夏中のプリムラジュリアン 前編

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 d1c8f136-f484-48c5-b157-40cc3fe79b92 久しぶりに見る隅坂駅は、当時の面影がほとんど残されていないといっていいほどの、近代的なビルに生まれ変わっていた。東京から新幹線でさほど遠くないN県の県都N市、その隣町S市の玄関口であるこの駅の、木造平屋建ての旧駅舎が取り壊されて現在の駅ビルに変わったのは二十年ほど前だという。いま、N市駅発の私鉄に乗り込んでここ隅坂駅に降り立った四十代半ばと見える男性が、出口を探そうと車掌を呼び止め、案内を求めたときにそんなことを聞いた。彼が高校時代の三年間をこの駅に通っていたのは、今から二十五年前のことであった。あたりを見回しながら連絡通路を歩いてお城口まで出ていくと、様変わりした情景に、受験生時代に必死で覚えた四字熟語の〝有為転変〟という言葉が浮かんできていた。  だが、改札口を出て駅舎の外に出たとたん、目の前に現れた駅前の景色、狭い広場、そこはロータリーといえるほどのものではない広さの空間であったが、それが彼に当時の面影を瞬時に思い起こさせてくれた。今日は八月の十五日、旧暦の送り盆を明日に控えた暑い夏の日であった。 〝あの日もこんな暑さだった〟 男の最初の感想はこれであった。  ラクダ色のコットンスーツに薄グレーと茶色のコンビ靴、シーアイランドコットンの白いボタンダウンシャツには紺とグリーン、そして赤が整列しているレジメンタルタイを、合わせて緩く締めたいでたちは、この地方都市にある小駅の乗客から否応なく視線を浴びる。アメリカンファッション的なトラディショナルスタイルの服装からだけではないのだ、彼の体の大きさがその洒落た着こなしを強調していたのであった。男の身長は百八十センチメートルを優に超え、その体躯の大きさから百九十センチメートルほどの身長には見えたであろう。冷房の効いた列車内から外に出て、真夏の暑さを感じた彼は上着を脱いで肩にかけ、駅前の広場から二方向に分かれて走っている右側の道に向かって歩き出した。ゆっくりと、記憶を取り戻そうとするかのように、丁寧に周りを確認しながら歩を進めていくと、彼の脳裏に二十五年前の様々な情景が浮かんでくる。  その回想は、今日の行き先でもある、彼が通っていた県立男子高校の昇降口から始まるのであった。それは彼が高校三年生の夏のことである。  テスト期間中のこの日はその最終日であり、試験の時間割は昼までであったが、三年生の藤原優真は、テスト終了後、帰宅前に職員室に来るよう、担任の上原先生から呼ばれていた。いまその面談が終わり、帰り支度をしているところであった。 〝まったく、なんで俺のせいなんだよ〟声にならない独り言をつぶやきながらステップを降りようと玄関口まで行くと、下駄箱の陰から一人の学生が顔を出した。 「あの……」 声をかけてきたのは見覚えのある、美術部所属の二年生であった。 「おう」 「こんにちは」 「真木君、だったよね、どうも」 「え? 先輩、僕の名前を覚えてくれてたんですか?」 「だってこの前君が美術部の部室で、臼井から俺たちに紹介されていた時、一緒にいた俺の友達の原田って奴が、真木君、真木君って、しつこく連呼していただろう、だからさ。それにそれ以降、君は何度か校内ですれ違うたびに俺に挨拶してくれてたよね」 「うれしいです、ありがとうございます」  優真と特に気の合う仲間は一緒にいることの多い四人組であるが、その一人が美術部の臼井行雄で、臼井が最上級の三年生になったこの四月、美術部長である彼を訪ねて上級生がいなくなった部室にみんなで遊びに行った際、そこで知ることとなった後輩が真木君である。その時、一緒にいた仲間の、原田という友人がこの真木君の美男顔に、確かに男とは見えないほどのかわいい顔立ちの子だとは優真も記憶していたが、その原田は彼の美貌に魅入られた様子で、彼がお先に失礼しますと部室を出て行った後、臼井をはじめ仲間全員に〝真木君かわいいなあ〟を連発していたのだった。原田は見た目の印象がクマのような感じなので仲間からは〝クマだ〟と呼ばれていたのだったが、その日から彼のあだ名は〝ホモだ〟になった。優真はその後校内ですれ違うたびにこの後輩から挨拶を受け、優真もおう、と応える程度の間柄だったのだが、今日はわざわざ目の前に現れ話しかけてくるというこの後輩の行動に、あらたまった気配は感じていた。 「あの、先輩……」 「うん、何だい?」 「あの、……あの……」  優真はこうした状況から、彼がどうも自分を待ち伏せていたように感じられたが、にもかかわらず何かを言い淀んでいるようで不思議に思う。 「何だい、俺になんか用があんのかい?」 「あの……」しかし、ついに、今度は意を決したように言葉をつなげる。「あの先輩、お願いがあるんですけど、あの、今日、あの、これから僕と一緒に帰ってくれませんか?」 「???」話の内容はわかったものの、なぜその程度のことを自分に了解を求めるのか、その意味はわからなかった。しかし優真は元来細かいことを気にしないたちであり、というより細かいことに気を配れないたち、といってもよく、この申し出も生返事で受け入れた。聞くところ、後輩の彼は隅坂駅からN市駅に向かう本線の列車ではなく、百里川を挟んだ西側の路線である隅坂駅始発の「河西線」で通っているらしい。優真は本線である。したがって〝一緒に隅坂駅まで〟ということのようである。 「あ、そんなことか? 別にいいよ、道は天下の往来だ、どう帰ろうが君の勝手だしね」  それまで硬い表情であった後輩は、優真の気軽な快諾に一転嬉しそうに笑みを浮かべ、ありがとうございます、と礼をいった。 〝変な奴だなあ〟と思いながらも、実は今の優真の頭の中は別の思いでいっぱいであり、それどころではなかったのだ。それは今日の職員室での上原先生からの話のことなのである。  テストが終了し、本来であれば〝やった、やっと終わった〟などと、快い虚脱感を感じながら、ある者は息抜きに遊びに出かけ、ある者は二学期最後の行事である文化祭の準備に、またある者は次のテストや大学受験に備える、といったステップに移るのであろうが、今日の優真にそれは許されなかった。  藤原優真は、この地域ではちょっとした有名人であった。優真は彼が通うS西高校のバスケットボール部員であるが、二年生の冬に全国区になった。実は、彼は高校受験において、居住地であるN市の県内随一の進学校と、隣市の進学校であるS西高校を迷った末、バスケットで県ベスト4の常連であるS西高校を選んだ経緯があった。S西高校はバスケットで県内随一という強豪校ではないが常にそこそこの実績を残している高校なので、彼は学力で志望の大学進学も果たしながら、高校バスケットでは全国大会にも行きたい、と二兎を追っていたからであった。だが実のところ、彼は数学の成績に不安があり、中学の担任からも進学指導において、N市の進学校でも可能性はあるが危険性もある旨指摘され、結局この高校に来たという事情もあった。そして高校進学後、バスケットの才能は飛躍的に開花し、S西高校というチーム自体は、地方の、それもベスト4どまりのチームではあったものの、彼はプレイヤー個人として国体やインターハイ予選での活躍が注目を集め、ついに全日本U-18の選抜メンバーに選ばれたという経緯があったのである。地方新聞は言うに及ばず、中央紙やバスケット専門誌での紹介も何度か行われて地方のスーパースターといったところである。さらに、彼がこの地域で有名人であるという理由はそれ以外の要素も大きい。というより、彼はあることですでに中学以来のこの地域での同年代のスターであり、日本選抜などはそれに少し色を付けたに過ぎない、と言ってもよいものであった。  彼は、いわゆる〝いい男〟なのである。中学、高校といった時期においては、バスケットボールで活躍する男子生徒はただでさえそれだけで人気が出る場合が多いものであるが、彼はどう見ても非の打ちどころのない容姿を備えていたのであった。しかも身長は、バスケットボールの選手であるから当然と言えば当然なのだが、一メートル八十五センチほどもあり、決して筋肉質ではないが肩幅の広い堂々とした体躯の持ち主であった。したがって、彼のチームの試合当日における、他校の女子生徒からの応援はそれはすさまじいもので、大会関係者もその〝交通整理対策〟に頭を悩ませることがしばしばあったくらいである。これまでは部活動が毎日夜遅くまで続き、電車通学をしている彼の帰宅時間は夜であったことから、多くの学生が帰宅する夕刻の時間帯と重なることはなく、彼の利用する隅坂駅ではそれほどの混乱はなかった。しかし、三年生のインターハイ予選が六月で終了し、全日本選抜メンバーがいるにもかかわらず、チームとしては七月の全国大会に進めず、彼の高校生活でのバスケットが終わった。あとは、三年生と二年生以下との「追い出しコンパ」ならぬ「追い出し紅白試合」が夏休み中に行われるのみの予定となっていた。関東圏はおろか、全国の大学から彼のセレクション入学について引き合いが多く寄せられたものの、しかし彼は将来の夢をバスケットに置かず、普通に一般入学試験で自身の夢の実現を図るべく、その可能性の高い難関大学に進学したかったのだ。  つまり、彼は一般の高校三年生と同じく〝ただの受験生〟に戻ったのだ。そしてこれからそれまでの勉強不足分を取り戻すべく、帰宅組と同様の時間帯で列車に乗る毎日となっていたのだった。  その時間帯は多くの学生が乗降する。約半数は同市の女子高に通う女子生徒である。彼の人気は引退後も依然として不動のものであるから、隅坂駅には毎日彼を見ようと彼のファンが押しかけて混雑の極みであった。その結果、市民や一般乗降客から駅に苦情が何度も寄せられ、先日ついに駅長が高校を訪れて対応を要請してきたという。高校では善後策を協議したが良い案は見つからず、そして本日、彼はその処理を校長から押し付けられた担任の上原先生から呼ばれた、というのがいま現在の状況なのであった。 「だから、優真、何度も言うように、この状況、みんなに迷惑をかけているんだよ」 「……」優真は答えられない。 「な、だから頼んだぞ!」 「せ、先生、頼んだぞって、僕に何をしろっていうんですか」 「いや、それは先生にもわからないんだが。でもこれはお前の責任なんだから、自分でしっかり決着をつけるのが男ってもんだろう?」 「男ってもんだろうって、先生、ひどくないですか、そんなの」 「じゃあお前は、先生たちに何をしてほしいんだ?」 「そんなのわかりませんよ」 「だろう、してほしいことがわからないんなら、やっぱりお前が自分でするしかないなあ。な、そうだろう?」 「おかしいですよ先生、そんなの! それになんでこれが僕の責任なんですか!」  上原先生は一呼吸おいてから、そして少し強めの口調で言った。 「お前が優秀なスポーツマンでイケメンで、かっこいいってことだからじゃないのか! 他人が望んでもそんな三拍子そろった人間になんてなれっこないんだから、もう覚悟しろよ!」三十代の若い教師である上原先生は軽く嫉妬していた。 「ひでえなあ、めちゃくちゃじゃないか」 「とにかく頼んだからな、俺はこれから出張なんで、もう行くぞ!」と言いながら上原先生は何かの書類を抱えて立ち上がった。 「先生さあ……」 「藤原優真君、健闘を祈る!」教え子に敬礼のふりをして、上原先生はとっとと職員室を先に出ていってしまった。周りの先生や職員がクスクス笑っている。 「ったく、どうすりゃいんだよ……」  藤原優真というこの学生は、こうした時でもあまり怒らない。置かれた状況が分からないほど頭が回らないわけでもない。生まれつきの性格が、おっとりしていることに加え、進んで他人と対立する気がしない人間なのだ。ただバスケットの試合になるとその行動は一変するのだが普段はむしろ茫洋として見える。そしてまた、上原先生は若いが温厚で気さくな、頼りにはならないが学生みんなからの評判も高い数学の教師であり、バスケットの顧問だということも、彼がそれ以上食ってかかる気がしなくなる理由でもあった。 そしてその〝善後策〟とやらを考えながら昇降口まで来たところ、真木君に出会ったということなのである。  昇降口を出て歩き始めたとき、雨がポツポツ当たってきた。 「いけね、俺今日、傘持ってないや」 すると後輩の真木君が自分のカバンから折りたたみ傘を出して開く準備をし、そして言った。 「先輩、これ使ってください」 「え、だってそれは君の傘なんだから、俺はいいよ」当然という気持ちでそう言った。 「いえ、先輩なんだし、まだそんなにひどく降ってきてないから僕は大丈夫です、どうぞ先輩が差してください」 「あのさ、俺、先輩だからってだけでそんなことしたくないんだよ。じゃあこうしよう、せっかくだから傘は借りるけど、一緒に入っていこうぜ」 「でも折りたたみ傘は小さいから、二人で入ろうとすると結局二人共濡れてしまいますよ。先輩、どうぞ」 らちが開かないと見たのか、優真は後輩からその傘をひったくるようにして自分の手に取り、持っている自分のカバンの把手を口にくわえながら器用に両手で折りたたみ傘を開いた。そしてその傘を左手に持ち二人の間に差した。 「いいんですか、先輩?」 「いいもなにも、これは本来君のだから、でも俺も少し軒先借りるけど。悪いな、助かったよ」 後輩はとても嬉しそうであった。 しばらく無言で歩く時間が過ぎた。駅までは十五分くらいの道のりなのだが、五分ほど進んだとき、真木君が急に尋ねてきた。 「せんぱい……」 「うん?」 「あの、実は今日、こうして一緒に帰らせてもらいたかったのは、その、先輩にお願いがありまして」 「お願い? そうか、何だい、いってみな」実にフランクな受け答えが心地いい。 「……」 お願いがある、と言いながらなかなか話し出さない後輩に 「ん? どうしたんだい、いってみろよ」 と促すと、ついに覚悟を決めた、と言わんばかりに、真木君は優真を見上げて、そしていきなり、彼が驚く程の大きな声で言った。 「僕、先輩と知り合いになりたいんです、いいでしょうか!」一気に喋ってしまい、また前を向き、そしてはあはあと息を切らしていた。思い込んだものを吐き出してしまったあとの動悸であろうか。 「知り合いって、俺らもう知り合ってるんじゃないのか?」当然の言葉であった。 「あの……、それはそうですけど、なんていうか、もし〝友達〟って言葉を使うと、先輩と後輩の間だから、それは少し違う感じがしたので、僕そういう言い方を……」 「そうかなあ、俺は年が離れてたって仲のいい友達同士って奴らを知ってるし、それほど違和感はないけどね。でも、うん、友達になりたいっていう話なんだな? いいよ!」 あまりにも簡単な返答に真木くんは驚いている。この人はほんとに気さくな人なんだ、そんな風にも思った。もうお気づきでしょうか、真木くんは藤原優真のことが好きなのであった。 「ホントですか? 嬉しいな、ありがとうございます!」 「なんかそれも固苦しくないか? こんなの、自然とそうなるもんだろう、君とは美術部の部室の時以来、もう友達だったってことでいいんじゃないの」 後輩は、この鷹揚な性格の先輩の優しい言い方に感激し、また今日のこの瞬間を神様に感謝した。  雨脚が少し強くなってきた。優真は先程から自分より後輩寄りに傘を掲げていた。雨が強く降ってきたことでそれに気づいた真木君は、傘を差している優真の手を優真側にそっと押し返した。 「あ、おい、いいんだよ、お前が濡れちゃうよ」とっさのことで相手をお前と言ってしまったが、真木君はそれも嬉しそうで、 「ダメです、先輩を濡らすわけにはいきません、試合前の大事な体だし」と言う。 「だったらお前がもっとこっちに寄れよ」 「え」  そう言った瞬間、優真は傘を持ったままこの後輩の肩に手をかけぐっと自分の側に引き寄せた。  後輩の顔が少し赤くなったように思えた。 「……」言葉が出ない真木君は、そう、とても嬉しかった。 「な、友達ってのは、濡れないように二人で協力したり、濡れるときは二人で濡れる、そういうもんだ」  真木君はなぜかホロっときた、なんて優しくて、そしてかっこいい考え方をする先輩なんだろう、と。 〝好きっ!〟心の中で叫んでいた。  二人はしばらくまた無言で歩いた。真木君の無言は、嬉しさを抱えながら様々な想いを胸に抱いていたからであったろうし、優真の無言はこれから到着する駅での、自分のなすべき責務をあれこれ考えていたせいかもしれない。まだ何も思いついてはいないのではあるが……。駅まであと半分位の距離まで来たとき、後輩はさらに聞いてきた。 「あの、もう一つお聞きしていいですか?」 「なに?」 「先輩って、当然、彼女はいますよね?」 〝突然ストレートな質問だなあ〟と優真は思ったが、 「彼女? いたよ」とこれまたストレートに答えていく。  驚いたのは真木君であった。彼は、この素敵な人気者の先輩のことだから、彼女がいるのは当たり前だと思っていたし、しかももしかして複数いるなんてこともあるんじゃないか、などと勝手に想像していたのだ。だが「いたよ」という過去形の言葉に、彼の頭の中で期待のようなものが少しだけ浮かんだ。 「先輩、いま、いたよっ、ておっしゃったけど」  優真の返答は、しかし真木君の予想を上回るものであった。 「ああいたよ、彼女。だけど振られちゃった」 あまりの予想外の返事に真木君はさらに驚き、 「えっ、あ、あの僕、……ごめんなさい」  慌てる彼に優真は微笑んで言った。気にしなくていいよ、と。 「先輩、ほんとにすみません、僕、何も知らなくて」再度謝る。 「いいんだって、君が知らないって、そんなの当たり前だろ。気にすんなよ。一年前かな、父親の海外赴任についていくって言って。でね、俺を一人置いて、いっちまったんだよ」  最後の言葉は、長年連れ添った夫婦の片方が亡くなった時のセリフのように思えたが、この言葉は先輩の複雑な心情を素直に表しているものに思えた。真木君が聞いてもいないのに、優真は話を続ける。 「『優真、先に外国に行くことになっちゃってごめんね、元気でね、バーイ!』だってサバサバ言うんだぜ。俺の将来の夢を知ってて言ったんだろうけど、ふざけるなだよな、ほんとに。あんな風に簡単に気持ちを切り替えられるもんなのかな。病気がちだって聞いてたんだけど、それも違うらしくてさ、それはあとで分かったんだけど。ま、それはいいんだけど、俺さ、まゆみがほんとに好きで、彼女にはまゆみしか考えられないって思ってたんだよ、なのにあまりにあっさりしてて」 〝先輩を振る人なんているんですか?〟真木君はそう言いたかったが、言葉も出ないままじっと聞いていた。 「だからさ、もうどんな女が、どんなに女が、これから周りに現れたとしても、俺もう、なんか女ってやつが信用できなくてさ。そんなことにまったく興味がわかなくなってきてんだよな」「なのにみんなできゃあきゃあ、わーわー、挙句の果てはみんなに迷惑かけているって言われてよ」最後は今の優真を取巻く難題を思い出し、言葉が加わったのだろう、悔しそうに、そして寂しそうに、優真は独り言を言ったのだ。  雨は更に強まった。  真木君はいきなり傘を差している優真の腕にぎゅうとしがみついてぐっと寄り添った。その行動に驚いて彼を見る優真。すると、 「先輩、僕、さっき先輩が友達になってくれるって言ってくれて、とても嬉しかったんですけど、あの、友達じゃなくて、ボクとお付き合いしてくれませんか。あの、僕は男ですけど、友達ということじゃなくて、その、もっと心が通い合うというか、いえ、友達だって親友というものはそうかもしれないですけど、なんていうか、お互いを支えあっていける存在のような、そんな、友達より一歩進んだ存在というか、そんな間柄になることはできませんか。僕、そうなりたいんです、ずっと思っていたことなんです。僕はその人みたいに先輩を裏切りません、絶対に! こんなこと、男の僕が言って、気持ち悪いですか?」 〝はい?〟  優真の頭はいきなり混乱した。 〝言ってしまった!〟と真木君は一瞬後悔した。初めて会話したこの日に、そしてせっかく友達として接することができたというのに、いかに先輩の彼女の話を聞いて感情が高ぶってしまったのだとしても、自分の思いを一気呵成に伝えるにはまだ時期が早すぎたのではないか、と思ったのだ。 しかし驚いたことに、優真は寄り添った後輩の肩を、傘を持ったままの手で抱えてやっていた。そして抱えながら、 「真木君、君の言うように君は男の子だ。そして俺も男だ。でも今の俺の話を聞いて、なにか俺を慰めようとしてそんなことを言ったんだろ、ありがとな、余計な独り言を言ったばっかりに、君に気遣いをさせてしまったな」 〝違います、そうじゃないんです〟と言いたかったが、優真の方が先に話を続けた。 「確かに俺はいま、女の子に裏切られた気分が高じて、女性に興味はまったく湧かないけど、かと言って、俺はまゆみを好きだったように女の人が好きなんだと思う。あの原田が本当にそのようなタイプの人間かどうかはわからないけど、そういう人もいるんだと思うし、それについては俺はなんとも思わない。人は自由だ。もちろん君のことを気持ちが悪いなんて思うはずはないし、思ってもいない。こんなこと言って失礼かもだけど君はほんとに可愛い、そして見た目だけでなくその心遣いする優しさはすごいことだ。知り合えたことも良かったと思ってるさ。だけど俺にはそういう気持ちはないし、だからここは友だちで」  真木君は、この優真の〝友達〟という表現に、先ほどした一瞬の後悔を忘れてしまう。今日初めて打ち明けかけている自分の気持ちを、勇気を、振り絞って訴えている想いを、ここで中途半端なものにしてはそれこそ後悔する。そしてこの今の瞬間が、駅まであと数分のこの時間帯が、この空間が、最初で、もしかしたら最後のチャンスなのかもしれないと考えた。優真の言葉を遮って、ついに今日の最後の言葉を言ってしまう。 「先輩、僕、先輩のことが好きなんです! 一年前、先輩を初めて知ったときから好きで好きでたまりませんでした。