! 信君天才!」  亜沙さんはハムスターのように膨らませた頬を押さえながら、甘い声を垂れ流す。この部屋に通い始めた頃などは、一口食んだ瞬間ラグの上に倒れ、心配しているうちにごろごろとそこら中を転げまわったものだったが、それに比べると、彼女の反応は幾分か落ち着いてきたので、密かに安堵している。 「里芋にもしっかり味が滲みてるし、ポテトサラダはコクがあって胡椒が聞いててビールに合うし、お味噌汁はしみじみおなかに滲みていくよー」  すごいねえと手放しに褒めるから、熱い顔を隠すようにそっぽを向いた。  その末に俯くと、味噌汁に茶色の雲が沈んでいるのが見えて、散らすようにぐるぐると掻き混ぜた。 「おうちであったかいごはんが待ってると思うと仕事も頑張れちゃうよ」  山盛りにした白米を順調に減らしていく亜沙さんの肩は細い。看護師という仕事柄、日々の活動量が多く、どれだけ食べても体重が増えないのだという。 「信君は学校どう?」 「俺は別に変わりないっす」 「部活で怪我とかしてない?」 「はい」  高校では柔道部に所属している。怪我など日常茶飯事だが、亜沙さんはいつもそれを気にしているらしかった。先日額に青あざをつくってきたら、彼女は途端に真っ青になり、冷蔵庫から保冷剤を持って走って来た。大袈裟だとは思うが、人に気にかけてもらうのは悪い気はしない。  両親はどちらも大雑把な人で、亜沙さんと同じく年齢が一回り離れている姉は石ころを蹴散らして歩く人だ。軽い怪我など笑いごとで済んでしまう。それが悲しいということもないのだが、亜沙さんの優しさが余計珍しく映るのは事実だった。 「美味しいねえ」  溶けていきそうな笑顔につられて、つい自分の頬も緩んでしまう。  最後の里芋を食べ終えた亜沙さんは、俺の顔を見ながら幸せそうニコニコしていた。視線に気付かないふりをして一気に味噌汁を飲み干し、手を合わせて食器をシンクに置きに行く。冷蔵庫を開け、中から目当てのものを取り出すと、後から食器を持ってきた亜沙さんが目を丸くした。 「デザート?」  両手に一つずつあるプラスチックのカップを探るように見て、ぱっと表情を明るくした亜沙さんが「わあ、ティラミスだあ」と声を上げる。 「どうしたの、それ?」 「作って持ってきました」  わあ、と予想通りの反応をする亜沙さんを再びテーブルに促し、テレビでバラエティー番組を見ながら二人並んで食べた。スプーンを口に含む度、隣からは鼻にかかった嬌声じみた声が聞こえてくるので、ずっと足の指の間に汗をかいていた。  亜沙さんが勢いのついた振り子のようにこちらを向く。 「信君何でも作れてすごいね。将来いいパパになるね」  ビールのグラスを傾け、ティラミスをつつき、それらの相性がいいのかは分からないが忙しない。  『パパ』という言葉にまるで現実味を感じていない自分に驚いた。いつでも両親の姿が将来の家庭像の手本になるから、いつか誰かと結婚して子を授かりたいという気持ちは人並みにあるはずだった。しかしその前に、自分の進路や方針を決める必要がある。今の俺にとって、それは朧のようなものだった。正直、亜沙さんが羨ましい。亜沙さんは、幼い頃読んだ絵本に影響を受けてずっと看護師になりたかったのだという。俺にはそういった志など一つもない。小銭の入っていない貯金箱に似ている。   「美味しかった! いつもありがとうね」  気付くと亜沙さんがスプーンを置いていた。  コーヒーシロップを含ませたスポンジが、口と胸の中を苦くする。    狭いシンクで一緒に洗い物をすると互いの肩が触れるので、いつも密かに縮こめている。楽し気に鼻歌を歌う亜沙さんの隣は、いまだ緊張するが、その暢気さが心地いい。  一通りの片付けが終わり帰り支度をしていると、亜沙さんの手が俺の頭を撫でた。まるで子どもにするように柔らかく。 「気をつけて帰ってね」  亜沙さんの声は綿あめみたいに甘い。 「はい。また来週来ます」  亜沙さんは俺をアパートの外廊下まで出て送って、離れてから振り返ってもまだそこに立っていた。俺の顔は湯気が出そうなほど熱かった。  家に帰ると、リビングには携帯を弄る姉のみちるがいた。 「おかえりー。亜沙元気だった?」  間延びした声で問うみちるに適当に返すと、姉はそれが気に食わなかったらしく唇を尖らせて喚いていたが、無視をしたまま自室に篭った。  倒れるようにベッドに飛び込む。  