今日、意を決して、勇気を出して先輩を待ち伏せしていたのも、僕の想いを伝えるためでした。昨日僕、夢を見ました。先輩に抱かれた夢を見ました。男の僕が、おかしいですよね! でも、今朝の僕は今まで生きてきて一番幸せを感じた朝でした。それが現実のものになるなんて、しようなんて、空想はしても現実には無理でしょう。でも僕はこの自分の気持ちを伝えることだけは、今日この日に、夢を見たこの日に、どうしてもそうしたくなったんです。駅への道行きを快く承知してくれて、また友達にもなってくれるということまで言ってもらって、それだけで最高の気持ちでした。でも今は、もしこれで嫌われてもいい、今日という、朝から僕にとって最高の日を精一杯生きたいと思って告白します。先輩、藤原先輩、愛してます!」真木君の目から涙が溢れ出てきていた。じっと聞いていた優真は、黙ってポケットからハンカチを取り出し、そしてそれを渡しながら言った。 「真木君、こんな俺にそこまで言ってくれてありがとな。でも、な、今日が君にとって最高の一日になるのは、何も今日一日で完結することを意味しないだろうし、むしろ、たった一日の幸せなんていうより、これからの方が大切だと思うよ。俺たちまだ知り合ったばかりじゃないか、確かに俺は、君が理想と考えている状態には近づけないかもしれないけど、男女の関係みたいのとは別の、男同士なりの付き合いというのもあるかも知れないし。これからまず友達としてそれを見つけていくきっかけに、今日という日を位置づけたらどうなんかなあ」  差し出されたハンカチを遠慮なく使って涙でびしょびしょにしながら、真木君は何度も何度もうなずいて優真の言うことを心に刻んだ。  駅への残り道もわずかになってきた時にこの込み入った話になったので、二人はしばらく駅前のショッピングセンターのビル陰で立ち止まって話をしていたのであった。真木君の涙もやがて収まったので、電車の発車時刻もあることから、また歩き出す二人であった。そこで優真は再び現実の世界に引き戻される。つい口をついて出てしまう。 「あ~、忘れてた、やだなあ、駅に着いちゃったよ」  真木君は鋭い。今日優真が担任から注意を受けたことなどは知る由もないが、毎日優真をウォッチしていた彼だけに、先ほどの優真と彼女の話にも照らし合わせ、優真が最近の駅での、真木君に言わせると〝バカ騒ぎ〟、に悩んでいることはすぐに察知した。 「先輩、なにか僕にお手伝いできることはありませんか」心配のあまりそう尋ねる。彼は恋する先輩のためになんでもしてやりたかった。 「うん、ありがとな。でも特に君に頼むことはね……」そうは言った優真だっ たが、その動きが一瞬止まったように見えた。だがまた歩き続ける。 駅に着いた。既に駅舎の前には女子高生の人だかりができており、雨だというのに、軒下にいる者や外で傘をさして待っている者もいた。うんざり顔で駅舎の前に着いた優真は、差していた傘を閉じ、二、三度振って雨露を払い、真木君にありがとう、と返してから中に入っていく。駅舎周りはすでにざわついている。簡単な露払いだったので真木くんが再度傘を開いてバタバタと雨粒を振り払ってから傘を閉じ、急いで駅舎に入っていくと駅舎内も大勢の女子高生で溢れかえっていた。入口から改札に進むためのスペース、人がかろうじてすれ違える程度の空間があるだけだった。〝相変わらず無意味な人だかりだ〟と真木君は不満を胸に進んでいくと、その空間の真ん中に優真が真木君の方に向かって立っていた。周りの熱い視線に耐えながら。 〝あれ?どうしたのかな〟と思い、傘を丸めながら優真のそばに近寄っていく。すると突然に……。  真木君が目の前に来たのを待って、優真は一呼吸置き、そしていきなり真木君の顎を左手で添えて上向きにした。一瞬の出来事であった。優真は腰をかがめながら顔を斜め前に倒してやおら真木君にキスをした。 〝え、なっ〟突然のキスに真木くんは驚いて目を見張る。  周りが一斉にどよめき、嬌声が駅舎を包んでいく。優真はその反応が一瞬のことだと想像していたがいつまでも止まない。そのためキスを続けることにした。するとそれまで目を見開いて驚きの表情でいた真木君が目を閉じ出し、静かに目をつむって優真のキスを受け入れ続けた。すると更にここで泣き声、そして怒号とも思える叫び声がわんわんと駅舎を揺さぶっていく。 優真は自身の予想した反応と異なる事の成りゆきに驚き、後輩の唇から自分を離した。目の前の真木君はゆっくり目を開き、その目は潤んでとろんと優真を見つめている。得も言われぬなんとも妖しげな表情に一瞬ドキッと感じるものがあったが、優真は照れもあって目をそらし、そしてゆっくり周りを見た。 口に手を当てて信じられないものを見たという表情の女学生、キャーキャー言いながら友人と手を取り合いぴょんぴょん跳ねている女子高生、泣き崩れてしゃがみこんでしまっている者など、収集のつかない大騒ぎになっている。 優真は自分の浅はかな行為を後悔し、自分のしでかしたことをどのように収めようかと考えたが何も思い浮かばない。  混乱していたその時である。 「優真、なにやってんのよ! このバカ!」大きく女性の声が聞こえた。 声がした方向、目の前にいる真木君の向こう側、駅舎の入口に、背の高いボーイッシュなセーラー服が仁王立ちに立っていた。 「あ、陶子」  陶子と呼ばれたその女子高生は阿鼻叫喚の渦の中、まっすぐ優真に近づいてきて言った。 「あ、とうこ、じゃないわよ! 相変わらずのバカね。こんなことしてどれだけ効果があるっていうのよ、ばか!」  大騒ぎの中、優真に近づいて話しかける陶子と呼ばれた女子高生の声は、周囲の騒ぎにかき消され、みんなには聞こえない。 「あんた、もしかしてこの毎日のバカ騒ぎを収めるためのサル芝居で、男の子にキスして、そっちのほうだと思わせたらここんとこの騒ぎが収まる、とでも考えたんじゃないでしょうね」 「あ、う……」優真は言葉も出ない。 「やっぱりそうか。ほんとにばか。あんたは少なくとも三つ間違いを犯したわ。この騒ぎを見てわかったでしょ、ここにいる女の子たちは、そりゃあんたのファンかもしれないけど、あんたがもし男の人の方を好きな人種だと分かっても、それで引いていくような、そんな子達だけじゃないのよ。この現象はそんなんじゃないの! そして二つ目、このキスされた子のことよ、彼の唇はどうなるの? こんな馬鹿な男に奪われて、あんたそれ、償えると思ってるの?」 「あっ」そこには気づいていなかった優真であった。 「ったく……」  すると隣で聞いていた真木君が口を挟み、 「あの僕は、別にそのことは、」言いかけると、 「あんたは黙ってなさいっ!」陶子にぴしゃりと言われてしまった。彼女は続ける。 「三つ目、あんたは昔からバカで、人に何を思われようが言われようが気にしないタイプかもしれないけど、この子はどうなるのよ。明日から、藤原優真に唇を無理やり奪われた男、って言われるのよ。あるいは、」そこまで言って、話の続きは何か飲み込んでしまう陶子であった。 「それにしても、あんたこれ、どう収めるつもりなのよ」 「うん、今それを考えて……」 「バカはそれ以上考えるなっ!」陶子の剣幕は凄まじい。 「ったくしようがないわね、じゃあここは私がやるわ、いいわね!」有無を言わせぬ迫力であった。優真はただ、〝ああ〟とだけ、やっと言えた。  陶子という女子高生は、それからやおら大勢の群衆を振り返り、声を張り上げた。 「ねーみんなあ、聞いてーっ!」少し新たなざわつきが起こった。陶子は繰り返した。 「ちょっと聞いてー、みんなあっ!」 陶子の声に駅舎にいる全員が注目し、静かになった。陶子は話し始める。 「ねえみんな、いま、ここにいる、みんなも知ってる藤原優真君がさっき、変なことしたでしょ、ちょっとおかしいと思って聞いてみたらどうやらこんな理由らしいの」 女子高生たちの新たな、静かなザワつきが起こったが、彼女は構わず続ける。 「あ、私はS東高の川島陶子といいます。この藤原優真君とは幼馴染です。実は私もさっき、みんなと同じでとんでもないところを目撃しちゃったんですけど、私の知っている藤原君としては少し行動がおかしいなって感じて、今聴いてみたんですよー。そしたら、彼、こうして毎日皆さんが集まってきてくれるのは嬉しいけれども、一般の方々、そしてこの駅に迷惑をかけているのが心配で、そしてなんか今日、学校からも注意されたらしくて、自分が男の子に興味を持っているということにしたら最近のバカさわ、いえ、最近のこの混雑ぶりが収まるんじゃないかって考えたらしいの。ね、バカでしょう? そしてここにいる後輩に頼んで付き合ってもらったって訳らしいの、この後輩の子もいかに先輩に言われたからって、従うのは同じくらいバカだけど、先輩から言われて仕方なくってところだったみたいなのでかわいそうな子なのよ」 陶子は真木君への影響を少しでも軽減しようと何気なく付け加える。ここでも真木君はまた陶子に何かを訴えようとしたが、それを察知した陶子にキッと睨まれ、黙ってしまった。 「要するにいけないのはバカをやった私の幼馴染のこの人なのよ」「私もそうだけど、みんなもこんな人に関わらないでもっと素敵な男の子を見つけましょうよ。駅にも迷惑かけるしねー。」 「あ、それでもまだこんな人を想いたいって人もいるかもしれないけど、そのときは駅に集まるんじゃなくて手紙なんか渡したらどうかしらねー。この人は駅への迷惑を心配してるんだから、このような集まりしてたら逆効果、損よねー。だから、そんときは東高の私に手紙を託してよ、私が届けてあげる。返事が行くかどうかはこいつ次第だから私はそこまで約束できないけど。ね、みんな、そうしようよぉ!」  呼び方が「藤原君」から「この人」、そして「こいつ」に変化してきたが、一貫して変わらないのは「バカ」呼ばわりだった。しかしこの大演説のおかげで先ほどの優真の行動へのショックもあってか、S市在住で徒歩や自転車通学の女子高生の何割かは帰って行き始めた。ふと気づくと、残っている女子生徒の中には実業高校のスケバングループもいたが、彼女らはさっきから騒ぎもせずにじっと陶子の演説を聴いているのみであった。また、駅舎の片隅の隅の隅に、見覚えのある顔があった。優真は気づかなかった様子であるが、それは原田だった。彼は今日の事件に最初から出くわしていたが、心なしか顔色が優れない。徐々に駅舎の人波が動きを見せ始めた、ちょうどその時、駅のアナウンスで陶子や真木君が利用している「河西線」まもなく発車の知らせが案内された。  河西線を利用している学生が一斉に改札口に向かう。今日のところはこれで収まりそうであった。 「じゃあ私も行くね」川島陶子は優真に言った。「優真、勝手にあんなこと言って悪かったけど、私にはこれしか考えつかなかったのよ、勘弁ね」 「あ、いや、助かったよ陶子、俺お前に……」  優真がまだ話しかけているにも関わらず、川島陶子はさっさと改札口へ向かっていってしまった。そのあとを何人かの別の学校の女子高生が何やら陶子を追いかけ、話しかけている。 「あの人、すごいですね」取り残された真木君が優真に言った。 「ああ、気が強いだろ、あれで女なんだぜ」優真が陶子を目で追いながら言うと、 「いえ、素晴らしい人、という意味です」 〝ほんとだな、あいつはいつでもすごいや〟優真も心の中でそう呟いた。それから真木君の方を向き、謝った。 「真木君、ほんとに悪かったな、陶子の言うとおりだ、俺は自分のことしか考えていなかったみたいだ、恥ずかしいな。もしかしたら取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないけど、そして謝って済む話ではないかもしれないけど、とにかく謝る。すまなかった」優真は深々と頭を下げた。 「先輩、やめてください。僕は平気です、というより嬉しい……」  優真が真木君の話の腰を折る。 「あ、おい、君は河西線だろ、急がないと出てしまうよ。今度ゆっくり謝るから、今日は行かないと」後輩の列車を気にする優真であった。  すると今度は落ち着いた表情の真木くんが答えた。 「先輩、僕、今日は問題集を探しにN駅前の泰平堂に行きたいので、本線に乗っていきます。もう少しご一緒してもいいですか」 「ん?ああ、そんなのいいけどさ。あ、そしたら俺も君に謝る時間ができるしな」 「ですから先輩、それはもういいですってば。僕、嬉しいんですから。たとえ目的の違うキスであっても、先輩とキスできたことは僕にとって一生の宝物です!」  きっぱり言われて優真は戸惑う。気恥ずかしさもあり、また先ほどのショッピングセンター脇での話になるとややこしいと思い、 「さ、ホームに出てようか」N市行きの列車到着までまだ十分ほど時間はあったが、改札をくぐることにした。優真が先に入っていき、真木君はといえば通学路線の違う区間の乗車券をわざわざ買いにいき、そして後ろから追い付いてくる。ホームへの連絡通路である地下道を降りようとしたとき、後ろから優真を呼び止める大声が聞こえてきた。振り返ると、悪友の臼井、水尾、塚本が追いかけてきた。 「待てよ優真、一緒に帰ろうぜ!」などといってくる。おう、と優真は答え、   真木君を含めて五人が一団となって地下道を進む。そこで塚本という同級生が軽口を叩く。 「優真く~ん、なんか今日の隅坂駅は女子高校生がとーっても少なく感じたんだけど、これ、あれかな、いよいよ君の人気が凋落してきたって兆しかなあ」嬉しそうにからかってくる。優真は無言でそれには答えず、真木君に向かい、 「あのね君、この人たち、何か俺のことを知ってる人達らしいけど、あまり親しくないんで、まったく相手にしなくていいからね」などという。それぞれ、え~、ショックう、とか、おいおい優真そりゃないぜ、などと反応する。真木くんは優真の言い方やそれに対する三人のリアクションに思わず笑ってしまった。塚本はまたまた人気凋落説を蒸し返してきた。反対方向の列車に乗る予定の臼井が、別れる前に優真の反応を見たいと思い、塚本を無視する優真に聞いてきた。 「優真、塚本がしつこく人気凋落説を唱えているけど、お前はどう分析してるんだ? お前の神通力は消えちゃったのか?」塚本に輪をかけた揶揄のようにも聞こえる。  すると優真はこう答えた。 「私がバカの言うことは無視する人間だということは皆さん知っての通りです。私はこのようなろくでもない方の質問にはお答えできません」  わっと盛り上がりながらホームへ登る階段のところに来た。そこで逆方向へ帰る臼井と別れ、四人は階段を登ってそろってホームに出た。ホームはN駅に向かう高校生でごった返していた。地方都市の電車は学生の登下校時にはいつもこのような状況である。いつものように先頭車両が停車する辺りに向かっていると、後ろから原田が追いついてきた。心なしか元気がない。  そこへ三両編成の列車がホームに滑り込んできた。彼らは先頭で乗り込んだがもちろん座席など空いておらず、すでにつり革に捕まっている隣町の高校生がちらほらいる。S駅でどっと乗客が乗り込み、結構なぎゅうぎゅう詰めになっていく。周りは男子学生だけではもちろんない。男女入り混じっての混雑である。そんな中で原田を加えた五人は他愛もない話に花を咲かせる。優真は真木くんの方を見て、ごめんな、と目で合図を送る。こんな混雑の中ではさきほどのことを謝るもなにもあったものではないからだ。  塚本が先ほどの優真の言葉尻を捉えて突っかかってきた。 「おい優真、お前、さっき俺のことをバカとか言ってくれたな、俺はなあ、一昨日の物理のテスト、43点取れたんだぞ、お前は赤点だったそうじゃないか、お前のほうが馬鹿だと認めろよ」いきなりの暴露に優真は苦笑していった。 「俺は物理と相性が悪いんだよ、はいはい、わかりました、塚本君、僕は君より馬鹿ですよ」先ほど陶子からバカ呼ばわりされて慣れっこになっていたわけでもあるまいが、優真はここでも皆を笑わせる。 「でもさ塚本」水尾が言う。「優真は今回も英語は93点で学年トップだぜ、国語も三位だったらしいし、お前は何点だったっけ」 「う、うるさい、俺は英語と相性が悪いんだよ」優真のセリフをそっくり真似てこちらも皆を笑わせた。真木くんはこの仲間のやり取りが自然でやさしい雰囲気だということに心地よさを感じながら黙って先輩たちの話を聞いていた。今日はもうこれでいい、と思う。というより、今日は最高の日だ、なんとキスまでされたんだから、そんな幸せな思いでいっぱいだった。するとひょうきん物の塚本が真木君に話を向けてきた。 「ねえ君、君、真木っていうんだろ、君ってすごいんだってな」 「え……」と真木君。 「おいお前らよ、俺、山田先生に聞いたんだけどさ、この真木君って、すげえ優秀で今すぐ東大を受けても合格するだろうと言われているくらいの秀才なんだってさ」  一同驚く中で、真木君は必死に否定する。 「いえ、僕、そんなんじゃないです、先輩、それはなにかの間違い、誰か別の人の話じゃないですか?」 「いいじゃないか、そんなに謙遜しなくたって、みんな知ってるぞ」塚本は応じる。 「いえ、だから僕は、」あくまで抵抗する彼に塚本がさらに言う。 「なあ君、ひとつ聞かせてくれないか、東大に合格できるって話はさて置いといてさ、いつもの君の成績は学年でどのくらいのところにいるの? やっぱりトップかい? 教えてくれよ、いいだろ、先輩が聴いてんだからさ」  困っている真木君に優真が助け舟を出す。 「おい、そんなことどうでもいいじゃないか、人の成績のことなんて。それより塚本、お前自分のことを考えるほうが先だろう、上原先生が言ってたぞ、このままだとお前は青学にも受からないだろうって。文系のくせに英語はからきしダメなやつだから、ってな」 「あ、優真お前、それを言うか、だったら俺も言ってやるよ、上原先生が言ってたぞ、優真はこのままじゃ早稲田危ないって。部活ばっかりやってたから、部活が終わったんだから早く取り掛からないと間に合わないのにのんびりしててヤバイってな!」友人同士の暴露話っぽいやりとりだが、まともな内容の論戦ではあった。 「おいおい君たち、こんな電車の中で恥ずかしいなあ、二人共バカなんだから少し静かにしてくれないと、俺や真木君がお前らと同等に見られてしまうじゃないか」水尾が言うと、 「お前こそ脳みそ筋肉のくせに、国立を狙ってるなんて、おこがましいんだよ。上原先生が言ってたぞ、国立受けるのに数学があの成績じゃなあ、って」  塚本はまた個人情報を提供する。水尾は柔道部なのである。ところで、この会話の中身が本当だとしたら、上原先生というのは、生徒の重要情報を他の生徒に対して漏らしまくっているということになり、これはこれで問題なのではないか、三人ともそう思いながらも、あまりそこは気にしない様子である。上原先生という教師はそれほど生徒に評判が良いのであろうか。しかしおかげで、この会話だけでこの三人のある程度の成績状況が把握できるような気もする真木君であった。  三つ目の駅に着き、塚本が降りていった。 「たく、あの塚本の軽さはなんとかならんかね、なあ原田」水尾が部活仲間に言う。そういえば原田は先程からこの会話に加わらずただ仲間の傍に立っているだけであった。 「あ、うん……」と生返事。  四つ目の駅で水尾が降り、三人になった。すると原田が今日初めて口を開いた。 「おい優真、お前はひどいやつだな」  いきなりなんのことかわからず、優真は聞き返す。 「あん?」 「しらばっくれるなよ、あいつらはさっき駆け込みで駅に来たからまだ知らないけど、俺はあの騒ぎを最初から見ていたんだよ」 「おいおい、しらばっくれるってなんだよ。俺は原田がさっき駅の隅っこの方にいたの、知ってたよ」 「なにい、知っていて俺に何も言わないってのか?」 「お~い、わからないぞ。何を、何のために、俺がお前に話さなきゃなんないんだよ。お前らしくもない、言いたいことがあるんならはっきり言えよ」 「あくまでそういう態度なんだな」 「だから、ほんとにわからないんだってば」優真は原田のいつもの冗談が出るかと思って聞いていたものの、さすがに嫌になってきた。すると、 「おい、お前さっき、俺の真木君にキスしたろう!」 「ああ、お前の見ていたとおりさ。それで?」と受け答えの後、〝ん? 俺の真木君?〟やっとわかってきた優真だった。 「お前、ふざけるなよ、俺が彼を好きなのを知ってるくせにあんなことをして!」  どうやら冗談ではなく、やや本気で怒っているらしい。  優真はさすがに声を落として問いかける。 「お前さあ、気は確かか、こんな電車の中でそんなことを、しかも本人がここにいるんだぞ。それにそれはお前の勝手な想いだろ?」 「うるさい、場所がどこだろうと、本人がいようと、おれはいま頭にきてるんだ。そうさ、俺の勝手な思いさ。だけど親友のお前が俺の真木君の唇を……」  さすがに原田も声を落としている。N駅まではあと三駅となってきており、車内は大分空いてきてすぐ周りに立っている乗客はいなくなっていた。しかしそのぶん、車内は静かになっていて声は遠くまで通るのである。 「おまえなあ……」優真は呆れ果てて返す言葉も見つからない。 「あの、」となりで聞いていた真木君が口を開く。「あの、ちょっといいですか。原田さんだからこそ、僕、言いますが」  原田の顔が明るくなった。真木君に声をかけられたからだ。しかも〝原田さん〟と、名前まで覚えてくれていて、また、〝原田さんだからこそ〟と、自分を特別視してくれたような表現に、原田は期待を込めて真木君に向き合った。 「なんだい?」嬉しそうに応える原田。 「あの、原田さん、お話を伺っていると、どうやら僕に興味を持ってくれているようですが、あの、それはとてもうれしいのですが、僕は原田さんには興味はないんです。と言いますか、僕が好きなのは藤原さんただひとりなんです」  なんという残酷な、というか、考えてみれば当たり前の宣言であった。原田は期待していた分がっかりした様子だったが、驚いたことに直ぐにこう言い放った。 「そうか、わかったよ、俺の真木君、きみ、いつか俺を振ったことを後悔させてやるからね、その時俺に近づいてきても、もう遅いよ」 〝お前は何を言ってるんだ〟優真は呆れて声も出なかった。その時、原田が降りる駅に到着するというアナウンスが放送された。原田は、今度は優真に向かって、 「優真、俺とお前はいつまでも親友だ、こうなったら仕方ない、俺はお前のためにこの勝負から降りる。身を引くよ。お前はもう俺のことを気にする必要はないから、気兼ねなく付き合いなさい! だが彼を不幸にしたらこの俺が許さないからな、覚えておけ」そういってさっさと降り立っていった。 〝バカか〟優真はこの〝親友〟が本当に馬鹿だと思った。  原田のせいで気まずいような空気が流れ、しばらく二人は黙ったままで電車にゆられていた。次はもう優真の降りる駅である。あの悪友たちに呼び止められ、くだらない話をしたおかげで、この目の前にいる後輩に先ほどのことを謝罪する時間が無くなってしまっていた。優真は今日のうちに謝りたいと思った。そして真木君にあることを提案した。 「なあ真木君、」 「せんぱい、お願いがあります!」先に言われてしまった優真は、なんだい、と答える。 「先輩は駅までの道のりで、僕と友達になってくれるといいましたけど、さっきの件や今の、その原田さんの話とかで、その、そんな気はなくなってしまいましたか?」 「え、別にそんな、気なんか変わってないよ」と優真。 「ホントですか、嬉しいです、とっても」「だったらお願いです、僕のこと〝真木君〟とは呼ばないで、これからは真木、と呼び捨てにしてくれませんか」 「お、いいよ、君がそれでいいならさ、真木、ね」快諾を得てほっとした表情の真木君に対して、今度は優真が頼みごとをした。 「あのさ、真木は今日これから泰平堂に行くって言ってたけど、その前にちょっと二、三十分ほど時間取れないかな」  なんのための時間を要求されたかわからない真木君だが、速攻で快諾する。 「ええ、もちろんいいです」 「悪いな、泰平堂に行く時間が遅れるし、もしかしてN駅からお前の家までのバスの発車時間に遅れちゃうかもしれないけどさ」「それと、東大を目指す後輩の貴重な勉強時間を奪っちゃ申し訳ないけど」 「嫌だなあ、さっきの塚本さんの話なんて嘘ですよ。信じないでください。ところで今の話ですけど、気にしなくていいんですよ先輩、実は泰平堂に行くのは口実で、さっきあんなことがあったし、もう少し先輩といたいと思っただけなんですから。今のお話だと、さらに二、三十分、一緒にいられる時間が増えたって考えていいんですよね」 「うん、……そうか、ありがとう」優真という男は不思議な人間である。細かく気を使うと思えば天然なところもあり、このように時間をもらうことに賛同を得たら、もうそのことについては忘れて次の行動に移せる、危ないくらい素直な男なのである。  優真の降りる千行寺下駅に着いた。ここは全国的にも有名な千行寺という寺社の最寄り駅なのであった。 「悪いけどちょっとここで降りてくれるか」 「はい」なんの質問もせず、言われた通りに一緒に下車した。  駅舎は上りホームの反対側にあり、優真たちはホームの突端にある線路を渡って向こう側の駅舎に行くしかないという駅であった。今降りた上り線の列車が通過するまで待ち、二人は改札に行く。小さな古びた駅舎であった。しかし、駅の中は老人たちのグループでいっぱい、駅舎内の三方にある備え付けの木製のベンチシートは埋まっていた。 「え~? 今日はどうしたんだろう」優真が困ったような顔で呟いている。 「どうかしたんですか」と真木君が聞く。 「実はさあ、さっきの件の決着っていうか、いや、決着なんて失礼だな、決着つく問題じゃないかもしれないんだけど、なんか今日のことは今日、絶対に君に謝りたくてさ、だからここで降りてもらったんだけど」続けて言い訳のように言う。 「ここはいつもガラガラで、乗客なんてほとんどいないから、ここで話をして、次の列車でN駅まで行ってもらえばって、そう思ってたんだけどね。これじゃ話もできないや」  真木君はくすっと笑い、 「なあんだ、そんなことだったんですか。でも、ほんとに、謝るなんて必要ないですから。僕、そんなの受けつけませんからね」少し軽めに冗談っぽく言う。 「うん、そう、じゃあそれはまた今度にするわ。せっかく降りてもらったけど、悪いな」そう言って真木君のために次の上り列車を、切符売り場の上部に掲示されている時刻表で確認する優真だった。真木君も、既に今日はこのまま別れることになるだろう、さらに、先輩のことだからどうせ次の発車時刻まで一緒に待っていてくれるつもりだろうと考え、先に帰ってほしいと促した。 「先輩、あの、僕は電車が来たら勝手に帰りますから、どうぞ先輩はお帰りください。今日はほんとうにありがとうございました」と挨拶したが、つい何気なしに「先輩の家ってここから近いんですか」と付け足した。  その瞬間、優真が、あ、という表情をし、そして言った。 「なあ、俺の家、ここから歩いて七、八分なんだけど、ちょっと寄っていかないか」 なんという行幸、真木君の顔は晴天の日のように晴れやかになった。 「え、いいんですか」遠慮などしたくない彼は、先輩の提案に飛びつくように応えた。 「いいさ、でもちょっと二、三十分の約束じゃなくなってしまうけど、いいかな」 「いい、いい、全然平気です」心変わりしないかを恐れるように一気に承諾する。  この駅舎は中は狭いが、駅を一歩出るとその前は砂利が敷き詰められた広いスペースとなっていて、北の方角に向かい線路に沿ってそれは広がっていた。ここはこの鉄道を経営する電鉄会社のバス部門の車庫となっていたのだ。下校時からここまでに起こった出来事、これからの時間への期待、に加え、狭い駅舎から広々とした屋外に出たことで真木君は心がはちきれんばかりになっていた。駅から南に向かうとすぐに狭い道路に突き当たり、そこを右に十メートルほど千行寺参道の方に登ると、川沿いの道と交差した。それを今度は左に折れて優真は歩いていく。用水のような幅二メートルほどの川に沿って続く、車が一台やっと通れる程度の小道を二人は歩いていく。道の左側は平屋の家が延々と連なっており、時折八百屋や魚屋といった個人商店が現れる。進む道路の右側は川であり、その向こう岸は川を挟んで壁とも言える石垣が三メートル程度の高台として連なっている。川の所々に、この狭い道路から右手の高台の家に入れるよう、家の敷地ごとに小さな橋が掛かっていた。五分ほど歩くと少し先に東西の道路と交差する少し広めの橋が見えてきたが、その手前十メートルほどの場所にも右手高台への入口橋が架かっており、その前で優真は一旦歩みを止めた。 「ここなんだよ」  真木君が仰ぎ見た高台へは、橋の向こうに普請された奥の敷地へと続くように作った階段があり、その先に、そのまた奥にあるであろう家屋の二階部分だけが見えていた。橋を渡った階段の左手には大きな柿の木が聳えていた。優真に案内されて階段を上がり、高台の土地に上がると、まず小さな門があり、その門の奥右手に二階建ての家屋、左手に庭といった配置の家屋が目に入った。庭石を伝って家屋正面にある玄関に着く。優真はカバンから何やら取り出して玄関の扉に向かう。鍵であった。 「うちは昼間、母親が仕事に出ているもんだから、今誰もいないんだ。何も出せないけど悪いな」おもてなしができないことを詫びているのだ。 「そんな、僕、そんなの全然。というより、いいんですか、僕なんかが上がり込んで」  優真は真木君がなぜそんな事を聞くのかと不思議だったが、親のいない間に未成年が勝手に自分の家に友達を連れてくるということが何か問題なのかな、そういう家もあるのだろうな、と、そのくらいに考えて特に答えもしない。 「さ、入ってくれ」広めの玄関に招き入れる。  おずおずと歩を進めながら正面の壁を見ると小さな絵がかかっており、その奥の廊下の先に二階への階段が見えた。 「俺の部屋は二階なんだ、あがってくれ」と、先に階段を上がって行き、真木君はそのあとを付いていく。廊下の右側にドアがあり、廊下の突きあたりには別のドアが正面にあった。手前のドアを開けて招き入れる。八疊ほどの洋間で、床は木調のフローリングであったが、そこに絨毯、というより目の詰まったマットとでもいうものが約半分ほどのスペースで敷き詰められており、左奥に大きなベッドが置いてあった。反対側の窓際にこれも大きめな学習机があり、備え付けの洋服ダンスの扉の横には扉付きの書棚もあった。ベッドは優真の身体の大きさに合わせた特注っぽいもので、調度品が全て大きめであるため、八畳の部屋も相当狭く感じる。 「ちょっと待っててな」優真はそう言い、「あ、狭いけど、好きなとこに座ってて」「といっても、座れるところってベッドの上か、勉強机の椅子しかないけどな。臼井たちが遊びに来るとみんな大抵ベッドに腰掛けてるけどな、まあお好きにどうぞ」そして階下に降りていった。真木君は少しドキドキしながら、ゆっくりとベッドの布団の上に腰掛ける。突然昨夜の夢が蘇ってきて鼓動が激しくなってきた。 〝先輩はここで寝てるんだ〟  そんな思いに何か自分が特別な存在になったかのような錯覚をし、しかしすぐにまた、〝君たちは男同士だよ〟という何処からかささやいてくる言葉にそれを否定され、何かを追い払うように頭を振ってからシンプルなその部屋を見回した。真木君の頭の中には期待や不安、様々な思いが交錯していたが、ただ全体としては自然と笑みが浮かんでくるほど幸せな気分ではあった。 〝今日は本当にいい日だよお〟空に向かって叫びたかった。  書棚の中には教文社の赤本、「早稲田大学」「慶応大学」「明治大学」が並んでいた。机の上には電気スタンドと、シャープペンやマーカーペンが刺さったペン立てが置いてあるだけである。真木君は部屋をじっくり見回して優真の人となりを推測していくのであった。 「お待たせ」現れた優真は麦茶の入ったグラスを二つ乗せたお盆を持っている。「お茶しか出せないけど勘弁な」 「とんでもない、構わないでください先輩」  優真はほとんど何も置かれていない学習机に盆を置き、グラスを両手でそれぞれとってその一つを真木くんに渡した。礼を言って受け取る真木君。一口飲んで「おいしいです」と言う。麦茶がそんな美味しい訳ないだろ、とからかわれたが、彼には本当に美味しいと感じる至極の味に相違なかった。 すると優真は真木君から「いいかい?」と言ってグラスを取り上げ、机の上の盆に戻し、自分のグラスもそこに置いて真木君の少し前に立つ。そしてやおらひざまづいた。 「真木、今日は本当に悪かった。申し訳なかった。陶子の言うとおり、俺はなんの後先も考えずに行動してしまう馬鹿者だ。君の負った深い傷はこれからどう癒していけるのか、俺はそれをどのように償っていけばいいのかわからないが、とにかくまず謝る。許してもらえるものでもないと思うが謝るっ」と頭を下げる。  驚いたのは真木君である。 「先輩、やめてください! さっきも言ったでしょう、僕は少しも傷なんか負っていないし、これからのことだってなんにも心配していません。先輩、聞いてください、僕、嬉しかったんです。こんな事を言うと嫌われちゃうかもしれませんが、今日一日は特に自分に素直に正直に生きると決めましたから、気持ち悪いと言われようが何と思われようが、僕、言います。先輩、僕、先輩のことが好きなんです。大好きなんです。だからその先輩にキスされたこと、僕、死んでもいいと思うくらいなんです。先輩が僕にキスした理由があの陶子さんとかいう、先輩のお友達の言う通りであったとしても、僕にとっては嬉しいことだったんです。だからもう、僕に何かをしてしまったっていう考えはやめて、どうかそれ忘れてください。そうでないと僕が困ります」  だが優真はしばらく頭を上げなかった。 「先輩、顔を上げてください!」真木君はベッドから優真のそばに近寄り、彼の肩を掴んで顔を上げさせようとした。頼みますから、の声にようやく顔を上げた優真は「ほんとにいいのかい」と聞いた。 「だからいいも悪いも、僕、嬉しいんですってば。陶子さんという人には悪いですけど、あの人、素敵で明晰な女の人ですけど、僕のことに関してだけは間違ってます。僕のことを思って先輩を叱ったんだってことはわかりますけど、この点だけは陶子さんは何も分かっていません。僕の想いをわかってはいません!」  真木君は優真になんとか信じてもらいたくて一気に喋った。  しかし実は陶子はすでに、この可愛い、優真の後輩の心の奥に潜む特別な感情を見抜いていたのではあった。先ほど優真を叱っている最中に「明日から、藤原優真に唇を無理やり奪われた男、って言われるのよ。あるいは……、」そこまで言って、話の続きを飲み込んだ陶子の心の中には、すでにこの後輩の優真への感情は伝わっていたのであった。そこまでの言葉を言うことは、あの時点では関係のないこととして飲み込んでいただけであった。 ゆっくりと身を起こした優真は、じっと真木君を見つめてから一言だけ聞いた。 「真木、本当にいいんだな!」 「はい、嘘ではありません。先輩、信じて。全く気にしないで、忘れてください」  優真の転換の速さには、一体この男はどういう神経なんだろう、と考えてしまうことがある。 「そう、じゃあお前の言うとおり、もう何も言わない。最後に、ありがとう」そしてすっくと立ち上がった。  真木君はとても喜び、この雰囲気を壊すまいとして盆の上のグラスをとって、もとのベッドの位置に腰掛けた。優真もそれを見てグラスを取り、真木君の隣に座ってぐっと全部を飲み干した。 「この麦茶、うまいな!」ほっとした感情が麦茶の味を倍増させたようだ。それを聞いた真木君は嬉しそうに自分もまた一口飲んで、「おいしいです」といった。  その後、二人は並んで座りながら、真木君が〝陽平〟という名前であることを自己紹介したのを皮切りに、優真が父親を早くに亡くしてそれからは母親に育てられていること、姉がひとりいるが外国人と結婚して今は海外にいることなど、そして真木君も父母が離婚した後、今は再婚相手の義理の母親と二人で暮らしており、一人っ子だということ、などそれぞれの境遇や、それこそ先ほど電車の中で話題となったお互いの進路進学のことなどについて会話した。 先輩は早稲田を狙っているんですか、という話題の後、「そういえば、」と、突然に真木くんが話題を変えてきた。 「さっき先輩が、もう何も言わない、と言ってくれたとき、〝お前〟と呼んでくれましたよね」 「え、そうだったかな、だったらごめんよ」  真木君は慌てて説明しだした。 「ち、違うんです。僕、あれがとても嬉しくて。さっきは真木くん、から真木と呼び捨てにしてくれるという話があったけど、実はその時一緒に併せてお願いしてしまおうかなと思ったことがそのことだったんです」 「ふうん……」話の続きを聞くための相槌を打つ。 「ほら、先輩の友達同士は〝俺〟〝お前〟と呼び合うでしょう。僕も先輩がこれから僕のことを友達と思ってくれるなら、〝お前〟って呼んで欲しいんです。そのほうがぐっと近づく気がして。今は真木と呼んでくれるようにはなりましたけど、たまに〝きみ〟となってるし」  合点した優真は即答する。 「そうだな、そのほうが俺もじつは呼びやすいんだ、だからさっきもついそう呼んでしまったんだな、きっと」 「じつは今日、あと二回、そう呼んでもらってるんですよ」 「へ~、よく覚えてるんだね」  真木君は、〝それはそうですよ、先輩のことなら何でも! だって大好きですもん〟と言いたい気持ちを、ぐっとこらえた。  すると優真がそこから話をつなげていった。 「あのさ、でも今日の最初の頃に言ったように、俺っていま、男女関係とか、男同士の場合とかでも、俺はそれはそんなの個人の考えなんで別にいいと思っているけど、とにかくなんの関係であっても、今の俺にはそんなことは考えられない状況だから、あまり期待するなよ」「さっきはあまりにお前が泣くもんだから、柄に似合わないことを言ってしまったけど、まあそれは俺の本心でもあるんだけどさ、でもあんな格好良いことに自信はないんで、そこんとこはよろしくな」優真はショッピングセンターで泣きじゃくる真木君を諭したときのことを言っている。 「わかってます。先輩のあの一言、よくわかりました。ええ、僕は今日もう、  この時点で最高に幸せですから、もうこのまま友達でいて頂ければそれだけで満足です。変なことで先輩に心配かけるような要求はしませんから大丈夫です」真木君は心から晴れやかにそう言い切った。 「うん、そうか。じゃあこれからもよろしくな」 「はい、よろしくお願いします」 「そうだ、俺からもひとつ頼みたいことがあるんだけど、いいか?」 「はい、先輩の頼みならなんでも、死ねと言われれば死にますよ」ペロと舌を出した。 「おい、冗談はやめろ、電車の中であいつらのバカが移ったんじゃないだろうな」と笑わせながら、〝死〟という重い言葉から話をそらした。 「お願いってのはな、お前が俺に、真木とかお前、と呼んで欲しいといったことと似ているんだけど、俺に対して、そのなんだ、敬語っていうのか、丁寧な言葉遣いはやめたらどうかと思うんだ」 「でも先輩ですし」 「先輩だけど、もう友達なんだろ、だからさ、すぐにあいつらと同じ言い方とかそんな難しいことを言ってんじゃなくて、例えば、さっき〝大丈夫です〟といったろ、あれも〝大丈夫だよ〟とか、これ頼んでいいですか? じゃなくて、これ頼んでいい? とかさ、弟みたいな感じでさ」  これを聞いた真木君、 「弟、は嫌だなあ。……でもわかりました、確かにそのほうが近しい感じですよね、それで先輩がいいならそうさせてもらいます」と言い、「早速言い換えます、違う、早速言い換えるね、か。うん、確かにそのほうが近しい感じですね、それで先輩がいいならそうさせてもらうね」「これでいいですか」 「そうそう、お前、それだよ。それにしてもお前って頭いいって感じるなあ、やっぱり塚本の言ったこと、本当じゃないのか」 「違うよお」 「あ、それそれ、それ可愛いなあ」 「……」真木くんが顔を赤らめた。優真も気がついたらしく、どぎまぎして話題を変える。 「それにしても〝友達〟として、俺が真木をお前、と呼ぶんなら、真木も俺をお前と呼んでもいいんじゃないか」全く意味のない軽口を言った。と、 「嫌ですっ!」  突然真木君がすごい剣幕で反論した。優真は真木君の急な変化に目を丸くする。 「そんなこと、昼間から言ってるように、僕はほんとは先輩と〝友達〟になりたいわけじゃないんです、できれば、」そこまで言って自分の言いかけた言葉の修正に入る真木君であった。 「ですから、いや、だから、僕がお前、と呼ばれることは僕の考える将来の姿に合ってるんだけど、僕が先輩をお前なんて呼ぶのは僕の思い描いてる形じゃないんだ」真木君はすっかり〝弟〟的、あるいはもっと近しい者同士の言い方になっていた。そして前を向いて黙ってしまった。すねたような表情が真木君を身近に感じさせる。 「あ、冗談だよ、わかったよ、そんなにムキになるな。俺はいつも陶子から、あんたの冗談は滑るって言われてるもんな、ごめんな」そう言って真木くんを見ると、うつむき加減に前を向いていて、涙が彼の頬を伝わっているのがわかった。優真の冗談によって、抑えてきた自分の思いが一気に噴出してきたのだろうか。真木君の豹変に優真は驚いた。真木君は前を見ながらひと言つぶやいた。 「やっぱり無理なのかな……」  そのはかなげな言葉に、優真は急に彼が愛おしくなってきた。護ってあげたい宝物のような対象と捉えたのだろうか。なにか慰めようと優真が真木君の肩に手を置いたとき、真木君が顔を上げこちらに向けた。 「むりなの?」  優真を見つめ小さく聞いた。  優真の中で何かが弾けた。 〝可愛いっ〟そして〝愛しいっ〟という感情だけがかれの全身を支配した。 「真木っ!」  優真は突然彼にキスをしてしまった。今度は昼間のものではない。自分でもわけがわからないまま、しかしこの目の前の可愛らしい生き物に自分の全てを与えたいという衝動にかられてしまっていた。真木君は優真の肩に必死でしがみついてキスを受け入れている。さらに涙がこぼれてきたが、ここからはうれし涙に変わっていたはずだ。駅でのときとは違う感動、先ほどとは明らかに異なる想い、が真木君の心を駆け巡っていた。優真は静かに唇を離した。 「せ、ん、ぱい……」 「言うな、何も言うな真木、たぶん……俺もお前が好きなんだ」ついに言ってしまった。 「せんぱい、うれしいよお」今度は真木君が優真の首に両腕を絡めてキスを求めてきた。それに答えて激しく長いキスが続いた。そして、 「真木、おれ、お前を好きになっちゃったみたいだ、どうしよう……」本当にどうしていいかわからない様子で語りかけてきた。 「せんぱい、すきっ」  しばらくは二人で狂ったように唇をむさぼり合った。真木君は幸せだった。優真も、自分で自分の気持ちを整理できないまでも、今の自分のこの感情に嘘はないと信じようとしていた。キスをやめ、真木くんの頭を抱えて胸に当て、その髪に口づけしながらしばらくじっと何かを考えていた優真。優真の中でさらに全部が弾けた。 「真木」 「うん?」 「俺が好きかい」 「大好き」 「……。頼みがあるんだ」 「なあに?」 「お前の裸が見たい……」 「…………」  真木くんが息を潜める呼吸が伝わってきた。  だがしばらくして、 「……いいよ」とひと言。そしてベッドから立ち上がり、制服の開襟シャツを脱いでいく。とんでもない事を言ってしまったという「後悔」と、そして心の衝動にかられて発出した「彼の肉体を見たいという欲望」の狭間で、優真は彼の所作を凝視していた。シャツの下には紺地に白い縁どりのついたタンクトップを着ていた。そして次にそれはそのままに、彼はズボンを脱ぎ始めた。〝止めるなら今だ〟と思う反面、時の経過を期待する自分がいた。ズボンの下は黒とグレーの横ストライプ柄の短いボクサータイプのブリーフだった。そこまでしたあと、真木くんは動きを止めて優真を見下ろした。優真は、何故かこのままではいけないと思い、ふらふらと立ち上がった。彼との距離を置いて立った。そして後輩をじっと見る。すると時を待っていたかのように彼はタンクトップを脱いでいき、短いパンツだけの姿態を晒してきた。細身ではあるが肉付きを保った真っ白な体であった。