枕に何度も額を擦り付けたが、マッチを擦るみたいにますます炎が生み出されるだけだった。  ふわふわした手の平の感触が、離れ去ってくれない。 ***  部活に励み、その隙間に亜沙さんのところへ通っていた冬休みが終わり、憂鬱な三学期を迎えた。  来年度には受験が控えており、日が過ぎていくごとに背中に重い影が圧し掛かってくる。 「で、信は進路どうすんの?」  約束をしたわけでもないのに毎日俺の机に寄ってくる友人、春樹(はるき)が弁当の包みを解きながら尋ねる。俺はその話題を出されることを何よりも煩わしく感じているので、眉根を寄せた。 「まだ決めてない」 「暢気だなぁ。ま、お前ならある程度の大学なら入れるだろうしぃ? ギリギリに決めても問題ないかもしれないけど? うわっ、嫌味!」  春樹の一人芝居には目もくれず、昨晩の夕飯が詰まった弁当に箸先を落とす。  春樹に俺を揶揄う余裕があるのは、彼の進路が既に固定されているからである。トリマーになるための専門学校に行く、それが春樹の今後の目標だ。確固たる夢を追いかける人間に、俺のぼんやりとした不安は理解出来ないように思う。『希望する進学または就職先』を記載する用紙を提出期限ギリギリまで悩み、結局、答えの分からなかった答案用紙にでたらめを書くのと同じ気持ちで県内の無難な大学名を書き写す、息が詰まるような時間があることを知らないだろう。  希望の進学先や就職先に進めば、人生は安泰なのか。では、うちの姉が二年で美容師をやめてフリーターになったのは何故なのか。父が、天職だと言っていた営業職をやめ、渋々祖父の跡を継いで二十年も建築士を続けているのはどういう理由なのか。あべこべだと思う。目の前に並ぶどの道が正解なのか分からず、迷子になる。  箸が止まっていた俺の目の前で手を振り、「おーい」と首を傾げる春樹の口の端にケチャップがついているのを見て、浮いていた思考がすとんと足を下ろした。 「俺、何に向いてると思う?」 「研究職かなー。ほら、ハマるとしつこいじゃん。筋トレとか」  確かに後輩に指導やうんちくを垂れるほど書籍を読み込んでいるのは部内でも俺くらいだ。しかしそれは興味のある分野に限ったことで、他に研究したいことなど一つも無い。  また気がそぞろになっていた俺を友人は気の毒そうに見て、早く食べるように促した。  窓の外にはいつの間にか、柔らかくて甘そうな雪が舞っている。  次に亜沙さんのところへ持っていくデザートは何にしようか。  最近そんなことばかり考えている。   *** 「見て! ぷるぷる!」  亜沙さんはスノードームを初めて見た子どものようなきらめいた目を、揺らしたプリンに向けた。優しげな黄色の上に生クリームを絞って甘さを追加したそれを飽きずに見つめ、次に俺の方ににじり寄る。食後のひとときにしては不穏だ。 「近いっす」 「食べていい?」 「どうぞ」  『待て』をしていたわけでも無いのに、わざわざ了承を得る亜沙さんはやはり不思議な人だ。随分年上なのに無邪気過ぎる。その無邪気さから、不平不満も漏らさず仕事に励み、飯を食う余裕も無く、体を不調にさせていたと思うと、魅力的ではあるが哀れな長所だと思う。  姉の紹介で初めて会った日の、ゾンビのように顔色の悪い亜沙さんを思い出す。  人使いの荒い姉が『あんたバイトしてきなよ。亜沙の炊事係』と俺に唐突な命令しなければ、亜沙さんは今どうなっていただろう。これまで会った誰よりも骨の浮いた手首を見て、胸の中に赤いランプ灯り、サイレンが鳴ったのだ。自分が出張し始めて徐々に血色が戻り、僅かながら体積が増えたように見える亜沙さんの変化を見ていると、赤子の成長を見守っているのと同じように感じる。  ふと見ると、亜沙さんの手にあったカップの中身はたちまち消えていた。 「おかわりありますよ」  寂しくなったカップの底を虫眼鏡のように見る彼女は、困ったような、迷っているような顔をして「明日にとっておく……」と奥歯を噛みしめた。 「食べたかったらまた作るのに」 「贅沢だよ。こんな美味しいもの一回に食べちゃったら」  亜沙さんは立ち上がってシンクにカップを置いた。ついでに冷えた発泡酒の缶を手に戻ってくる。二本目だ。 「そういえば、みちるちゃんから聞いたんだけど、信君進路決まってないんだって?」  俺のすぐ隣に座って、亜沙さんはプルタブを上げた。