優真はゴクリと唾を飲み込み、この光景を一生目の奥に焼き付けておくぞとばかりに凝視した。心なしか、真木くんが足を動かして科を作ったように感じた。これまで十八年間生きてきた〝藤原優真という男〟が崩壊した瞬間である。優真に、地獄に落ちてもいい、という想いが襲ってきた。 「なあ、パンツも……」  すると、裸を見たい、と言われた時からすでにそのつもりであったのか、その覚悟ができていたかのように、真木君は優真に背を向け、そしてかがみながらブリーフを下ろしていった。真っ白なまあるいお尻が優真の目の前に現れた。外されたパンツが真木君の足元に落ちていた。息をのむ優真。  するとそのまま数秒くらい、まるでお尻を優真に鑑賞させるかのようにじっと立っていた真木君が、静かにゆっくりとこちらに向きを変えてきた。右手で薄い胸を隠し、左手で股間を隠しながら、まるで絵画で裸のヴィーナスがそうしているような姿態を、男の子の真木君が優真に見せている。それははじめてまゆみが優真に裸を見せてくれた時と同じフォルムであった。真木君は優真と正対した。  優真は石のように動けない体になってしまっていた。しかし目だけは真木君の白い体を穴のあくほど見つめている。すると、優真からじっと凝視される時間を楽しんだかのように思えるほど妖艶な表情を浮かべていた真木君が、静かに両手を後ろに回してお尻の方で組み、自分の前を完全に優真にさらけ出した。真木君が男である証拠が、優真の視線に飛び込んできた。 「…………」優真はただただ見つめるだけで声にならない。 「せんぱい……」小さくかわいい声で真木君が、ただそれだけ言った瞬間、 「真木、きれいだ、とっても綺麗だよ、お前」優真にその一言がだせた。 「ありがとう、せんぱい……」やさしく微笑んでくれていた。 そして優真は、自分でも信じられない言葉を発する。 「真木、俺の裸も見たいか」 「……」真木君は無言でうなずいた。  優真は真木君と同じ順番で自分の制服を外していった。ジッと見つめている真木君。優真はいつも下着をつけず素肌に制服のシャツを着ているので、ズボンを脱ぐとパンツ一つになっていた。こちらもボクサータイプの白のブリーフであった。優真の体は肩幅が広く、筋骨隆々のマッスルマンではないがハリのある立派な体躯であった。優真は、穴のあくほど自分を見つめている真木君に言った。 「こっちきて」  真木君は脱兎のごとく優真の厚い胸めがけて飛び込んでいった。  夕方の六時を回っていた。真木君はパンツとタンクトップ姿、優真の方はパンツに開襟シャツを羽織った格好でベッドに背をもたせながら床に座って寄り添っていた。真木君は優真が彼の肩に回した左腕に頭を預けて枕としていた。体はやや斜めに寄り添い、足は少し揃えてくの字に曲がり、女性のような寄り添い方であった。優真は真木君の右手を自分の右手で握りながら、肩に廻した左腕の指で真木君の後ろ髪をアルペジオしている。シャワーでも浴びたのだろうか、真木君の後ろ髪が濡れていた。 「大丈夫かい?」優真は前を向きながらの姿勢で、宙の一点を見つめながら聞いた。 「うん平気。もう大丈夫だよ……」 「そうか、ごめんな、抑えきれなくなっちゃったんだ」 「謝らないで、嬉しかったんだから、先輩と一つになれて」 「そうか……」間を置いて「俺も最高だった」と言う。 「ほんと?」 「ほんとさ」「それにしてもお前、そのタンクトップ、ほんとに似合ってんな、かわいいお前にぴったりだ」初めての行為の後での照れも少しあって、だが心底そう感じた優真は真木君の方に顔を向け、彼が再び身に着けているそれを誉めた。確かに、ネイビーブルーが真木君の白い肌を際立つものにさせていた。 「ほんと?」見つめられて顔を赤らめ、そして、 「これ、先輩にだってすごく似合うと思うよ、だってこれ、この形、先輩のユニフォームに似てるでしょ、僕、それを意識して着てるんだけど、ぼくはバスケットなんてできないから、せめてその格好の真似事でさ」などと伝える。 「ふうん、そうなんだ」 「あ、ねえ先輩、ちょっとこれ着てみない?」 「え、俺がか?」 「うん、先輩のイメージで僕、探したものなんだから、ちょっと見てみたいなあ」と陽平は思いつきでせがむ。 「だけどお前、お前にぴったりのそれを俺なんかが着たらそのあとぶかぶかになっちゃうんじゃないか?」 「そんなこと、ちょっと着るだけだし、一瞬でいいからさ、着てもらいたいなあ」 「まあ、また今度な」愛し合った後、何かすぐに行動することが憚られたのか、もう少しこのままじっとしていたいのか、優真は陽平の頼みを延期させた。陽平も同じ気持ちであったのか、続けてせがむようなことはせず、天井を向いて言う。 「ああ、今日は最高だなあ、もう死んでもいい……」 「おいおい、また」 「だって、今日は朝からいい夢を見て最高の日だって思ったら、先輩と話ができて、素晴らしい日になったなって思ってたらみんなの前でキスされて、もう天にも昇る気持ちでいたら家にも招かれてさ、そして、そしてついに夢が正夢になってさ。最高、最高の連続、最高がどんどん更新されて、そしてほんとに最後までいっちゃって、至福の一日だなあって思ったら、」 「思ったら?」 「なんか幸せすぎて怖くなっちゃって、これ以上の幸せってないかもって、もう僕の人生、これまでなのかなって、ふと、ね」 「何言ってんだ、これからも一緒でいられるじゃないか、いいんだろ?」 それを聞き、真木君は優真の方に顔を上向けた。 「先輩、キスして」  無言で真木君にキスをしていく優真。真木君は優真の肩をしっかり掴んでその愛の証を受け入れ続けた。しばらくして口を離した優真はもう一つ提案していく。 「真木、なあ、これからお前を〝陽平〟って呼んでいいか?」  真木君の顔がさらにぱっと明るくなった。 「うん、もちろんですぅ。じつは僕もいつか名前で呼び捨てにして欲しいなって、思ってたんです! ぜひそうしてくださいっ!」 「そうか、サンキュ、いいんだな、じゃあこれからお前は陽平だ」 「これまでも僕は陽平でしたよ」言葉尻を捉えて茶化していく真木君、いや、もう陽平であった。 「あ、そうか」笑いながら、 「ところでお前、さっきからまたちょくちょく敬語使ってるぞ」 「あ、いっけない、そうですよね、あ、そうだよね、気をつけよっと」  そのように言う陽平をじっと見つめ、優真は〝ほんと、コイツは可愛い〟と思う。陽平もじっと優真を見つめ返している。どちらからともなく、再び大きく復活しているものに手を伸ばした。 「せんぱい、僕また……」 「俺も……」  その時、階下から、 「優真ぁ、帰ってるの~? お友達ぃ~?」と母親の呼びかける声が聞こえた。 「あ、いけね、おふくろだ」 「えっ」 「いいよ、ここにいろ。俺ちょっと下に行ってくるから」 「うん、わかった」陽平はもうすっかりタメ口っぽい言葉遣いが板についてきていた。  優真は急いでズボンをはき、開襟シャツの前を止めながら階段を下りていった。陽平はといえば、これも急いでズボンとシャツを身に付け、万一?に備えた。しばらくして優真は戻り、これからどうするかと聞いてきた。 「おふくろが、友達が来てるならご飯でも食べていって貰ったら、って言ってるけど、どうする? いや、臼井たちが来るといつも飯食ってから帰るんだよ、だからさ」  陽平は、憧れの先輩ともっと一緒にいられる、いや、ごく親密な関係になってしまった大好きな先輩ともっと一緒できるとは思ったが、さすがに今日は彼の母親と一緒にご飯を食べることなどできるものではない、このあとの挨拶すらどういう顔をして会えばいいのかもわからない状態なので、今回は遠慮したい、と伝えた。優真もそれはそうだなと言い、名残惜しいけど、では今日はここで別れようと納得し合い、最後に軽いキスを交わして一緒に階下へ降りていった。  二人の足音を聞いて、優真の母が奥から玄関に顔を出した。 「あら、もう帰るの、ご飯、食べていかない?」以前からの知り合いのように陽平に話しかける。返事をしようとした陽平に代わり優真が答えた。 「あ、母さん、こちら真木君、一年後輩なんだ。今日はこいつ、これから用事があるんだってさ。だから」 優真の母親は息子の話を遮る形でまた直接陽平に話しかける。 「そうなの、それは残念ね。でもまたいらっしゃいね、その時はご飯食べていって。この子の友達なんて、ここんとこ一週間に一度くらいは誰かしら遊びに来てご飯食べて帰るのよ。ね、だから遠慮しないでいつでもおいでなさい」 「はい、ありがとうございます。あ、僕、真木陽平といいます。よろしくお願いします」と、無難に挨拶は出来たが、これはこの母親の気さくな性格のおかげであったろう。と、母はさらに、 「あらっ、ねえ優真、こちら、超可愛いお顔立ちしてるじゃない。可愛いわねえ、女の子みたいねぇ」  慌てた優真は、 「母さんっ!やめなよ、男にかわいい、なんていうの失礼だろう?」と、一般的にはそういうものだろうと思っている優真は母を咎めたが、 「何言ってるのよ、お前は明治生まれか? これからはねえ、男女平等、男も女もなくみな同じ人格を持った人間、っていうことが当たり前の時代になってくのよ、ううん、そうでなくたって昔から、人間っていろいろな人がいて当たり前の動物なのよ、だから人はそれぞれ、母さんはそう思ってる」  優真は母の意外な言葉にびっくりした。 「しかもね、可愛いものは可愛いんだから、仕方ないじゃない、なにがいけないの。ブスよりいいじゃないのブスより! 男だって女だって、そりゃいろいろな顔立ちがあって、それはそれぞれだけど、そしてそこに人間的な差なんてもちろんありゃしないけど、客観的にみて可愛いっていうのはいけないこと? いいことじゃないの! 男だからなんだって言うのよ、あんた、そんな古臭い考え方はやめなさいよっ!」そして最後は陽平に向かって、「ねえ」とにこやかに同意を求める。 「まったく母さんったら。わかったよ、そのとおり、あなた様の言うとおりですよ。私が間違っておりました。さ、陽平、この古臭い男がそこまで送っていってやるから靴を履いてくれ」と言ってから母親に微笑みかける。  母もにっこり笑って「分かればよろしいっ」といい、じゃあ真木君、またあそびにきてね、と台所の方に下がっていった。 「まったくかなわねえなあ」優真が言うと、陽平は可笑しさをこらえきれずに笑い出し、「でも素敵なおかあさんですね」と褒めた。優真は素直にありがとう、と返し、自分もサンダルを履いて陽平を千行寺下駅まで送るのだった。雨はすでに止んでいたが、あいにくの天気で駅までの川沿いの道はもう薄暗く、所々に立っている街灯のおかげでかろうじて川に落ないで済む、といったところだった。人通りもなく、一番暗いところまで来た時、どちらからともなく寄り添って今日最後の別れのキスをした。明日の再会を約して二人は別れた。  翌朝、昨夜の優真の頭の中は、真木君を抱いたことや母に何か悪いことをしてしまったという想いなど、自分でも訳の分からない興奮の極地にあってほとんど寝付けず、朝方少しまどろんだだけであったから、いつもの起床時間を大幅に越えて寝坊してしまった。そして母に起こされ、母を正視できないままにあわてて家を飛び出した。駅まで走ったおかげでいつも乗る列車の発車時刻には間に合った。相変わらずの混み様であったが、こころなしか自分の周りが空いているような気がする。他の乗客、といってもほとんどはS市にある高校へ通学していく高校生が殆どを占めているが、彼ら彼女らの視線もなにかいつもと違う空気を感じた。昨日の件だな、と直感したものの、優真にとっては折込済みの反応であり、別に気にはならなかった。それよりも、陽平のことが気になった。彼が通う河西線ではどんな様子になっているのだろうか、自分と違って繊細な心の持ち主らしい陽平のことが心配である。  あいつも眠れなかったのかな、などと思っていると次の駅で原田が乗ってきた。いつもどおりに優真のそばにきておはようという。優真もいつもどおりの挨拶をし、いつもどおりの会話が始まる。昨日の降り際に吐いた捨て台詞のことなど忘れているかのような原田であった。だがそのせいでかえって、少し浮かれ気味であった優真の心に昨夕のことの意味する重大性、のようなものが芽生えてきた。原田がどの程度、男性を好きな性向かはわからないが、冗談でもあのようなことを言い続けることから考えて、世間一般の、男女間の交際とは異なる関係、に対する興味が多分にあることは事実であろう。昨日の原田の電車での本気とも冗談とも分からぬ言いがかりのあとで、いや知り合ってからたった半日で、肌を寄せ合う関係を持ってしまったことに、あらためて自分で自分に驚愕する優真であった。通例、男女間においても高校生同士が深い関係になることは問題とされる世間ではあるが、ましてや男同士のこととなると、いかに男女の人権の尊重という風潮が芽生えてきた昨今の世界の流れであろうが、まだまだこの日本の、この地方都市での、理解のゴールは遥か彼方にあるのだろうと思える。 「優真、何考えてんだよ」原田がぼうっとしている優真に問いかけた。 「あ、ああ、なんでもないよ」 「お前、あのあと俺の、じゃないな、もうお前の、だな、その真木君とどこまで帰ったんだ?」ここに来て原田が蒸し返してきた。原田のその質問は、しかしごく普通のまともな疑問ではあったのだが、今の優真にとっては昨夕のことが前提の問いかけにしか思えなかった。優真は仲間に対してもほとんど嘘や隠し事はしたことがない男であったが、さすがに昨夕のことは正直に答えられるものでもなく、誤魔化した。 「ん? ああ、千行寺下駅までだ」嘘をつくのは嫌なものだ、悪いな原田、だが今度ばかりは許してくれ、そう心で詫びる優真だった。〝早く水尾が乗ってこないかな〟と期待したその水尾は次の駅で乗り込んでこなかった。 「あれ、水尾は?」原田に聞くと、 「ああ、あいつ今日は朝練のコーチ当番だって言ってたから、早い列車で行ったんだろうな」と答える。「うわあ、そうだったんだ」、と優真。 「おい、うわあ、ってなんだよ? 水尾になにか用だったんか」原田が聴いてきた。 「い、いや、そうじゃないんだが」 「ところでさっきの話だけどさ、」  来たかっ、と思っていると、塚本が乗る駅に着いた。〝助かった〟この間の距離は途中に専門学校があることから、最近新しい駅が作られたことで間隔が短いのだ。優真は鉄道会社に感謝した。 「おいおい、聞いてくれ!」塚本は乗車して近づいて来るなり、すぐに話し始めた。彼の朝の話題は常にほぼ野球で、しかもヤクルトの大ファンである彼は、昨夜のヤクルト・巨人戦で主砲が逆転3ランを放って勝利したことを話さずにはいられないはずだ、優真は安心して塚本の言葉を待った。 「おい、昨日のあの二年生、真木君だっけ、彼の東大確実の話だけどさあ」 〝げっ〟優真は仰け反りそうになる。 「あれ、やっぱり本当だったぞ、臼井に電話して聞いたらやっぱり事実らしい、あいつ、すげえんだな」 「へえ、そうなんだ、能ある鷹はなんとかってやつか。ところで塚本、昨日のヤクルトは良かったな、でも珍しいな、ヤクルトが逆転勝ちできるなんて、いつもは逆転で負けるチームが」  原田が先ほどの自分への問いかけにこだわらず、またいま塚本から話題の出た東大確実の話にも乗らずに話題を変えていった。優真は意外な感じがしたが、原田の気遣いがわかるような気もした。そういえば、昨日の駅での出来事も、帰りの電車の中でそれを知らない仲間に話すでもなく、陽平と三人になってから初めてその話題を出したのであった。また今も、ヤクルトの話題に乗らずに、昨日の件を塚本に教えて優真をからかっていってもいいはずである。優真は原田を見たが、原田はチラと視線を合わせただけで主に塚本に向かって、自分の贔屓である巨人のだらしなさについて語っていた。  隅坂駅に着いた。連絡通路の地下道の階段を上がり、改札を通ると、いつも通りの女子高生のお出迎えに遭遇した。人出はそれほど減ってはいなかった。〝陶子の言うとおりだった〟自分の浅慮を恥じながら、駅舎を出て高校への道を歩き出したとき、後ろから優真たちを呼ぶ声がした。 「おーい、優真あ、原田あ、来てくれ~!」  振り向くと臼井がこちらに走ってくる。歩を止めて待っていると追いついた臼井が言う。 「なあ、うちの真木が実業のスケバン達に連れていかれたんだよ、助けてくれっ」 優 真の表情が、そして原田も、顔色がぱっと変わる。 「それがさ、今朝……」説明しようとする臼井に向かい、優真は 「どこだ、案内しろっ!」と言って臼井の今来た方に走り出した。「こっちだなっ」  原田もすぐに続き、後から走り出した臼井は「そう、まっすぐいって、あの車庫のうらだあ」と後方から声だけで場所を教える。あたかも大きな機関車と貨物列車が併走するような図であった。あとから臼井、塚本が彼らを追いかけていく。  車庫の裏手、建物の角を曲がると、セーラー服の集団が七~八人と、学生服のツッパリ男子が三人ほど、壁に向かって誰かを取り囲んでいたが、駆けつけた優真たちの足音が聞こえたのだろう、全員こっちに顔を向けていた。 「陽平っ」優真は躊躇せず集団に向かっていく。後には原田が続いていた。臼井とそのあとに続いてきた塚本は車庫の角あたりで足を止め、覗き込んで様子を伺う形であった。  集団の中から、赤いパーマ髪で大柄な、身長は陶子くらいの、ただし横幅があるので陶子より大きく見える一人が、優真に近づいて彼の足を止めた。一見、牛のごとくである。 「優真、何しに来た!」あか牛が言う。 「それはこっちのセリフだ、小百合。何してるんだ、お前らは」 「何もしてねえよ、ちょっとあの子に頼みごとをしてるだけだよ、優真には関係ないんだから引っ込んでな」  二人は知り合いであった。S市には高校が四校ある。優真の通う西高、陶子の東高、そしてこの下條小百合の通うS実業高校と、S商業高校である。下條小百合も実はN市に住んでおり、優真や陶子と同じ中学の、実は同級生であった。従ってお互い前からの知り合いであり、高校はバラバラになったが、S市の高校に通うという意味で共通の三人は、このS駅で顔を合わすことはたまにあるのであった。 「頼み事をするのにこんな大勢で取り囲んでどうしようってんだ。話があるならこんな場所でってのも気にいらないな。真木は俺たちの後輩だ、連れて帰るぜ!」  倉庫の角で覗き見している臼井が小声で塚本に言う。 「おい、優真って度胸があるな、いくら体が大きいったって、相手は十人近くいるし、それもみんな悪そうな奴ばっかりなのにさ」  塚本はそれに応え臼井に細かく教えてやった。 「知らないのかよお前。そうか、お前はO市だから無理ないか。優真ってさあ、中学の時は相当な悪ガキだったんだぜ」  臼井は驚きを顔だけで表して、塚本に表情で伝える。 「そう、べつにチームを組んでなんとかとか言うんじゃなく一匹狼なんだけど、あいつには高校生なんかも手出しできなかったみたいでさ、大げさに言えば、ほんと、少し大袈裟に言うんだけど、あいつは〝伝説の中坊〟だったんだよ」「あいつがなんでS市の高校に来てるか知ってるか、バスケがどうとか、数学の成績がどうとか言われてるけど、実は原因はN市の高校がみんな拒否したって話だぜ。俺はこれが真実だと思うな」 〝ほんとかよ?〟臼井は今の最後の言葉で塚本の話をどこまで間に受けていいか疑い始めた。ただ、目の前の優真の場慣れしたともいえる態度は、塚本の話を証明するに余りあるものではあった。  優真が一歩前に踏み出した。それに対してあか牛が待ったをかける。 「待てよ優真。今日はほんとに頼みごとなんだよ」このスケバンの、このまともな話しぶりや態度も、S市で名を轟かせている下條小百合にしては、優真の伝説を裏付けるかのようである。 「ほんとに話があるってんなら、その話のあるやつが一人で真木に言いに来な。それが筋だ。いいな小百合、お前がそうさせろよ」 「う、」 そ の時、三人いる男の、今どきボンタンファッションのほうがしゃしゃり出てきて優真に声をかけてきた。 「おいおい、ガタイがでけえからって調子こいてんじゃねえぞ、小百合さんに ふざけた口を聞くとただじゃ置かねえぞっ!」どうも小百合の後輩のようである。優真の後ろに控えていた原田がいよいよ俺の出番、とばかりに前に出ていこうとしたとき、 「ばっ、馬鹿、黙ってなっ!」小百合は慌ててこの後輩をたしなめた。 「小百合さん、こんなのハッタリだけですよ、コイツは俺に任せてくださいよ」 「ばか、やめろ、言うこと聞けって、殺されっぞ!」  だが状況の読めない小百合の後輩は、 「おいあんたよお、あんた、バスケットやってんだって?有名なんだってなあ、じゃあ選手が暴力振るうなんてできねえよな、出場停止ってやつ? へへ、威勢だけはいっちょまえだけど、からきしダメだなあ」 そいつには目もくれず、優真は小百合に話しかけた。 「小百合ぃ、俺さ、バスケはもうやめて普通の高校生になってんだよ、もう部活はやめたし、なんの遠慮もなく昔みたいな毎日に戻れんだよ」 小百合はその言葉の意味することを悟ってぞっとした。しかし自分を無視されたと感じたその後輩は、プライドを傷つけられたとばかりに逆上し、 「おいてめえ、こっちが話してんだよ、ビビってんのか」  その声に対して優真がようやく、小百合からその後輩に目線を移したらしい。小百合からは後輩の後ろ姿しか見えなかったが、明らかにその体が硬直したように見えた。おそらく目力だけで萎縮されたのだろう、後輩は二歩後ずさった。それを見た小百合は後輩の前に出て一挙に優真に近づき、その腕に縋って耳元に口を近づけ小声で囁いた。 「優真、あたしに免じてこいつを許してやっておくれよ、なあ、頼むよ、コイツはわかってないんだ、あたしの代わりをしようと思っていきがっただけなんだよ、優真の相手になるような奴じゃないんだからさ」 「……」  すると優真は、小百合にニコリと笑い返し、これもまた小百合の耳元に口を近づけて囁くように言った。 「小百合、わかってるよ、大丈夫」  小百合の安堵した吐息が聞こえた。 「なあ、誰がどんな頼みがあるかしらないけど、もうあいつにちょっかいださせないでくれねえか?」続けて耳元に優しく問いかける。小百合の顔が少し紅潮しているのは誰も気づかない。 「ああ、わかった、約束するよ、実はさ、」彼女は状況を説明しようとしたが、 「いいよ小百合、どんなだったかはあとで真木から聞くから。これ以上、お前も立場があんだろうから、この辺でな」  スケバンは皆に聞こえないような小声で、ありがとな、優真、と礼を言った。  すると最後は、優真がもう一度小百合の耳元に口をさらに寄せて「こっちこそな、サンキュ」とささやいた。あか牛の顔が髪の毛と同じ色になっていくのを、今度は誰もが見逃さなかった。  水尾を除くいつもの四人と真木が高校に向かって歩いている。道々事情が分かってきた。昨日の駅舎での事件を見ていた中にスケバングループもいて、そのうちの二年生の一人が以前から陽平に好意を寄せていたこと、優真とのキスを目の当たりにして、陶子の説明があったものの、いよいよ切迫感を覚え、衆を頼んで交際の申し出をしていこうとしたものらしい、なんともはやの話であった。今朝河西線を降りて改札を出たところでグループに呼び止められ、車庫の裏に連れて行かれたらしい。圧力をもって承諾を迫られたが自分には好きな人がいる、と断固断っていたところに優真たちが来てくれたということらしかった。確かに考えてみれば、小百合のグループは他校の集団といざこざを起こしたりはしているものの、誰かをいじめたり脅したりは御法度の〝健全?〟なスケバングループらしく、S市の者なら、今回の行為が陽平を傷つける目的とかではなさそうなことは分かりそうなものだが、臼井はO市であり、なにか因縁をつけられて連れて行かれたと考えてもその勘違いは当然と言えるかもしれない。 「それにしても臼井、お前は後輩が奴らに連れて行かれるってのに、見捨ててきたのかよ」最後に恐る恐る付いてきた塚本に言われた臼井は心外だった。 「ばか、勘違いしたのはそうだけど、あのメンバーで俺一人で立ち向かっても討ち死にするだけだって思ってよ、五分後に優真や原田の乗ってくる本線が着くってわかってたから、みんなにに連絡して一緒に向かうほうがいいと判断したんだよ」と力説する。 「おい、いま、優真や原田の乗ってくる本線っていったな、なんで俺の名前が無いんだよ」 「当たり前だろう、お前はさっきも俺の後から付いてきて倉庫の角から見ていただけじゃないか。そんな奴を俺が期待して待っていたと思うのかよ」 「このやろー、俺を臆病者呼ばわりかー」 「お前が最初に行ったんだろう、このやろー」  らちもない虚しい言い合いの最中に、陽平が口を開いた。 「あのみなさん、みなさんのおかげで本当に助かりました、ありがとうございました。藤原さん、原田さん、お二人の勇気、本当に頼もしかったです。臼井先輩、皆さんを呼びに行ってくれてありがとうございました。そして塚本さんもありがとうございました」と全員に改めて礼を言う。優真は陽平が自分を「藤原さん」と呼ぶのを初めて聞いた気がした。〝そうか、俺にとって陽平は後輩だもんな〟この感慨の後に〝それから男の同士の……〟彼と昨夕、ベッドを共にしたことが思い起こされている優真であった。〟 そして、「特に藤原さん、ありがとうございました。嬉しかったです」陽平は今度は優真だけをじっと見つめながら礼を言う。その目には単なる先ほどの行動への礼だけでなく、特別な思いが込められている眼差しであった。原田が隣で苦笑いしていた。 「あ、まあ、お前は俺たちの高校の後輩だからな、ああするのは当然だろう」照れを隠して受け答える。他人行儀な答え方をしたが、これは最初の陽平の礼の言葉でも同じであり、二人は無意識のうちにみんなの前ではこのような語り口にしているのであろう。原田も優真の言葉を受け、そうだとも、何かあったらいつでも俺たちを頼ってきなよ、などという。正門に着いた。五人はそれぞれのクラスに散っていく。三年生の教室は三階にあり、優真が階段を登ろうとその前で振り返ると、廊下の向こうで陽平がこちらを向いて見送っており、目が合うと深々とお辞儀をした。〝可愛いな〟優真は再び前に直り、階段を上って教室に向かった。  テストも前日に終わっていたのでその日の帰りから、陽平はすぐに優真と一緒に帰りたかった。そして午後のひとときをN駅まで出て書店に行ったり街をぶらついたりして過ごしたかった。陽平が所属する美術部の文化祭の準備は「各々の制作」なのであり、陽平はすでに何枚かの展示作品は描き上げていた。また、会場設営は美術部の制作部屋を使用するので、準備にこれといった時間はかからない。しかし優真は、夏休み中に行われる紅白試合の練習や二年生へのコーチ当番もあり、これからはしばらく毎日帰りが遅くなるため、陽平はその時刻まで図書館で勉強をしながら優真の予定が終了するのを待ち、同じバスケ部の塚本とともに三人で帰る日々となっていた。河西線には乗らず、わざわざN駅経由で帰るのである。本線では途中の駅まで塚本が一緒であるが、先日来の出来事で陽平は優真の仲間にすっかり溶け込んでいたので優真の仲間も違和感は感じていない。塚本が下車してからのふた駅が二人だけの会話ができる時間であった。一緒に過ごせる時間は短いが、それだけに濃密な時間でもあった。千行寺下駅で一緒に降りて優真のキスを受けたい陽平であったが、東大を目指している、そういう情報のある陽平の勉学の邪魔になることはさせたくなかった優真であったから、そのまま帰らせている。毎日車内から、窓ガラスに手を張り付かせ、夕暮れに遠ざかる優真を見て名残惜しそうに帰っていく陽平を愛おしく思いながら、今はこれでいいんだ、と自分に言い聞かせる優真だった。実はそうしたこと自体も二人の楽しみではあったのだが、あと一週間で夏休みに入ってしまう。優真と陽平はその時のことを考えながら過ごす毎日であった。  陽平とのことがあった一週間後、朝のうちに陽平から、今日は早めに帰宅しなければならないから一緒に帰れない旨の連絡があった。塚本もバスケ部員であるが、今日は予備校の夏期講習の申し込みに行くとかで練習を休んでいたため、優真は午後三時ころ、久しぶりに一人で駅に向かった。今日は上原先生が検査入院するとかで三年生の練習は早めに終わったから、いつもより一時間ほど早い帰宅であった。そういえば最近陶子と合わないな、と思いながら駅舎に入っていくと例のスケバングループが待合室のベンチに屯していた。早い時間帯なので待合室にはいつもの混雑はなく、ベンチにも何人か分のスペースがあるほどにがらんとしていた。大きい優真が入っていくとすぐにわかる空き具合であったから、グループの何人かがこちらを見た。そのうちのひとりが中央に構えていた小百合に優真のことを告げたらしく、小百合は振り向いて優真の方を見た。 「おう小百合、この前はどうもな」気軽に声をかける。何故か小百合は落ち着かない風で周りのメンバーに何か言ったあと、立ち上がって優真に近づいてきた。 「優真、こないだはありがとな、うちのバカを見逃してくれて。礼を言うよ」 「そんなこといいさ。それより小百合、あのあと、うちの真木に誰からもなんの話もないようだよ、お前がきちんとしてくれてんだろうなきっと。立場もあるだろうに悪かったな」  下條小百合の顔は少し赤らんだが、すぐに、 「考えてみりゃあんなことであたしたちが全員で出張って馬鹿なことをしたよ、あんな問題は本人たちに任せておくのが当たり前で、それこそ理不尽な真似をされたとかそういう場合に仲間として出張っていきゃいいのにさ、あたしも焼きが回ってきたね」 「お前、しゃれた女になったなあ」優真は小百合を素直に褒めた。  小百合は言われ慣れないことを、しかも優真に言われたことでどぎまぎして真っ赤になった。 「ば、ばかやろー、からかうんじゃないよ」心根は嬉しい小百合なのだ。実は 小百合も前から優真のことが好きなのであった。しかし彼女は自分が優真にふさわしくない女だと思っていた。そして自分の思いを押し殺しているうちに優真にまゆみという彼女が現れたことで勝手に失恋してしまっていたのである。 「あ、ところで優真、あんた、陶子のこと、何か知ってるかい」照れを隠すためもあって、しかし真剣に話を続ける。 「うん? 陶子がどうかしたのか」 「陶子さあ、ここんとこ三日くらい学校を休んでるんだってさ、中学んとき、あいつ皆勤賞だったじゃない、そんな陶子が三日もなんてちょっと気になってさ」 「小百合、お前誰からそれ、聞いたんだい?」 「うん、うちの子でこの前陶子の大演説を聞いたあと、早速陶子に優真への手紙の相談に行ったのがいてさ」  優真はこれを聞き、さすがに恥ずかしくなったのか、顔が少し赤くなった。そして、 「おい小百合、もしかしてあの時、お前見てた?」と聞く。 「ああ、見てたよ、とんでもないことするなあって思ったね。たださ、」 「ただ?」優真が気になって聞き返した。 「あたしも陶子とおんなじで、あんたがこのバカ騒ぎを収めるために打った芝居だってことはわかったよ。だからあのこと自体はそんなに驚きゃしなかったけどね」 「へえ、分かっちゃったんだ」優真は正直驚いた。陶子の場合はわかるような気がしている、幼馴染で自分のことは昔から確かによく知っているだろうからだ。だが小百合は中学二年からの転校で同級生になった女子であり、しかも以前はクラスメートということ以上に親しく話したことはなかった。女って恐ろしく敏感だなあ、そう思った。 「わかるさ、だって前はあたし……」いきなり言葉を飲み込む小百合。 「ん?」と優真。 「そ、そんなことどうでもいいけど、ねえ、陶子の様子、見てきてくれない?」 「なんで俺が。小百合、お前が直接行けばいいじゃないか」 「あたしは行けないんだよ、あの子の家には。ねえ、だって優真は、いつも、そしてこの前も、陶子に助けられてるじゃないか」 「う。なんでお前がそんなこと知ってんだよ。……たしかになあ。」遠くを見つめて考える優真であった。  優真は今でこそ大男であるが、小学生の頃はクラスで前から四、五番目くらいの身長であり、痩せてもいた少年だったので外見はあまり目立たない存在であった。また、運動神経は抜群を誇っていたが、とにかく勉強が嫌いで宿題などは常にいい加減に扱っていたため、必然的にテストの成績は芳しいものではなく、当時はまだ“お受験”という言葉が流行る前ではあったが、すでに小学校段階から多くの親が我が子に期待を込めて熱心に塾探しをしたりする中で、友人関係を親が設定するという風潮も見られた時代であった。そうした状況下、優真は周りに仲間のいない毎日を送る日々となっていた。優真の親世代はといえば、学校から帰るとすぐにランドセルを放り投げて近所の神社や学校の校庭に戻り、鬼ごっこ、野球、縄とびなどに興じて夕飯までの時間を費やすなど、そんな子供が多くいた時代である。一方、陶子の方はすべてに完璧ともいえる生徒であった。運動神経もさることながら、学習をすることを苦痛と思わないタイプの陶子は、すべての教科に熱心で、成績はいわゆるオール5であり、小六では児童会長も勤めている。  だが陶子はいわゆる塾のはしごをするタイプではなく、彼女の親もまたそうした教育方針を取っていなかったから、放課後はまっすぐに家に帰ることが多く、いきおい近所の優真と帰ることが習慣になっていた。低学年のうちは男女の遊びにあまり差はないから、いっしょに絵を描いたり花摘みをしたりして遊んだし、高学年頃には陶子は運動が得意だったこともあって、キャッチボールやバドミントンなどもそこに加わり、ともに同じ時間を過ごしていたのだった。違いはといえば、夕飯後、優真はテレビを見たり漫画を読んだりしていたのに対して、陶子は勉強をしていた、というだけのことである。  同い年ではあっても幼いころは女性の方が大人びている場合が多いこともあり、そんな二人は次第に、片や姉のようにふるまいやすく、片や弟のように甘える、という形が構築されていく。優しく正義感の強い優真は、クラス内のいじめを見かけるとそこに立ち向かうことがしばしばであったが、成績上位者がクラスでの発言力を持つという、小学校時代にありがちな現実により、数の論理でその正義が打ち負かされることも多く、悩みを陶子に聞いてもらうということも多々あった。その都度陶子は姉のようにやさしく優真の話を聞いてやり、そして優真が正しいことを静かに語って彼を励ますのであった。  一方、陶子は陶子でその完璧なプロフィールのせいか、クラスの他の女子から無視されるようになる。性格も良くしっかりした意思も持つ陶子は担任はじめ学校中の大人から注目される存在であった。そうしたことも妬みや嫉みの原因に加わり、嫉妬に裏打ちされた態度が彼女の周りに蔓延していく。しかしそんなとき、陶子は優真の愚痴を聞きながら彼を励ますことで、自分が何も悪くないことを再認識することができ、翌日も学校に向かうことができたのだった。優真も陶子もしかし、お互いの、相手への影響を感じ取るにはまだ幼かった頃である。  中学生になっても実家が隣同士であるから当然同じ中学に通うことになる。そしてまた偶然クラスも同じとなり、三年間を同じ通学路で通っていた。だが中学になるとさすがにお互いの放課後は変わってくる。優真はバスケットボール部に入り、陶子はバレーボール部に所属した。クラスは同じであるから以前のように仲良しではあったが、昔のような毎日ではなくなっていた。それでも夜はたまに、優真は陶子の家を訪ねて昔通りにたわいのない話をしたりしていた。  こんなエピソードがある。陶子は元来体が大きめであったが中学生になるとさらに成長し早熟の体であった。優真も、それまでのうっ憤を晴らすかのように、まるでタケノコのようにぐんぐん成長していった。また横幅も、ただ背のひょろ高いバスケットマンではなく、がっしりした体躯となっていた。すでに身長は百八十センチメートル近くにはなっていた。  ある夏の夕暮れ、休日練習が早めに終了し、一度家に帰った優真は忘れ物に気づいて再度学校に戻るべく、通学路の途中にある公園に差しかかっていた。前方にあまり素行のよろしくないと思われる体の大きめな高校生三人組が前を歩いている。何気なしに彼らのまたその前方を見ると、遠くに陶子ともう一人の女子生徒が、並んでこちらに歩いてきていた。〝あ、陶子だ〟 気がついて歩を速めたとき、陶子たちとその高校生たちがすれ違った刹那、「きゃっ」という声が聞こえ、陶子が胸を両手で押さえているのが目に飛び込んできた。一瞬で状況を把握した優真はあっという間に男たちに追いつき、へらへら笑って通り過ぎようとした三人の、まず一番真ん中にいた男の襟首をつかんで後ろに引き倒し、声を出す暇もないうちに顔面を踏み潰す。「なにしやがる」と向かってきた左の男には一歩進んで拳を突き出しそのまま顔面に、パッと飛び散る血を見て逃げようとした右手の男をこれまた引き倒して馬乗りになり、二、三度殴った。すでに戦意を失っている相手だったが、優真は最初の男に向かってまた拳を挙げる。続けて二人目に。陶子が止めなければいつまでも続けそうな、狂気の目をした無言の優真に、陶子の友人はただガタガタ震えてたたずんでいた。その後、高校生側が自らの行為を棚に上げ中学にクレームをつけてきたことから、〝過剰防衛〟どころではない、と大騒ぎになっていった事件であった。陶子にとってそのことは多くの意味で衝撃であった。見知らぬ男にいきなり胸を触られたことへの乙女の傷心はもちろん、そして優真のとった行動は、彼の幼馴染に対して起こされた卑劣な行為への反撃だとはわかっていたが、復讐ともいえるその過激な振舞いには戸惑いを覚えた。〝優真は自分の守りたい相手に対しての攻撃には容赦しない〟、そうも思った。彼女はいつしか、自分でも知らず知らずのうちに、この事件を心の引き出しの奥の奥にしまい込んでしまった。一方、優真もその後、陶子への気まずさからしばらくの間、彼女に声をかけることができず、お互いが元の間柄に戻るには一か月ほどを要したのであった。 「ね、お願いだよ優真。あたしの一生のお願いだから。なんでもするからさ」 「仕方ないなあ、じゃあこれから行ってくるか、今日は少し早く終わったから、行けるのは今日しかないしな」結局他人の頼みごとは断れない男であった。 「ありがと優真、恩に着るよ。なあ、様子わかったらすぐに知らせてくれるかい?」 「わかったさ、すぐ連絡するよ。だけどお前、なんでそんなに陶子のことを知りたがってんだ?」 下條小百合は、今度は真っ赤になってしまった。顔を見られたくないためか、くるりと向きを変えて後ろの優真に言った。 「じゃあ、優真、頼んだからね」そう言うとグループの方に走り、「いくよっ!」仲間を引き連れて共にS市の街中に消えていった。 「なんだあれ、変なの」  陶子の住んでいる松城地区はこじんまりした古い城下町で河西線の中間あたりにある街だ。優真と陶子とは小学一年生の時からの幼馴染で、昔は隣同士の家に住んでいた。中学二年の秋に陶子は父親の実家がある現在地に引っ越したが、卒業までは同じN市にある叔母の家から通って優真と同じ中学を卒業したのだった。というのも、陶子もスポーツウーマンでバレーボールをやっていたが、そこは名門中学で全国大会優勝の実績もある強豪校だったから、卒業までそこで活躍することを選んだのである。全国の強豪高校から引き合いがあったのは言うまでもないが、中学三年の夏に足首の靭帯を損傷し、華やかな経歴を続けることができない結果となってしまったのだ。だが陶子は自らに課された運命に押しつぶされることなく、であれば裏方に回って頂点を目指そうと、教員の道を将来の仕事と考えていたことも手伝って、コーチングの道を目指す目標を見つけた。それまでバレーボール漬けの毎日であったから高校受験においては志望高校へのハードルは高かった。しかしここでも陶子は、人生は最終結果が重要、だとして、まず第二志望の高校に進み、そこで将来の夢を実現すべく奮起し、次は希望する大学への挑戦に向けて現在頑張っているのだ。このことは優真や彼の母親、小百合なども承知していることである。 〝ここらへんだったかなあ〟優真は中学生の頃、陶子の家に仲間と集まったことがあったので、その記憶をもとにいま松城の街中を陶子の家を探し歩いていた。商店街の角を曲がると大きな寺があり、その隣に住宅が数件並んでいた。寺が近所にあった記憶がよみがえり、続いて陶子の家の玄関先が思い出された。その記憶通りの家が目の前にあった。 〝ここだ〟  優真は近づき、表札を見て陶子の苗字である「川島」の文字を確認した。その家の入口は敷地から三段ほど階段を上がった高いところに玄関ドアがある造りであった。優真は呼び鈴を押した。微かに遠くで、は~い、というような声が聞こえ、少しの間を持ってドアが開いた。懐かしい女性の顔がそこにあった。 「おばさん、お久しぶりです、陶子、いますか?」優真は出てきた陶子の母親に挨拶をする。一瞬訝しげに来客の顔を見た陶子の母親は、しかしすぐに娘の幼馴染だとわかり満面の笑みをたたえて挨拶を返した。 「あら~、誰かと思ったら優ちゃんじゃないの、ほんと、久しぶりねえ、何年ぶりかしら。またひとまわり大きくなったわねえ。いやふたまわりか、立派になったわねえ。聞いたわよ、全日本メンバーに選ばれたんだって? ねえ、お母さんはお元気?」速射砲のようである。 「あ、二年ぶりですかね。はいまあ、そうです、といってももう辞めるつもりですが。ええ、母はおかげさまで元気にしています」優真は律儀にすべての問い掛けに手短に答える。 「う~ん、立派になったねえ、さぞかしお母さんも喜んでらっしゃるだろうね。ところでこの前ね……」自分の話を続けようとする。 「あ、あの、おばさん、陶子はいますか?」 「あ、陶子? うん、いるけど今ちょっとね、風邪ひいて休んでるんだよ、学校」 「あ、そうなんですか? あの陶子が風邪ねえ」 「やだ優ちゃん、あの子だって風邪くらい引くわよ、怪物じゃないんだから」と笑う。 「怪物って、そんな」相変わらず面白いおばさんだ、と優真は思う。 と、「怪物がなんだって?」いきなり玄関の奥から陶子が顔を出してきた。 「あ、陶子」 「あ、とうこ、じゃないわよ、あんた、なにしにきたの?」にべもない対応である。優真がパジャマ姿の陶子を見るのは初めてであるが、いかに幼馴染とは言え、多感な時季の女子高生がパジャマ姿のすっぴんで堂々と出てくるものなのか。 「何しに来たのって、あのな、実は」玄関に足を踏み入れようとしたとき、 「ダメよ、はいってきちゃ!」ぴしゃりと言われる。 「え?」 「お母さん、ほら、早く優真を追い出してよ、早く~」 わけもわからないまま母親に、ね、優ちゃん、などと言われながら玄関前まで連れ戻された。 「優ちゃん、ごめんね、陶子、いまインフルエンザにかかってんのよ」 「ん?」 「ん、じゃないわよ、相変わらず回転が鈍いわねえ、あんた、今度の日曜日は追い出し紅白試合でしょ、風邪移ったら困るじゃないの、早く用件を言って帰ってよ」  おばさんは苦笑いしながら、娘の態度を優真に謝るでもなく、 「じゃあね、せっかく来てくれたから久しぶりにお茶でも飲んでってもらいたいんだけど、うちのお転婆娘がああいうもんだから」「優ちゃんまたね、お母さんによろしく!」そう言って家の横から裏庭の方へ行ってしまった。 「で、なんの用事なの?」優真と距離が離れたことを確認したお転婆娘は用件を聞く。 「うん、それがさ、さっき駅で小百合にあったらお前が三日も休んでるって心配してたんだ、ほらお前ってこれまで俺の知る限り学校を休んだことなんてなかったじゃないか、だからきっと小百合も心配したんだろうと思う」 「で、きてくれたの?」 「ああ、小百合に頼まれたんだよ」 「小百合に頼まれたからなの?」 「ん? そうだけど」 「……、そう、まあ、ありがとう。じゃあもう状況はわかったでしょ、さあ帰って。あんたに風邪移すと夢見が悪いからね。小百合にもよろしく言ってね」一応の礼は言ったものの、けんもほろろの対応である。 「あ、ああ、じゃあな、陶子、大事にしろよ!」 それだけの会話が行われ、そして優真はくるりと向きを変え、駅の方に歩き出した。少しの間を置いて優真の背中に陶子の声が当たる。 「優真っ」 振り返ると、陶子はこれまで優真が見たことのないばつの悪そうな表情を浮かべてドアノブを握っていた。 