カシュッと耳の中がくすぐったくなるような音を立てて、その琥珀色の炭酸を飲み下していく。  それが何となく嫌だった。俺の話が酒の肴のように思われているようで。  亜沙さんは絶対にそんなつもりは無いと分かっているのに。 「あ、別にそれが悪いってわけじゃないんだよ。ううん、みちるちゃんが心配してたってだけだからね」  言い終わるとすぐに缶を呷る。  気まずいのかもしれない。亜沙さんはもともとこういった話が得意なタイプでは無いのだ。  俺は引き結んでいた唇を開いた。 「やりたいこと無いんすよ。姉とか亜沙さんみたいに、子どもの時も夢なんか無かったし」  言葉とともに頭が重くなっていく。  亜沙さんはテレビを見ているふりをして、俺の声も一つも漏らさないように耳を傾けているようだった。少しの間を空けて彼女が喉の奥で唸る。 「私はね、夢はいくつになっても持てると思うの」  いつの間にか、彼女の背筋が定規をあてたように伸びている。柔和な表情を薄い朱に染めて、恥ずかしそうに指先で頬をなぞった。 「信君もこれから見つけられると思う。人はずっと同じところにはいないし、色んなことが起こるから。その準備をね、少しでもしておくのが今なんじゃないかな」  亜沙さんの声は優しいけれどいつもより硬質で、その硬いホースのようなもので絞られた心臓がぎゅっと苦しくなる。目の前の水たまりばかりみている俺に、まるでそれが駄目だというようにキャンバスに描いた青空を見せる、そんな大人の言葉には飽き飽きしていた。亜沙さんも同じことを言うのか。そんなに簡単に道が決められるならば、当の昔に決めている。そう上手くいかないから悩んでいるのに。  そんな胸の中の騒がしさが伝わったのか、亜沙さんは眉尻を下げて「だからね」と自分の腕を擦った。 「もうここに来なくていいよ? お勉強もちゃんとしないといけなくなるし。自分のこと優先させてね」  後頭部を拳骨で殴られたような衝撃に、俺は目ん玉は剥き出しになった。  『半年も』、いや『半年しか』かもしれないが、俺は真剣に亜沙さんに尽くしてきたし、そのことにやりがいも感じていた。週に一日程度の頻度だったかその日を楽しみにさえしてきた。それがこうも簡単に打ち切られるのか。    俺は憤慨し、そしてあまりのやるせなさに何も言えなくなった。  亜沙さんは静寂をつつかず、粘り強く待ってから、「ごめんね」と呟いた。その切ない声に、糊でくっついていた俺の唇が動く。 「そうします」  自分のものでないように沈んだ声を誤魔化すように、小さく咳をした。亜沙さんが気まずそうにビールを飲み干したのを見計らって、コートを持ち上げた。玄関でも振り返らない俺の背中に、亜沙さんが気を付けて帰るように言った。  俺は生返事をして、ストーブで温まった体を寒空の下に進めた。 「今までありがとう」  亜沙さんの、今生の別れじみた言葉は聞かなかったことにした。 ***  家で自重トレーニングをしなくなったのはいつからだろうか。二の腕を膨らませてみても、筋肉量が減ったようには見えないが、ベッドに寝転がり暇を持て余すようになったことで、以前よりも不健康になったと自覚している。  一学期の期末考査の学年順位は驚くほど下がり、両親は甚く心配して理由を聞き出そうとした。その様子を傍観していた姉は、恋人が出来そうだということで俺のことなど何も気にしていない様子で、よく携帯画面をタップしていた。『出来そう』って何だよ。    張り合いの無い毎日は、砂時計が落ちるように滞りなく過ぎていく。高校最後の夏休みは目前だったが、毎日講習が詰め込まれており、休みだなんて言葉ばかりで蜃気楼のようなものだった。  考えないようにしていたことがある。  あれから一度も会っていない亜沙さんのことだ。  姉が連絡を取っているかどうかも知らない。  あの日、自分のことばかり考えて別れてしまったが、自己管理の下手な亜沙さんは元気にしているだろうか。  ハーフパンツから伸びた足に、窓から入りこんできた夜風が頭を擦りつけてくる猫のように纏わりつく。天井の白い壁紙に、亜沙さんの肌の色を見た気がして目を瞑った。  ずっと、気になって仕方がないのだ。  ちゃんと食事を取っているか、辛い思いをしてはいないか、気になって。  ずっと、会いたくて仕方がないのだ。  縮んだバネが弾けたように起き上がった。  頭の中で手持ち花火が音を立てて火花を散らす。