「わざわざ、ありがとね」 「あ、ああ」  そして陶子は優真の返事もそこそこにドアを閉めてしまった。  世間一般の普通の友人同士なら、こうした態度には少なからずマイナスの感情が芽生えるかもしれないが、優真にそうしたものは起こらない。幼馴染であるからか、陶子の心根をわかっているからなのか、いや、そんな分析の発想さえ浮かばない優真であった。だが最後の陶子の礼の言葉は、久しぶりのような感じでなにか嬉しかった。この感じ、いつかあったような、そんなことを考えながら駅に近づいていった。 「あれっ!」 「おっ」  声をかけたのは陽平であった。 「先輩、どうしたんですか、こんなところで」当然の疑問であったが、満面の笑みが陽平の感情を表していた。 「あ、いま陶子の家に行ってきたんだよ」  陽平は一瞬怪訝な顔つきになったが、優真から先程来のいきさつを聞き終えた頃にはいつもの表情に戻っていた。 「えっと、次の時間は何時かな・・・」隅坂駅まで一度戻って本線に乗り換える優真は、隅坂駅行きの時刻を探す。すると、 「先輩、このあとなにか予定があるんですか?」  一日会わないだけで敬語使いが復活したのかと思いおかしかった。それを言って陽平を笑わせながら何も予定はないことを伝えると、陽平の目がキラと光った。 「ねえ、よかったら僕のうちに寄ってかない? いまちょうど用事が終わって、僕、今日は先輩と帰れなかったって思い出していたとこだったんだ。偶然、しかもこんな場所で会えるなんて嘘みたい。これもなにかの縁でしょ、ね、寄ってってよお」  再三ねだられた優真は、じゃあちょっとだけ、などといって邪魔することにした。好きになってしまった相手の、普段の生活の一端を見たくないはずはなかった。  昔の城下町っぽさが残る長い土塀が切れた先に、少し道路から奥まって大きな木々の間に洋館が見えた。まさかここじゃないよな、などと思ってついて行くとその洋館の前で立ち止まり、ここです、という。大きな開閉門の向こうは直に正面が見えないよう、樹木が植えられた小山が設けられ、その周りを砂利が引かれてその先の車寄せに通じている。 「お前んちって、すごいんだな」驚く優真に恥ずかしそうに言う。 「おじいちゃんの時代にここに移ってきて、そのときはまだ土地が安いらしくて、それにお客の多い人だったんだって、だからこんな……」その話はそこでやめ、 「今日は母がいるけど、気にしないでね」 〝今日は、って、普通いるんじゃないのか〟そう思ったが「うん」と言って返した。  重そうな玄関扉を開けるとチャイムが鳴った。帰りを知らせる仕掛けになっているのだろう。おそらくその音を聞いてであろうか、広いエントランスの、そのまた奥の広い階段から一人の婦人が降りてきた。 「陽ちゃん、お帰りなさい」高い声をした、若くて美形の人だった。  陽平は「ただいま」とぶっきらぼうに言ったあと、今日先輩が来てくれてるからすぐ上に行きます、と言って母親に紹介しようともしない。流石にそのままでは礼儀知らずと思い、優真は 「こんにちは、藤原優真といいます。お邪魔します」と挨拶した。  婦人は目を見張り、 「まあ、陽ちゃんがお友達を連れてくるなんて珍しいわね。どうぞゆっくりしてらしてね」と言いながら優真を舐め回すように見ている。 「先輩だってば」とだけ言い、優真の手をひいて階段へ案内する。  陽平の部屋は二階の広い廊下の突き当たりの、すぐ右側にあった。広い部屋だった。天井も高く、優真はつい、「ひろいなあ。お前、こんな広い部屋で落ち着かなくないか?」と聞いてしまう。  苦笑しながら陽平は、何をおいてもすぐに優真に近寄ってきた。 「先輩、して」優真の腰に細い両腕を回しながら上を向く。〝かわいいやつだな〟何も言わずに優真はそれに答えてやる。習慣になったとさえ思えるここ毎日の口づけが、今日はできないかと、それぞれが思っていたところである。陽平はこの偶然に感謝し、優真は陶子と小百合に感謝した。 一度軽く唇を重ね合わせたあと、お互いを見つめ合い、そしてそこから十秒ほどであろうか、熱いキスを交わしていたとき、ノックが聞こえた。二人ともはっと間を取る。 ドアが開かれ、母親がお盆に載せたティーカップを運んできた。 「お紅茶でもどうぞ」そういって部屋中央の来客テーブルの上に乗せた。そして優真に近づき、話しかけてくる。 「藤原さんは陽平君の先輩だってお聞きしましたけど、部活の関係ですか?」 すぐさま陽平が割って入る。 「小織さん、お茶ありがとうございました。もういいですからどうぞ、もう」  言われた母は不自然なほど素直に、そう、じゃあごゆっくり、と二人に向かって微笑んで部屋を出ていった。陽平が言い訳のように言う。 「本当の母じゃないんだよ。父の再婚相手なんだけど、そんなに親しくしてなくて」  優真はただ、そうなんだ、とだけ言って部屋を見まわした。広い部屋は入り口と正反対の窓際にベッドが窓に沿うように置かれ、窓と反対側の壁には学習机と幅の広い扉付きの書棚が並んで据えられており、その間のスペースは備え付けの洋箪笥になっていた。中央には来客用の丸テーブルとスツールがおかれ、大きなテレビのほかは何も置かれていない、広いがこざっぱりとした部屋だった。  優真は広々とした部屋をぐるりと見渡す中で目に留まったものがあり、再度そちらに目がいった。部屋の端に置かれた広いベッドの枕寄りの壁の部分に10号くらいの油絵が飾ってあり、その絵のモチーフはなんと〝優真〟であったのだ。バスケットの試合中のひとコマであろうか、ユニフォームを着た優真の胸から上が描かれたもので、その目は斜め手前の何かを凝視している。全体像はおそらくタイムアウト中に、腰をかがめて膝に手を置き、コーチの注意を聞いている場面と想像できる画題であり、盛り上がった肩に光る汗が印象的であった。その絵に近づきながら優真は後ろの陽平に話しかける。 「お前、これ……」  恥ずかしそうに答える陽平。 「うん、先輩だよ。僕、言ったように一年前から先輩を見続けていて。先輩の 試合を何度も見に行ったんだ。それは国体地区予選のM学園戦での先輩。連続シュートを決めた後、相手とのリバウンドで競り勝った後ボールがデッドになったところで相手チームがタイムアウトを取った時、ベンチに戻ってコーチの話を聞いているところなんだ」  優真は、よくそこまで覚えてるもんだと感心しながら、しかし黙って聞き続ける。 「僕、特にその時の先輩の表情が忘れられなくて、その日帰ってきてすぐに会場で描いたクロッキーをもとにデッサンし、翌朝に完成させたものなの。できたらいつか、もう少し大きな絵に、等身大くらいの迫力ある絵に描きなおそうかとも思ってるんだよ。」  優真はその作品の上手さに心底驚いた。見事な出来栄えである。 「陽平、お前、すごいんだなあ、絵の才能もあるのか、たまげたな」 「ううん、そんな、僕に才能なんてないよ。でもこの絵は僕が心を込めて描けた絵だからかな、この絵だけは父が少し褒めてくれたんだ」 「お父さんが?」 「あ、言ってなかったっけ。僕の父は画家なんだよ」  優真はその陽平の出自に驚いたが、同時に真木陽平が美術部員であることも合点がいった。そしていかにもドラマに出てくるような洋館と画家というイメージが湧いてくるのであった。 「すごいな、お前。絵はこの部屋で描くのかい?」と聞く。 「ううん、アトリエがあってそこで」 〝あとりえ?〟  言葉は知っているものの、日々の生活では聞きなれない語句が次々に登場してくることに驚きと興味を持った。 「なあ、そのアトリエってやつを覗かせてもらえないかなあ、俺、本やテレビでは見たことあるけど、実際の画家のアトリエって見たことはもちろんないし、ちょっと見たいんだけど」  一瞬躊躇したように見えた陽平であったが、大好きな、いや愛する先輩の願いに断る術も気もなく、じゃあちょっと待っててね、と言って部屋を出ていった。一分もしないうちに戻ってきた陽平は部屋を出て廊下の先の反対側にあるドアの方に優真を連れていく。ここです、といって入った部屋は陽平の部屋より更に広く天井も高い部屋で、優真がイメージしていた通りの〝画家の仕事場〟であった。天窓からの自然光が部屋の片隅に光の川を作っていた。 「へ~、これがアトリエかあ」興味を持ちながらふと湧いた関心をぶつけてみた。 「ここはお前とお父さんが、その、時間を決めたりしながら使ってるのか」優真にしてみればこれまで得た情報を集めた上での軽い質問であった。 「……」一瞬黙り込んだ陽平であったが、すぐにまた明るい顔になっていった。 「あのね先輩、いま父はこの家を出ていってるんだ。だから僕だけが使ってる」 「あ、どこかへ絵を描きに旅行でもしているんだね」 「ううん、あの、もしかして父はさっきの小織さんとは別れるかもしれないの」 驚いたのは優真であった、すぐに立ち入った質問を謝る。 「ご、ごめんな、俺そんなつもりで聞いたんじゃ」 「いいんだよ、別に今の僕にとっては大したことじゃないんで」 「大したことじゃないんだって、お前」 「ほんとにいいんだってば、気にしないで。もうずっと前からこんな感じだったんだから、うちは」そういうと逆に優真を励ますように明るく、さ、部屋に戻ろうよ、と促すのであった。  あ、うん、と部屋を出ようとしたとき、いくつか置いてあるイーゼルに架かっている、大き目のキャンバスの一つが大きな布で覆われているのに気が付いた。そのほかの2つの絵は一つは松城の街を描いた風景画、もう一つは静物画でモチーフがバスケットボールと笛、であったが、布のかかる絵が気になってしまう。 「陽平、こっちの絵はお父さんの絵か何かなのかい」  陽平は困ったような顔をした。 「よかったらお父さんがどんな絵を描かれるのか、ちょっと見せてくれないかな」  興味津々の優真は頼んでみた。 「あ、あの、それは父の絵じゃないんだ、僕が描いたものなんだけど」 「へえ、そうなんだ、じゃあ見せてもらえるよな、お父さんの絵じゃ了解もいるだろうけど」と促すのであった。 「…………」今度は少し長い間があった。優真はすぐに、何かまずい願い事をしてしまったのではないかと思い、謝りながら言い直した。 「あ、ごめんよ、そうだよな、何でもかんでも見せてくれなんて、ごめん、人には他人に見られたくないもの、言いたくないことってあるよな。悪かった、ごめんな」  じっと黙って下を向いていた陽平であったが、優真の態度に、返って申し訳ないと思ったのか、戸惑いの表情を浮かべながら語り掛ける。 「先輩、僕は先輩に見られたくないもの、知られたくないものなんてないよ。僕は先輩が大好きだから何でもさらけ出すことができるんだ。これ、本当だよ。だけど今ちょっと僕が躊躇したのは、」 「いいんだよ、な陽平、俺が調子に乗ってなんでもかんでもせがんだのがいけないんだ、忘れてくれよ」慌てて再度謝っていく。 「違うんです!」敬語使いに戻っていた。声が大きくなった陽平は、すぐに声を落とした。 「先輩……、これ見ても僕を嫌いになりませんか? 僕、それが怖くて躊躇しました。でも、……そう、やっぱり見てください」そういうとイーゼルに近寄って覆っている布に手をかけた。 「いいんだってば、陽平っ!」優真は叫んだ。だがあっという間に布は取り払われ、  目を見張る優真。 「こ、これって……」  目の前に現れたのは、60号程の大きなキャンバスに描かれた優真の裸体であった。美術の教科書に載っていたギリシャ彫刻のダビデ像のような優真がそこにいた。  優真は、まずモチーフが自分の裸体であったこと、迫力のある大きな絵であること、そして先ほどの陽平の部屋にあった絵で証明済みの〝彼の写実能力〟の素晴らしさ、それらのすべてに息をのむ。  陽平は、今度は覚悟を決めたかのような声できっぱりといった。 「ごめんなさい、勝手に先輩の裸を描いています。これは先日、僕を抱いてくれる前の、僕の裸をじっと見つめてくれていた先輩です。僕、どうしてもあの時の先輩を残しておきたくて、あの日帰ってきてからすぐにキャンバスに向かいました。絵はまだ完成していません。先輩のあの日の優しさと僕への想いを表現しきれていないと思っているからです」そこまで言って息を吐いた。そして続ける。 「ごめんなさい先輩。僕って気持ち悪いですか? 男なのに男の先輩を好きになり、そして抱かれたいと思い、こんな絵を描く、こんな僕は嫌いですか?」  じっと聞き入っていた優真は静かに陽平に近づいた、そして言った。 「陽平、俺がお前を嫌いになるとか、ましてや気持ち悪いとか思うはずがないだろう? それを言ったら俺だって同じだよ、あの日初めて会ったといっていいお前をその日に好きになり、そしてその日のうちに抱いて、今日もこうして会っている。俺もお前と同じなんだ、相手が男のお前だとしても、好きなものは好きなんだ」  優真をじっと見つめる陽平の眼がうるんできた。 「俺はな、陶子の言う通りばかな男だけど、自分のことはそれなりにわかってるつもりなんだ。以前、まゆみという女を、それは愛していたよ、これ以上の幸せはないって思ってた、愛していたよ。そしてあいつもそう想ってくれてたと思ったんだ。だけど、だけどそのまゆみがさっさと外国にいっちまってさ。あいつに最後言われたんだよ、実はあなたと付き合ったのはこの地域で一番有名で人気者の男を自分の彼氏にする優越感を味わいたかったんだって。それが外国に行くことになったんでもうその必要がなくなったからこれでさよならするわ、だってさ。裏切られたみたいでショックだったよ。それ以来、俺の中には女に対する興味も何も消え失せて、なんていうか、そういう意味での、人を愛することってのができなくなってたんだ。おそらく今でもそうだ。だけど、だけどこの前お前と会った時、何かが俺の中で起こったんだ。それがなんだか説明なんてできないよ、でも確かに何かが変わったんだ。それはお前がまゆみと同じ女じゃない男の子だからか、後輩だからか、綺麗な顔をしているからか、いろいろ考えたけど俺にはわからない。だけど、これだけは言える。まゆみを失った後、誰をも愛せない体になっていた俺が、今は心底お前を想ってる、お前が大好きになっている、これだけは間違いのないことなんだ。だから俺は、お前が嫌になるまで愛し抜く、そう決めたんだ」  聞いていた陽平の眼からは涙がとめどなく流れ落ち、そして敬語も消えた。 「せ、ん、ぱい……、僕でいいの?」 「お前がいいんだ、お前だけが……」 「ああっ」  どちらからともなく抱きつき、陽平は顔を上向けて優真の愛の接吻を受けながら優真の肩に後ろから手をかけて抱きついていく。陽平の体は逆くの字に折れた。長い行為だった。  しばらくして、唇を離した優真は言った。 「それにもう一つ、さっき言わなかったけど、お前と俺が全く同じだ、って言ったことで話さなかったことがあるんだ」 「なあに?」優真にそのまま抱きかかえられながら、キスの余韻の中でうっとり言う。 「ほら、お前が、“男なのに男の先輩が好きになり、そして抱かれたいと思い、こんな絵を描く”といったことに対し、俺も同じだって言ったけど、お前の“こんな絵を描く”といった部分に対することで、だ」 「……?」 「覚えてないか?俺はあの日、お前と全裸で向き合ったとき、お前の裸を写真に撮らせてくれと言ってポラロイドカメラを持ち、お前はそうさせてくれた」 「うん、覚えてるよ、別に、先輩がそう望んでるんなら僕はいいと思った」 「うれしかったよ。その時な、俺は、お前の裸の写真をずっと取っておきたいって想いよりも、それも正直あったけど、それよりも、こんなきれいな体をこれから俺が抱くかもしれない、こんな俺の腕の中に入る前のお前のきれいな体をどこかに残しておいてやりたいって思ったからなんだ。都合のいい言い訳に聞こえるかもしれないけど」  陽平は優真を直視しながら首を振る。優真が話を続ける。 「そういった意味では、お前が描いた絵なんかより、俺が写真を要求したことの方がよほど気持ち悪いと思われても仕方ないんだ。お前の方は自分の技量で好きな人を書き留めたいという芸術的な行為だろうけど、俺の方はカメラ頼りだ。それにあの時、ひと廻りしてもらってお前のすべて、後姿なんかも、何枚も写したりして。何をやってんだと思う。ただ、お前もそうだけど、俺もお前が好きだからこそそうした行動に出てしまっただけで、好きだという気持ちの表れ以外の何物でもないということだけは信じてほしい。だから今日、俺、この写真はお前に渡す。俺の欲望のために撮らせてもらったんじゃないって言いたいから。これはそれこそ、いつかお前が自分のきれいな体を絵に残したいと思ったときのために使ってくれ」  陽平は意外な受け答えをした。 「もう僕を見たくないってこと?」  優真は慌てて言いなおす。 「違う、違うってば。今も言ったように、いつかの時のために、きれいな時のお前を、もちろん今でもきれいだが、こんな俺に抱かれる前のお前を、自分がみたいわけじゃなくて、どこかに記録しておきたい心境にかられたんだということだよ。それを持っていていいのはもちろんお前だけだ。俺はお前に毎日会えるし、その、何だ、お前のあの時の体はこの目に焼き付いている、そしてもしお前さえよければ、またお前を見せてもらえると思うから、俺はそれでいい。いや、それがいい。決してお前を見たくなくなったわけじゃないんだ。それに……、実は俺はそれを持っていると、年がら年じゅう見たくなって何も手につかなくなるんだよ」  陽平がそこに反応した。 「年がら年じゅう見ていてよ、僕を思い出していてよ……」甘えたかわいい声である。 「そうしたいし、実はもう、それを見なくてもそうなってるんだよ。いつもいつもお前を想ってる。なのにその上それがあると俺はどうなっちゃうかわからない、だからいったんお前に渡す、な、そうさせてくれ」  うれし涙はいつか止まり、陽平は少し明るくなった表情で聞いていたが、ここでにっこり微笑んだ。 「うん、わかったよ、じゃあ僕、これ、もらうね」 「わかってくれたか、陽平」 「うん、ごめん、困らせるようなこと言っちゃって。先輩も僕を好きになってくれていることがわかって、僕、最高にうれしい。もう何にもいらない。あの日以来、翌日から先輩と千行寺下駅まで帰る毎日だったけど、実は内心不安だったんだ。ああはなったけど、先輩は一時の気の迷いでそうなってるだけで、だけど先輩は誠実な人だから僕を傷つけまいとして、しばらくは付き合ってやろうとしてくれてるだけじゃないか、なんて……。だからこの絵の先輩の表情も描き切れなかったんだ、自分で納得できてなかったから」 「ばか、そんなことあるか」 「うん、いまの先輩の言葉で分かったよ、先輩、信じていいんだよね!」 「当り前じゃないか!陽平、お前が大好きだ」 「先輩、愛してるっ!」  二人はまた長い、さっき以上の激しいキスを続けるのであった。しばらくして二人は唇を名残惜しいかのように一旦離し、またお互いを見つめていた時、陽平は優真の指をつかんで言った。 「せんぱ、い~、写真じゃなく、生のぼくを見る?」陽平の妖しい誘いがあった。  優真は、ここが彼の家であり、生母ではないが母親が在宅していることを伝えて陽平を叱った。  階段を降り、階下に降り立った際、偶然なのか、陽平の継母が階段の下で待っていた。 「あ、お邪魔しました。お茶、ありがとうございました」優真は挨拶する。しかし、この時、母親からは先ほどの雰囲気とは違うとげとげしさのようなものを優真は感じた。 「何のお構いもしないで。今度またゆっくり遊びに来てくださいね。陽ちゃんだけでなく、私も嬉しいですから」などという。  はい、ありがとうございます、と返し、陽平と玄関を出て駅に向かって歩く。 「先輩ごめんね、あの人、先輩をじろじろ見て、失礼ったらありゃしない」憤慨している様子である。 「そうかあ、俺は別に失礼には感じなかったけど、確かになんか観察されてたみたいな気がしたなあ」  この言葉にわが意を得たのか、 「そうでしょ、いい年していやらしいったらありゃしない。高校生の、しかも僕の先輩だって人を〝男〟としてみているんです」 「ええ? そうなのか、俺にはよくわからないけど、まあもうお会いすることもないだろうし、あまり気にするなよ、な、陽平」 「……。うん、先輩がそういうならそうするけど。でも、僕の家にはもう来てくれないの? あの人がいないときならいいでしょ、先輩ぃ、また来てよお!」 「お母さんがいないときに行くのかい、それもちょっとなあ」 「でもあの人はしょっちゅう出かけていて、家にいるときの方が少ないんだよ。だからそんなこと言うと来てもらえる日が限られちゃうよ」 「わかったわかった、ほんとにそれでいいならまた今度寄らせてもらうから。今日のところはそれでいいな」 「わ、うれしいな。ありがと、せんぱい!」「ねえ、明日も一緒に帰れる?」甘え放題になってきた陽平である。 「ああ、いいよ」 「せんぱいぃ~」優真の腕を両手でぎゅっと抱えてきた。まだ人通りのある夕暮れ時である、優真はそれをたしなめるのに苦労するのであった。  夏休みまであと三日に迫った日の帰り道、優真が陽平と駅に向かって歩いていると、ショッピングセンターの前で「優真っ」と声をかける者がいた。陶子であった。 「あ、陶子」 「あ、とうこ、じゃないわよ。でも、この前は手ぶらでお見舞いありがとう」風邪はすっかり治った様子であるが、きつい冗談を言う。 「お前なあ、わざわざいってやったのに何て言い草だい」 「あら、小百合に頼まれたからだけでしょ」あの時の言葉を根に持ってるような、これも冗談をいう。 「何言ってるんだ、小百合に頼まれただけでわざわざ松城くんだりまで出かけるかい、お前が心配になったからじゃないか」思いがけない返事に、 「えっ」陶子が一瞬ひるんだ。すかさず、 「嘘だよ~、鬼の霍乱、皆勤賞が当然の常勝陶子がどうして休んだのか知りたかっただけさ」 「このっ!」何かの期待もあったのかもしれない、そしてこんな優真にあしらわれたという想いと相まって陶子は悔しがったが、不思議と腹は立たなかった。 「それより小百合には私のこと、伝えたの?」と聞く。 「ああ、もちろん、あの日の夜に電話しておいた。陶子が三日間便秘で苦しんでいたってね」  陶子のカバンが優真の尻をしたたか打ち付けた。 「痛ってえな、嘘に決まってんだろ。小百合、心配してたぞ」 「……。そう、ありがとね、優真」急にしんみりとした陶子を変に思った優真だが話題を変えることにした。 「ところで陶子、俺が小百合に頼まれた時、俺はあいつに自分でいけばいいじゃないかといったんだが、なんか、自分は陶子の家には行けないんだ、みたいなことを言ってたんだよ、なんかあったのか?」 「え? うん、別にどうってことないんだけど、ちょっとね」とお茶を濁す。 優真という男はこうした場合、もうそれ以上は聞かない、そうしたことに関しては不思議と空気を読む男であったのだ。その時、 「あの、陶子さん、こんにちは、僕、真木陽平、と言います」陽平が挨拶をする。 「あ、ああ、あの時の君ね。どう、その後このバカのおかげでからかわれてるとか、困ってることってない?」と先日の心配をしてくれる。 「いえ、大丈夫です。その節は先輩ともどもお世話になりまして、どうもありがとうございました。おかげさまで何事もなく過ごしています」 自分にとってうれしい〝何事〟かはあったのだが、しかしそう答えた。 「そう、よかったわね。あなた、真木君だっけ、忠告しておくけど、このバカとあまり一緒にいると移るわよ、バカが。ほどほどにしておきなさいね」そういうと、 「じゃあね優真、一応先日のお礼を言いたかったから、呼び止めただけなの」 改札口に入っていってしまった。 「何て女だ。あれがお礼だってのか」とぶつぶつ言う優真であったがなぜか気分を害したようには見えない。いい関係の幼馴染なんだな、脇にいた陽平は複雑にそう思う。 「陽平、今日、ちょっと寄っていけないか?」優真がホームでそう打診した。 陽平の顔がみるみる虹色に輝いてくる。 「え、え? 先輩、いいの? え、ほんと?」 「ああ、夏休みの計画も立てなくちゃならないしな、ちょっと打ち合わせしないか?」  陽平に断る理由はない、首をうんうんと縦に振って、賛同の意とうれしさを同時に表している。  小さな川沿いの道は先日の優真とのことを思い出させていた。この川沿いの道を歩きながら優真とのその先を勝手に想像していたものが現実になったあの日のことを。陽平は今日についても何らかの期待を胸に優真と並んで歩いていく。家に着いた。  そして今の陽平にとって、人生最高と思える思い出の部屋に入った。先日のことが思い起こされ、なぜか顔が少し赤くなる。優真は部屋に案内した後、飲み物を取りに階下に降りていった。一人になった陽平はカバンを置くと、一瞬躊躇した様子を見せたが、すぐに優真のベッドに遠慮なしにうつぶせになった。優真の枕に顔を伏せ、息を吸い込む。優真の匂いがした。十七年間生きてきた中で最高の幸せと感じたその瞬間を誰にもとられたくない、となぜか思った。このままこうしていられたら…、陽平はしばしそのままの姿勢で大好きな彼のベッドに突っ伏していた。  ノックをせずに優真が入ってきたが、陽平は振り向きも起き上がりもせず、そして微動だにしないでそのままの恰好で寝そべっていた。 「お茶だよ、飲まないか?」優真は陽平の姿勢に対して特に何も言わずに問いかける。 「うん……」そういったまま、まだそのままでいる。 「お前さ、俺の汗臭い枕に突っ伏してて平気なのか? もう起きた方がいいぞ、死んじゃうぞ」ふざけて声をかける。 「死んじゃってもいい、このまま死ねるなら」そういうとやおら肘を立てて枕を縦に抱え、ぎゅっと抱きしめて、またうつぶせになった。 「お~い、起きなさいよ」ふざける態度の陽平に合わせ、優真は陽平に覆いかぶさった。陽平のうなじからコロンの匂いがさわやかだった。急に性意を催した。 「陽平っ」優真は陽平のうなじにキスをしていった。 「あんっ」枕を抱えながらのけぞる陽平。二人の意思が完全に一致した瞬間である。優真は陽平を後ろから抱えて上体を起こし、膝立ちさせたまま後ろからシャツを脱がせていく。脱がされながら、陽平は片手づつ上手に手でベルトを外して自分のズボンをずりおろしていた。優真は自らも上半身を裸にして陽平の背中に密着してきた。白く薄い胸をまさぐられ、首筋に唇を這わされながら、陽平は両手を後ろに回して優真のベルトを外し、チャックを下げて優真を自分と同じ状態にしていくのであった。  もう六時を回っていた。今日は二人とも生まれたままの姿でベッドに横たわっていた。陽平は優真の腕枕に顔を寄せ、厚い胸に左手を置いてまさぐっていた。優真は陽平の頭をなでながらときおり彼の髪をいじっている。 「陽平、大丈夫か?」優真は優しく聞く。  無言でうなずき、言葉の代わりに優真の首筋にキスをした。 「またこうなっちゃったな……」 「?……。なっちゃったなって、後悔してるの?」陽平が静かに聞いた。 「違うんだ、一年とはいえ俺は年上だろう、お前に対してこんなことしていいのかと思ってさ」 「やっぱり後悔してる」 「そうじゃなくて、これからのお前の人生を考えたら、、お前とこうすることが、」 「先輩っ、僕が嬉しいの、知ってるでしょ! こんな幸せはないって思ってるのに、先輩の気が変わったんなら、さみしいな」寂しげに言う。 「違う違う、この前お前の家で言ったとおりだ、俺の中にはいまお前だけがいる。ただ、なんていうか、ずっとこのままお前を俺に閉じ込めていいのかなって思うんだよ」優真は自分自身に問いかけるように呟く。 「だめだよせんぱい。先輩が僕を嫌いになったりするのは、嫌だけど仕方ないとして、僕のために自分の気持ちを疑っていくなんてことはしてほしくないな。明日なんてどうなるかわからないんだし、今のお互いの気持ちだけに忠実に従っていこうよー」 「うん、そのとおりだ、悪かった、変な言い方して、ごめんな。そう、俺はお前が好きなんだ、それでいいんだ」自らに言い聞かせるように言う。 「せんぱい、嬉しいっ!」優真にかぶさり、キスを求めていく。しばらく重ね合う。そして何かを思い出したかのように、 「あっと、こんな時間か、今日はおふくろが外で誰かと会うとかでいないんだけど、夕飯を用意してくれてるんだ。陽平、シャワーを浴びてこいよ。おふくろが帰ってくるまでに風呂に入って食事を済ませておこう」優真が唐突に伝えた。 「えっ、おかあさん、いないの? 夕食って、僕の分も?」と陽平。 「ああ、今日もしかして友達を連れてくるかもしれないって言っといたんだ、そしたら今日は自分も古い友人と外食するから、用意しておくから食べてってもらって、って」 「へえ……」陽平は優真の母親の気持ちを図りかねていた。 「じゃあ先輩ぃ、この前みたいに一緒にシャワーを浴びようよ」という。 「いや、お前がシャワーに架かってる間に俺は夕飯の支度をしておくから、一人で入って来いよ」 「いやだ、一緒に入るぅ~」わざと甘えた声を出す。 「お前なあ……」  結局、夕飯の支度はシャワー後に一緒にすることにして、二人は一緒にふろ場に行くのであった。  今日の本来の目的が本当に夏休みの計画作りだったかはわからなくなってしまったが、二人は夕飯を食べながら一応計画を立てた。  それはまず、もちろん毎日連絡を取ること、週に一度はどこかで会うこと、一度ディズニーランドに行くこと、など、計画と言える細かいものでもなかったが、そのように決めた。最後にもう一つ、この計画をしっかり実行することを前提に、相手のことを思わずにはいられないだろうが、会えないときは必ず勉強することを誓った。優真とすれば自分とのことで陽平の進路を挫折させたくなかったし、また自分としても女手一つで働いて大学に行かせてくれようとしている母の期待に必ず応えたかったからでもある。優真は自分に浪人は許されないと思っている。今のこのような陽平との状況については、悪いことをしているとは思わないまでも、申し訳ないという気持ちでいっぱいではあったのだ。しかし青春の熱情は理性を上回って止みがたかった。 「わかった、僕、約束守るよ」という承知した言葉の次に、陽平は自分の進路について話していった。 「僕、塚本さんが、僕が東大が確実と言われてる、なんて言ってたけど、まあ、山田先生がそう言いふらしてるのは知ってたけど、実は行きたいのは東大じゃないんだ」 「へえ、そうなんだ、もったいなくないか、せっかく行けるってのに」  陽平は笑った。 「それは受験してみなけりゃわからないことでしょ」 「まあ、それはそうだけど、確実なんだろ?」  それには答えず陽平は続ける。 「僕、芸大に行きたいんだ」 〝東京芸術大学〟か、優真は合点した。 「あ、そうか、そうだよな。お前の頭なら、ってよく知らないけど、東大確実の話が出るくらいのお前だから、あそこ、学科じゃ大丈夫だろうし、絵の実力もお前のあの絵、すごく才能があるもんなあ。そうかあ、芸大かあ」  優真に自分の描いた絵のことを言われて少し恥ずかしくなった陽平であったが、将来できれば父親と同じ道を進みたいという抱負を語ってくれた。聞いていた優真は、陽平が高校二年生の段階から、いやおそらくもっと以前から、自分の将来の進む道、夢を持っている陽平がうらやましく思えた。それに引き換え自分はどうか、バスケットを続けていくこともできなくなり、と言って学業成績優秀なわけでもない。そんなことよりなによりも、自分のやりたいことを漠然としか持ち合わせていない、ということに焦りのようなものを感じていた。 「どうしたの?」陽平は自分の話を聞き終えたあとしばらくぼんやりしているように見えた優真に向かって、聞いていく。 「えっ? あ、ああ、何でもないよ。そうか、お前はすごいな、きちんとした夢を持ってるんだもんな」 「そんな、まだそうなりたいって思ってるだけで、なれるかどうかこれからだし」 「いや、なれるさ。それに、そうしたものを持っていないことには夢に向かってスタートできないんだから、そうした思いを持っていることがすごいのさ」 「そうかなあ? ね、先輩の夢は、何? やっぱり外交官?」陽平が無邪気にそこをついてきたとき、ただいまあ~、と優真の母が帰ってきた。  優真はなぜかほっとし、玄関に向かった。母子が二人でリビングに入ってきたとき、陽平は食器を重ねたりして片づけを始めていた。 「あ、いらっしゃい、あら、食べてくれたの? ありがとね、おばさんの料理じゃもてなしにならないんだけど、優真の友達には割と評判いいんだよ」などという。 「いえ、いいえ、とってもおいしかったです。わざわざ僕の分まで、ありがとうございました」丁寧に礼を言う。 「あ、片づけなんていいのよう。そのままにしておいて」 「でも」 「ほんとにいいんだってば、あとでこの子にやらせるから」 「あの、食事のあとすぐに片づければよかったんですけど、その、先輩と話してたら今になっちゃって」 「だからいいんだってば。あ、この子にやらせるって言ったこと? うそよウソ! だから気にしないで」  優真も目で〝いいから〟と合図したので、では、と言って皿を置く。  お茶でも飲んでいって、という誘いを、もう遅いですからと丁重に断って、きちんと挨拶をして玄関に向かった。 〝よかった。無事に挨拶できたかも〟今日も、母親と会う前に優真と愛し合っていたことに内心恥ずかしさを感じて彼女を正視できるかどうか不安だったが、クリアできたように思えた。同時にそんな自分を恥知らずのようにも思えていた。  玄関で靴を履いていたその時、母親が優真に話しかけた。話の内容は優真にというより二人に向かって、といったものであったのだが。 「そういえばあんたたち、今日もそろってシャワーを浴びたようだけど、何か汗かくような運動してきたの?」続けて優真に「あんた今日バスケの練習あったんだっけ?」  瞬間に陽平の顔が真っ赤になった。〝真木君もバスケ部なの〟と聞かれる前に玄関を出てしまいたかった。 「あの、先輩のお母さん、僕、これで失礼します。今日はほんとにありがとうございました」いうや否や飛び出すようにこの家を辞した。優真が、ちょっとそこまで送ってくる、と言ってあとを追いかける。  しばらく走ると真っ暗な川沿いの道の街灯の下あたりで陽平が待っていた。 「陽平、待っててくれたか」 「当り前だよ、今日のお別れの挨拶をしないで帰るなんてできないもん」そういって小路の暗がりに優真を引っ張り込んだ。 「あ~、でもさっきはびっくりした、お母さん、よく見てるんだね」と陽平が言うと、 「ていうか、気づくのは当たり前だろうな、バスタオル、二人で一枚にしておけばよかったかなあ」優真が言うと、 「あ~、僕そっちの方がよかったな、ひとつのタオルを先輩と二人で……、うん、ねえ、今度はそうしよっ」 「今度は、ってお前……」優真はかわいいこの後輩に魅入られていく。  夏休みの初日、優真と陽平は仲良く並んで東京行き特急列車の座席にいた。今日は計画一番手、ディズニーランドに行く日であった。優真は過去に友人や恋人であったまゆみと数回訪れたことがあったが、陽平はなんとまだ二回目だという。陽平のはしゃぎようったらなかった。ここはN市でもS市でもない、一日あたり四万人が集まる、遠く離れた浦安市の一大施設であり、二人が、というか陽平がねだって手をつなぐには、人の目を気にすることのない場所であった。スリル満点のアトラクションも、おとぎの国を船で回るようなものも、陽平にとってはすべてが優真と一緒に過ごせる天国の乗り物なのであった。  日帰り計画であったので帰りは夜の十時ころにN駅に着いた。陽平の住む松城町に行くにはここからバスになる。コンコースを通り、エスカレーターで玄関口まで降りるとき、ねえ、ちょっと僕んちに寄ってって、今日、あの人いないんだ、という陽平の誘いを断ることに優真が腐心していた時、エスカレーター反対側の上りに見覚えのある婦人が目についた。優真も陽平も、そして相手もあっ、と気づいた。陽平の継母であった。確か名前は小織といった。彼女は何事かを思ったらしく、近づきながら下で待っているようにしきりに合図して離れていった。彼女はずっと振り返って下っていく優真たちを見ている。エスカレーターを降りたところで待っていると、今度は下りに乗って彼女は降りてきた。そして、陽平、というより優真に近づき、唐突に二人の付き合いを今後はやめてほしいと言い出した。 「藤原さんっておっしゃったかしら。あなた、すみませんけど、今後は陽ちゃんと会うのはやめていただけませんか。ええ、友達づきあいはナシにしていただきたいっていう意味ですよ。友達だかどうだかわかったもんじゃないですけど!」剣のある言い方だった。  驚いたのは優真というより陽平である。 「な、何を言うんですか、小織さん、いきなり」  それには答えず、優真の方を向いたままでさらに、 「あなたたち、いったいどういう関係なの、男同士でいったい何なの」 「……」 〝この人はどこまで知っているのだろうか〝 優真は黙っていた。 「失礼じゃないですか、小織さん、今の言い方、先輩に謝ってください」  すると彼女はようやく陽平の方に顔を向けた。彼女なりの決意が見て取れる顔だった。 「陽ちゃん、あなた、男が好きなの?あなたほどの子なら女は選り取り見取りよ、それをよりによってこんな男とっ!」敵意が丸出しの言い草であった。 「こんな男って何ですか、あなたなんか、まだ離婚が正式に決まってもいないのに、これからまた東京に男に会いに行くんでしょ? そんなあなたに先輩のことをああだこうだ言われる筋合いはありませんっ!」  エスカレーターをこれから上る者、降りてきた乗客、みんなが振り返って、見ていく。 「陽平、言い過ぎだ、やめろ」優真は陽平をたしなめる。 「だってせんぱいっ、この女、先輩のこと」 「この女なんて言うなっ、陽平。仮にもお前のお母さんだろ」 「仮にもって何ですか、失礼な。あなた、これから私がいないのをいいことに、私の家に行くところだったんじゃないの? この子をどうするつもりなのっ! またキスでもするのっ!」  どこでそんなことを、とは二人とも思った。そしてさすがに優真も腹が立ってきたが、こんな場所で言い合いをするのはだれにとってもよいことではない、そう思った優真は話を終わらせる目的をもって、 「陽平のお母さん、はい、僕たちいま、付き合ってます。でも男同士とかそんなのって、人間と人間がひきつけ合うのに関係ありますか。僕はないと思う。僕は陽平が、彼という人間が好きです。それだけです」きっぱり言い切った。陽平の継母はここまで面と向かって言われることを予想だにしていなかったのか、あっけにとられていた。 「でも、今日僕は彼の家に行くつもりはありませんからご心配は無用です。失礼します」そういうと優真はいきなり陽平の腕をつかんで駅の外に出ていく。 「手を引っ張られながら陽平は 「先輩ごめんね」繰り返し言う。  バス停まで来た。 「陽平、あんなこと言っちゃっていけなかったかな、だけど俺、自分に正直でいたいから、つい、……」 「いま僕、とっても嬉しい。先輩が公に宣言してくれたようなもんだもん。ありがとう」陽平は事実、心から感激している様子である。 「ならいいけど、これからお前、居づらくないか、あの家に」 「大丈夫、あの家は僕の家だよ、あんな女に勝手は言わせないよ」 「お前んちの事情はわからないけど、でも戸籍上は一応お前の母親なんだろ、心配してくれてんじゃないのか、言い方はほどほどにしろよ」 「あの人はね、僕を心配してあんなふうに言ったんじゃないんだよ。あの女はね、初めて見た時から先輩を狙っていたんだよ。だけどあの日、僕の部屋で先輩とキスしているのをのぞき見していた節があるんだ。それで今度はあんなことを言ってきて。嫉妬してるのさ、僕らに」  優真は驚きを隠せなかった。もし陽平の言うことは本当ならば、なんということであろう。こんなドラマのようなことが本当にあるのか。 「あの人、ずいぶん若く見えるけど、それでももう四十なんだよ、なのに高校生に色目を使うなんていやらしいったらありゃしない」憤慨の極致であった。 「へえ、四十かあ、たしかになあ、だけど年の差って恋する者にとってはあまり関係ないかもな」一般的な分別ある言葉であったが、今の陽平には気に障るひと言だった。 「え、先輩はあんな女がいいんですか?」恐ろしいような目で見られた。 「ば、ばか、一般論だよ。それにお前の言う通り、高校生に対するってのは、まあ、人それぞれという考えもあるけど、俺もやっぱりなんだかなあ、って感じだよ」 「そうでしょ、おかしいんだよ、あの女っ!」ぷんぷんである。 「さ、陽平、まあ今日は楽しい日だったんだし、あの人のこともそういう人ってことで、そんな人の言うことに引きずられてもばかばかしい、忘れてまた明日、な」 「じゃあ、寄ってってくれないの、あそこはほんと、僕名義の家なんだよ」  優真は少し笑って言う。 「名義はともかく、今夜はやめたほうがいい。さっきああまで言われた以上、 今夜、お前の家に俺が寄るのは得策じゃないよ。俺も我慢するからお前も我慢しろよ、いいな」  陽平の中で、優真からの言葉に化学反応が起こって、とても嬉しくなった。 「……。うん、そうする。先輩がそうしろっていうなら、言うとおりにする」 今夜のところはこれで話がつき、陽平はバスで、優真は徒歩でそれぞれの家に帰るのであった。ただし、優真はやはり気が晴れないでいた。継母とはいえ、そしてああいわれた理由が陽平の言う通りだったとしても、陽平の身内から〝男同士〟の付き合いを罵倒されたように感じた優真は、道すがら急に、今夜は久しぶりに単車で飛ばしたい衝動に駆られていた。  同じ日の同じころ、松城駅近くの公園に二人の女子高生がブランコに乗りながら話し込んでいた。一人は子供用のブランコにお尻が入りきれないほどの体格であったが二人とも身長が高く体も大きい。 「やっぱりだめだ、これ。陶子、シーソーにいこう」  言われてふふっと笑ったのは優真の幼馴染、陶子であった。 「私もぎりぎり、お尻というより腰の両側に金具が当たって痛いわ」陶子が言う。  二人はブランコの隣にあるシーソーに、スカートを器用に束ねてからまたがった。 「私、シーソーに乗って上にいったの、小百合が初めてよ」軽口をたたく。反対側に乗っているのは下条小百合であった。 「失礼ね、そんなこと、はっきり言うもんじゃないわよ」 「ごめんごめん、そんな意味じゃないんだけど」 「そんな意味ってどんな意味よ!」ちょっとの間をおいて、ともに笑いだした。  そしてしばらくの沈黙。陶子が最初に口を開く。 「ねえ小百合、私やっぱり、あんたの気持ちは受けられないわ。あんたの気持ちは嬉しいけど、そして私、あんたは好きだけど、その、そういうのって私はやっぱり……」 「……」 「それに実はわたし、」 「わかってるよ、優真が好きなんだろ?」  驚いたのは陶子であった。実は陶子もいま、夏休みで帰省してきている西高出身の大学一年生から交際を申し込まれていた。この件に限らず、昔から陶子は男性からモテモテの女子高生であった。容姿端麗はもちろん、活発で健康的な陶子はこの地区では有名であった。いま陶子は、小百合のある申し出をただ断るだけでは気まずいと思い、そこに意味はないものの、大学生から交際を申し込まれているという事実を小百合に話して、彼女の申し出を断る際の飾りつけにしようと思ったのだが、〝優真が好きなんだろ〟という、思ってもいなかった小百合の言葉にとっさにかぶりを振った。 「な、何言ってるの、小百合、あんたもバカじゃないの?」「私があの優真を好きだって?はっ、笑わせないでよ!」「あんたも知ってる通り、あの馬鹿よ、あの馬鹿をどうしたら好きになれるっていうのよ、小百合、あんた、今のは聞き捨てならないわ、訂正してよっ、ねえ、訂正してってば」  ずっと黙って陶子の剣幕を聞いていた小百合だったが、頃合いを見計らって言う。 「……なにムキになってんだい、陶子。あんたも素直じゃないねぇ、あんたたちはずっと一緒だっただろ」  小百合の言葉を遮って、なおも陶子は速射砲のように反論する。 「幼馴染ってだけじゃないの。わたしは優真の尻拭いを何度もさせられてきたのよ、それをあの馬鹿、何の感謝もしないし、気づいてもいないんだよ! あいつはね、」  今度は小百合が陶子を遮った。 