上がった呼吸と暴れる鼓動を収めようと、深呼吸を繰り返すうちに、景色の明度が上がった気がした。  やっと見つけた。 ***  亜沙さんは目を真ん丸にして、俺の頭から足の先まで舐めるように見た。  日勤ではないかと読んで十七時ちょうどに着くように家を出たのだが、部屋から漏れる光を追うようにインターフォンを鳴らしたのだった。驚きながら俺の部屋に招いた亜沙さんの顔は、やはりコピー用紙のように白かった。冷蔵庫脇のゴミ袋にはカップラーメンと栄養ドリンクの空がぎっちりと詰め込まれていて、まるで初めて炊事をしに来た時のような有様だ。  持っていたスーパーのレジ袋を下ろす。  亜沙さんは白目をますます大きくして、首を傾げた。 「信君、お勉強は大丈夫? 進路は……」 「その話、飯食いながらしてもいいっすか。亜沙さんまともなもの食ってないみたいだし」  亜沙さんは苦い顔でソファーに腰掛けた。 「大人しくしてて下さい。あと、勝手にやるんで」  そのまま俺は、春雨を茹でたり鶏肉に下味をつけたり、溜まっていたものを発散させるように無心で手を動かした。調味料は、最後に来た日のままの量が残っていた。本当に炊事をしないのだな、と改めて呆れを抱きつつ、それが妙に嬉しかった。  一つずつ料理が出来ていく。  サーモンとアボカドのわさび醤油和え、春雨の中華サラダ、鶏肉の塩麹唐揚げ、ニラ玉汁。  そろそろテーブルの上を片付けて、と言おうと振り返ると、間近に亜沙さんの顔があって悲鳴をあげそうになった。 「ねえ、信君。ビール飲んでいい?」  いつも勝手に開けていたくせに他人行儀だ。 「どうぞ。もうすぐ出来ますけどね」 「じゃあ待ってる」  亜沙さんは気の抜けるようなふにゃっとした笑顔を浮かべて、冷蔵庫を物色し始めた。  テーブルに食事を並べると、俺と亜沙さんは定位置に座った。亜沙さんが待ってましたとプルタブを上げる。  食事中、彼女は何も喋らなかった。  箸と食器がぶつかる音だけが室内に響き、亜沙さんは吸い込むように唐揚げを食べていた。  頬袋がはちきれそうだ。 「もっとゆっくり食べた方がいいっすよ」  流石に心配して声を掛けるも、思いきり口角を上げて目を細めただけで、亜沙さんの箸は止まらない。いつの間にかつられるように急いで白米を掻き込んでいた。 「で、信君の近況はどう?」  結局食べ終わってから話題を振られ、俺はマニキュアのはけの動きを止めた。  食事のついでに、と亜沙さんに頼まれ、華奢な手の爪に赤色のマニキュアを塗っているのだ。漸く最後の小指の爪を塗り終えようというところだった。  俺は一瞬、間をおいてから唾を呑み込んだ。 「決めました、進路。父と同じ建築士目指すことにしました」 「そっかあ、決まって良かったね」 「あと、もう一つ。亜沙さんにお願いがあります」  ん?と瞬きをする亜沙さんの顔をじいっと見て、居住まいを正す。 「ずっと飯を作らせてもらえませんか?」  ん?と再び亜沙さんは鼻にかかった声を出した。  俺は、生徒代表で卒業証書を貰う人と同じ顔をしながら言葉を繰り返した。彼女は右を見て左を見て、車に気を付ける小学生のようにしてから俺に視点を合わせた。その手はマニキュアのはけを握っている。 「手、貸して」 「……はい」  お手をする犬みたいに亜沙さんの掌に自分の左手を乗せた。  嫌な予感は的中する。  亜沙さんは俺の薬指に赤い花を咲かせ始めた。文句を言う暇も無く、その指は彩られていく。  塗り終わると彼女は立ち上がり、クローゼットの中に手を伸ばした。  自分の爪を桃源郷のように見つめていると、亜沙さんが戻ってきて「手、貸して」とまた言うので、もうどうにでもなれ、と右手を差し出した。  僅かにひんやりとした硬い感触は、鍵だった。 「うちの合鍵。持ってて」  ふふ、と悪戯っぽく笑って、亜沙さんは俺を玄関の方へ追いやった。  遅くなっちゃうから今日は帰ってね。またね。  亜沙さんの白かった顔は、りんごの色に変わっていた。 ***  初夏の匂いのする夜道を、踏みしめるように歩く。  足を動かすとと、右のポケットの内側に鍵の感触を感じる。  家族の目から隠そうと、左のポケットに入れた左手が熱い。  ポケットの中から夢のような幸福が溢れ出している。    彼女を笑顔にさせることが、俺の夢になった。
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