「あんた、気づいてほしいんだね?」  陶子はその意味を悟って真っ赤になる。 「ば、ばかっ、何聞いてんのよ、そんなこと言ってないでしょ、あ~、もうやだ、やだやだ、小百合のバカっ、よりによってあんな奴を好きだなんてことを」 「そう、そうだよ、あのバカな優真はあんたの気持ちに気付いてないんだ、そう、そして自分の気持ちにも気づいていない大バカなんだよ」小百合が言う。 「……? ちょっと、なにそれ、何言ってんのよ、小百合ってば」 「言った通りだよ、あんたは昔から優真を好きだった、私にはわかる、でも優真はそれに気づいていない、そしてね、実はあいつもあんたのことをずっと好きなんだよ」 「馬鹿言わないでよ、あいつはまゆみが好きだったのよっ」 「そう、あんたの代わりにね、好きになったのよ、まゆみを」 「…………」  思いがけない小百合の話に、さすがの陶子も黙り込んで息を飲む。 「あんたたちは二人ともお互いが好きなのさ、それがお互いにわかってないだけだよ。あたしにはわかるんだ、あたしは転校以来、あんたたちをずっと見てきたんだよ、そしてあたしは、最初は優真を好きになって、まゆみが現れて勝手に失恋し、そして次には女である陶子、あんたを好きになっちまってね、たった今振られたってわけだけど。まあ、だからね、あんたたちを、いずれも片思いだけど好きだったあたしにはわかるんだ、優真がほんとに好きなのはまゆみじゃない、陶子、あんたなんだよ」 「ばっ、バカなこと言わないで」なぜかうつむいてしまうのであった。 「あんたもそのうち、優真がなんであの時まゆみを選んだのか、わかる日が来るよ」 「……」さっきからの小百合の言葉に、自分の中の潜在的な記憶に何かを感じてきたのか、陶子は言葉を返せないでいる。急に、さっきの言い訳の付け足しのことを思い出し、〝話そうとしたのは優真のことではない〟、と言おうとした。 「小百合、さっき私が実は、って言いかけたのはねえ」 「わかってる、いいんだよ、もう」 「わかってるって? 小百合ぃ……」陶子はこの誤解を無駄に解こうと言いかけたが、 「あと、あの子、あのかわいい坊やには気を付けなよ。下手すると優真を取られちまうよ。もう取られちまってるかもしれないけどね」話題が変えられた。 「あの、優真にキスされた後輩君?」 「ああ、あの子、見てると時折、なんかとてつもなく妖しい艶っぽさを出すよね、そっちに興味のある男なんていちころじゃないのかな。本質は違うかもしれないけど、同性を好きになったあたしには少しわかるようなところがあって。もちろんあの子自身は悪気や悪意があってのことじゃないと思う。真剣なだけだと思うけど、だからこそ相手は引き釣り込まれていっちゃうんだと思うんだ」 「引き釣り込まれるって、あんた、何が言いたいの?」 「ん、わかんないけど、優真はほんとに優しいやつだからね、そこが心配さ、まあ、あの二人がお互いにそれでいいんなら何も言うことはないけどね。あ、だけどあんたがいるからねえ」 「小百合っ! 怒るよ」 「まあ、いいや、陶子、優真をしっかりつなぎとめておかなきゃだめだよ、優真のためにもなっ!それが幼馴染のおせっかい姉さんたるあんたの運命なんだからさ」 「だから……」陶子が言いかけると小百合は話を最初に戻し、陶子に礼を言う。 「今日はありがとな、陶子」「あたしの話を最後まで聞いてくれただけで充分さ、あたしはあんたへの想いのたけを全部話せたし……、結果については、ま、そこはしゃあないしな」 「小百合、ごめん」 「謝んなよ、こんな話で、謝られるとかえって切なくなるじゃんか」  真っ暗い公園の反対側に十名くらいの人影があった。小百合の仲間だろう、遠く距離を置いて彼女の話が終わるのを待っている。 「さて、行くか。今の話とは別に、祥子のことは、悪かったと思ってる、改めて詫びるよ」 「いいのよ、あの子もあんたたちのようなグループに入った以上、ああいう場面は覚悟してたんだろうし、そういうあの子にも非がないとは言えないしさ」 「陶子……」 「小百合、あんたが責任を感じることはないよ、これは祥子自身の問題なんだよ」  どうやら小百合が陶子の家に出向けないと優真に言ったのは、ここら辺に理由があるようであった。 「違う、あたしがもう少し気を付けてたらあんな目にはあわなかったはずだ。 おじさんが怒るのも当然だよ。ただ、もう二度とあんなことは起きないようにするから、せめてそれがあたしの償いの気持ちだって、おじさんに謝っておいてくれよ。許しちゃもらえないだろうけどさ」  聞いていた陶子は急に嫌な予感に襲われた。 「小百合、あんた何をするっていうの? ねえ、何か無茶するつもりじゃないんだろうね。やめてよそういうの。もう警察沙汰になってるんだから、あとは警察に任せておけばいいじゃないの!」  小百合は、何ともいえない何かをあきらめたような表情を浮かべながら、しかし断固たる言葉遣いで言った。 「陶子、あたしたちの世界じゃそうはいかないんだよ。これは祥子だけのためにじゃない、あたしたちの意地の問題なのさ」 「バカなこと言わないで。意地が何だっていうのよ、ねえ小百合」そして、 「さっきから向こうにいる人たち、あんたの仲間でしょ、これからどこ行くの? 何をしようっていうのよ?」  それには答えず、小百合は陶子に向かってすすっと近づき、声を落として言う。 「ねえ、陶子、もうさっきの願いは忘れてくれていいからさ、だけど最後に一つだけ頼みがあるんだ。聞いてくれないかな」 「あんた最後にって? でも、なあに、私にできることならするけど」 「ほんとかい、約束だよ」 「何よ、変な小百合ねえ、言ってごらんなさいよ」陶子は話をせかす。  しばらく言い淀んでいる小百合だった。どう言い出していいかわからない様子である。 「ねえ、なあに?」  大きな体に似合わず、小百合の声は小さかった。 「あのさ、」 「うん」 「あのさ、最後にあたしとキスしとくれよ」言ってしまった、とばかりに下を向く。 「な……」陶子の驚きようといったらなかった。だが、先ほど来の小百合の話とは、〝陶子と付き合いたい〟という話だったのだ、それを考えると今の申し出も筋は通る。  小百合は転校以来、実は優真が好きであった。ひそかに思いをはせていたが、優真がまゆみという、自分とは正反対と思えるイメージの彼女と一緒に歩く姿を見て、想いを伝えぬままに勝手に失恋していくのであった。そして高校に進学した小百合の体はますます成長し、その体躯から上級生に目をつけられていつの間にか今のグループに引き入れられてメンバーとなり、最上級になった今はここら辺一帯の番を張っている存在になった。そうした過程で、自分は男とは恋愛などできない、と思うようになっていたのである。そのような折に松城から通学してくる、中学の同級生だった陶子と駅で久しぶりに再会し、中学の時と比べて二回りも大きく育っていた、バレーボール選手のまぶしいくらいの陶子に、女でありながらも同じ女性の陶子に淡い恋心を抱いてしまっていたのだった。そんな時、陶子の妹の祥子は中三の時、反抗期を迎えていたこともあって厳格な父と反りが合わず、しばしば反抗していたころに、姉の知り合いである小百合に出会い、小百合も自分が憧れに似た恋心を抱いている陶子の妹、ということで何かと気にかけているうちに、祥子は小百合のグループに入ることとなってしまった。小百合のグループは、特に何か悪さをするような集まりではなく、いわば寂しい者同士が寄り添うような、そんなグループだったのであるが、陶子の父はそれがわからないままそうしたグループを認知せず、なおかつ、先日、隣町のグループとのいざこざの折に祥子は相手の一人を傷つけ、自分もけがをさせられてしまったのだ。祥子はルックスも陶子に似て美人であり、それもあってその後も相手チームから目をつけられて、一人では街を出歩けない状態になっているのであった。  そんな中で小百合は何かをしようとしている、陶子はそう思った。祥子がけがをした日、小百合が陶子の家まで祥子を送ってきたときの、父の小百合に対する言動は、いかに可愛い娘のことを思ってのことであっても、大人として言い過ぎであったと陶子は思っている。陶子はそのことについては何度も謝ったが、小百合はいつも、あたしが悪いから、というのであった。小百合はそれ以来、陶子の家には近づかないようにしていた。 「……」言われた陶子はしばらく小百合を見ていた。ようやく小百合がおそるおそる顔を上げて陶子を上目遣いで見る。陶子はじっと小百合を見つめて、そして 「いいよ」といった。 「え?」頼んだ方の小百合が驚く。 「だからいいよ、小百合、キスしても」 「と、陶子」 「と、とうこ、じゃないわよ。キスしたいんでしょ、してよ、早く」なんという情感のこもらない言い草であろうか、だが小百合には相手に恥かしい思いをさせたくない、という陶子のやさしさが伝わってきた。 「あ、あのさ」了解は得たものの、どうしていいかわからないでどぎまぎしている小百合に、逆に陶子が近寄った。そしていきなり小百合の頬を両手で包み込んだかと思うと唇をあわせていった。  小百合は最初、驚きのあまり目を見開いてそれを受けたものの、すぐに目を閉じた。さらに驚きは、陶子のキスはそのまま五秒ほども続いたのであった。実のところ陶子はキスが初体験である。されるままにしている小百合。ただ単に、唇と唇を重ね合わせただけのキスであったが、小百合にとっては至福のひとときであったろう。いつしか陶子は小百合の頬から両手を外して彼女の太い腰のあたりをしっかりと抱き抱えていた。小百合はといえば、女性が男性に縋るような形、陶子の脇から向こう側に手をまわして陶子の肩を抱える格好で抱きついていた。実は小百合もこれまでキスなどしたことはなかった。だから、ただ唇を重ねてじっとしている陶子にどのように応えるのがいいのか、わからなかった。そこで、テレビなどで見たことのある光景を思い出し、陶子の口に舌を少し入れてみた。びっくりしたのは陶子であった、いきなり口を離した。 その離れ方が尋常でない感じを受けた小百合は、 「あ、あの、ごめん陶子、私、キスなんて初めてで、その、どうしていったらいいかわからなくて……」小百合は素直に謝っていた。 「……」少し間をおいて陶子も言う。「小百合、私もキスなんてしたことないのよ」 「えっ」 「そう、小百合がファーストキスの相手よ」 「と、陶子、よかったのかい、あたしで、」 「何言ってるのよ、あんたも初めてなんでしょ、お互いじゃない。それに私は自分の意志であんたにキスしたんだよ、私、小百合は好きだもの」 「と、陶子……」 「と、とうこ、じゃないわよ、びっくりしたじゃない、いきなり舌入れるなんて」 「ご、ごめんね、あたし、こんな時何か応えなきゃいけないもんだと思ってさ」  一瞬見つめ合って言葉を失い、そして二人ともふふっと笑った。それから陶子はもう一度、今度はゆっくりと顔を近づけていきながら、小百合のそれぞれの手を自分のそれぞれの手で握りながらキスをしていった。今度は、これも見様見真似ではあったが、少し口を半開きにしたまま、ちゅっちゅ、と音を立ててキスを繰り返した。最後は自然と密着させるような深いキスをし、そして陶子はゆっくり口を離した。目の前の小百合は番グループのリーダーではなく、一人の乙女となっていた。とてもかわいい顔であった。 「陶子……」 「小百合、私はね……」」 しかし小百合はそのあとの陶子の言葉は聞きたくないといわんばかりに、 「陶子、ありがとう、じゃな」といったかと思うと、 くるりと向きを変え、公園の向こう側に待っている仲間の方に一目散に走っていってしまった。  寝つけなかった。今夕に経験した衝撃はあまりにも多く大きく、そして十八歳の乙女の胸の裡はそれらをすべて一度に受け止めるには小さすぎた。陶子は先ほどからベッドであれこれ考えていた。妹の祥子のこと、それを気に病んで何かをしようとしているに違いない小百合のこと、女同士の交際を申し込まれたこと、それを断ったこと、せがまれてしたファーストキスのこと、そして小百合に、自分が優真を好きなんだといわれたこと、そしてそして、実は優真も陶子を好きなんだといわれたこと、それらが先ほどからぐるぐる頭の中で渦を巻いていた。このすべての出来事について、自分はどうしたらよかったのだろうか、そんな思いが陶子を苛む。  と、窓にコツンという音がした。風の音かとも思ったが、すぐに聞こえた二度目の音は明らかに窓に何かが当たった音であった。ベッドを降りて窓に向かいカーテンを開けてみた。懐中電灯のような光がこちらを照らしている。窓を開けると誰かが下の道路から照らしていることが分かった。 「誰っ?」暗闇に向かって小さく声をかける。  ライトの先から女の声があった。 「陶子さんですか?」 「そうだけど」 「わたし、小百合の友人で千明と言います。ちょっと降りてきていただけませんか?」 〝何かあったな〟、陶子は察知し、待ってて、と言ってガウンを羽織り、すぐに階下に降りていった。そっと玄関のドアを開けて、道の端に待っている小百合の友人に近づいて驚いた。 「あ、あなた、どうしたのそれ?」  門灯に淡く照らされた女子高生の頭からは血が流れ、長い髪が額に貼り付いて乾きだしていた。 「あの、小百合がこれを陶子さんに届けてくれって、頼まれたもんですから」  茶封筒に入った何かを渡してきた。そして、 「確かに渡しましたから。じゃあ」そういってすぐに去ろうとする。 「あ、待って!」陶子が引き留めるのも聞かない風に走り去ろうとした。ダッと飛び出して千明と名乗った女子高生の腕を掴まえた。 「ねえ、聞かせて、小百合は今どこにいるの? 何してるの?」そう尋ねる陶子に 「知らないよ、手を放してっ」と抗う。 「お願いっ、小百合はどうしてるの、教えてよっ!」必死で食い下がる。 「離せよこらっ」相手はもう言葉遣いも荒くなって陶子の手を振り払おうとする。しかし陶子の方が人一倍力が強いらしい、振りほどけずに抵抗する。 「離さないわ、ねえ、お願いだから教えてっ」必死に頼み込む陶子の気持ちが伝わったと見え、 「小百合から絶対に何も言うなって言われてんだよっ」とだけ言う。 「小百合が……」「ねえ、ちょっと待って、これは何なの?」彼女が走り出さないよう監視しながら、相手の手を慎重にゆっくりと離し、いま届けられた茶封筒をのぞき込んだ。 「こ、これは」  そこには東高の生徒手帳が入っていた。〝祥子のだ〟すぐに妹のものであるとわかった陶子は、今度はその女子高生の両肩をつかんで聞く。 「ねえ、お願い、これは妹のものよ、この前のいざこざで相手が祥子から奪っていったものよ。あなたも知ってるでしょ、もう警察沙汰になってしまって、この手帳も取られたって報告済みのものなのよ。それをどうして? ねえ、小百合が何で直接持ってこないの?なぜあなたに頼んだの? 小百合は無事なの?」目の前の女子高生の状態を見れば小百合の心配をするのは当然であった。小百合の陶子への想いを知っているらしい彼女は、陶子の真剣かつ必死の頼みに対して、ついに小百合の言いつけを破る決意をした。 「いいよ、言うよ。小百合からは、渡したら絶対何も言わないですぐに戻れっ、て言われてたんだけど、あんたのこと見てたらなあ。小百合には悪いけど、わかってくれんだろう」「今、病院だよ」ついに教えてくれた。 「病院、って。何があったの、小百合は無事なの?」 「う、ん。小百合、刺されたんだ」  陶子は心臓が止まるような衝撃を覚えた。先日のいざこざの決着をつけ、その際に取られてしまった祥子の生徒手帳を取り返すために、おそらく今日、両グループは衝突したに違いない。そして小百合はその前に陶子に会って自分の気持ちを伝えたかったに違いない。ということは、相当の覚悟を秘めて、ともすると二度と会えないかもしれない想定で会いに来たのか。そのように考えると一つ一つの言葉が腑に落ちるところがあった。そして、今病院だって? 刺されただって? 不吉な予感が陶子を襲った。 「ねえ、私も行く、連れてって、どこの病院、どこの病院よお!」  覚悟を決めてしまった友人はもう拒まなかった。 「O厚生病院だよ、あたしは原チャリで来たけど、あんたどうする? 載せてってやりたいけど、だけどあたしはこの後、もう一軒行くとこがあんだよ」  今は夜更けでもう電車などはない。母も祥子も眠っており、父は出張で不在であった。母を起こして祥子とともに病院へ行こうとも思ったが衝撃が大きすぎると考えた。祥子のことは原因の一部ではあろうが、それだけに状況がわからない今、同行させるべきではないと判断した。また、考えてみれば母に運転していってもらおうと考えた家の車は父が出張で使用していたのだ。一瞬考えた陶子は、 「千明さん、O厚生病院だね、教えてくれてありがとう、感謝するわ。先にいっててくださいな、私もすぐにバイクを手配して駆けつけるから」と伝えた。 「わかった、気を付けてな」そういうとその女子高生は原付バイクにまたがってなだらかな坂道を猛スピードで駆け下りていった。  陶子は急いで家に戻って階段を駆け上がり、まず受話器を取り上げ電話をかける。コール音五回、〝出てよ、出てぇ、お願い、出てよお……〟祈る思いで相手が出るのを待つ。八回目のコール音が終わろうとしたとき、聞きなれた声が電話の向こうで応答した。 「もしもし」 「お願いっ、優真、助けてっ」電話の相手は優真であった。 「どうしたっ! 陶子、大丈夫かっ!」鼓膜が破れるほどの大声であった。いきなり話も聞かずに大丈夫か、はおかしな反応だったが、陶子からの〝助けて〟に対する優真の反応は彼の陶子への想いを物語っていた。 「優真っ、あんた、いままだバイクに乗ってるのっ!」と聞く。優真はバスケットの練習が本格化するまではバイク通学をしていたのである。本来、将来を嘱望される選手になってからは危険性を考慮してバイク通学を上原先生から止められていたのであるが、長期休みにはこっそりバイクを乗り回していたのだった。陶子はそのことをよく知っている。なにせ幼馴染である。 「ああ、今も明日からまた乗ろうと思って、ガレージから引っ張り出してチューンアップしたところだ」先ほどの陽平の義母とのことなど陶子に言えるはずもない。 「優真えらいっ!ほめてあげるから、あんた今すぐ私を迎えに来てちょうだいっ!」 「え、」 「え、じゃなくて、来てくれないの?これないのっ?時間がないのよ!話はあとでするから、私の一生のお願いよっ、来てっ!」一方的に叫んでいた。 「わかった、お前ん家だな、二十分でいく」そして優真は彼から電話を切った。これが優真であった。なんといっても、優真は陶子を信頼している。理由など聞かずに陶子の頼みであれば何でも聞く男であった。  電話を終えた陶子は次に、急いでパジャマを脱ぎ捨ててジーンズをはきTシャツをかぶった。肩までの髪を後ろ一つに髪ゴムで縛り、財布とポケベルをポシェットに放り込んで外に出られる支度に整えてから、二十分間でできることをしていく。まずベッドの上に置き手紙。あとで陶子がベッドにいないことを母親が心配しないよう、〝お母さん、出かけてきます。優真と一緒だから心配しないで〟と書く。そして祥子の部屋の前に例の封筒を置き、大きめのポストイットを貼って、そこには〝小百合が取り返してくれた。もう心配しないでいい。あとで話すから〟と書いてある。静かに階段を降り、玄関の戸締りをして家の斜め前の電柱のところで優真を待った。すぐであった、坂道のはるか彼方に一つの明るい光りが見えたと思う間もなく、ウォンワウォンという爆音が、あっという間にそばに近づいた。もちろん優真だ。電柱の前にいる陶子の前でカワサキ350ccをキキっと回転させて停まった。 「乗れっ」 「うん」それだけ言うと、陶子はすぐに優真の後ろに飛び乗って「優真、ありがとう」とまず礼だけ言った。 「どこ行くんだ」余計なことはとりあえず聞かない優真である。 「O厚生病院までお願い、急いでねっ!」 「あいよ、しっかり掴まってろよ」そういうと一回ブゥオンとエンジンをふかす。陶子は優真の腰に手をまわして優真の背中にぴったりと体を密着させた。 「そうだ、離すなよ、絶対に」そう言う間もなく猛スピードで坂道を爆走していった。  O厚生病院はこの地域最大規模の、そして最も信頼のある大病院である。到着した二人は守衛に通用口から入れてもらった。深夜であり、館内は人気がない。案内された五階のナースステーションで集中治療室を教えてもらい、廊下の角を曲がって向かっていった。次の角を曲がったところの突き当たりに大きな扉があり、その前のソファに小百合の母親と見知らぬ男性が座っていた。二人とも泣いていた。陶子はその光景に愕然とした。いったん歩を止め、そしてそっと近づいていった。 「あ、陶子ちゃん」小百合の母親は涙をぬぐいながら立ち上がった。 「おばさん、……小百合は?」もしかして、と予感しそれ以上聞くのが怖かった。 「もう、治療室にいる必要はなくなったの……。ちょっと待っててね」泣きながら隣の病室に入っていった。陶子は優真と顔を見合わせた。  しばらくしておばさんは出てきて言った。 「陶子ちゃん、待たせたわね、小百合に会ってやって……」 〝まさか〟陶子は入室を遠慮した優真を置いて、一人で絶望に沈みながら病室に入る。ベッドに小百合がいた。おそるおそる近づくと、ぼんやり天井を見つめていた。 〝まだ生きてた!〟不謹慎だと思ったが、予感が外れていたことに感謝する。 「小百合……」陶子は静かに声をかけた。小百合は少しだけこちらに顔を向けた。 「陶子……、来てくれたんだ、千明がしゃべったんだね」  陶子の感情が最高潮に達した。 「小百合、ごめん、ごめんね、私があんたを断ったから、あんたはやけになってあんなことを、そして刺されてしまって……」わんわん泣き出した。 「陶子、……陶子ってば。違うから、あんたのせいじゃないってば」 「ううん、私のせいよ、そして祥子も……」  小百合はそれ以上、この話題を無視して言った。 「陶子、お願いがあるの……」 「何、なんでもいって、小百合」 「ね、もう一度キスしてくれる?」 陶子の眼はもう大洪水であった。 「うん、いいわよ、いいわ……」最後にキスでもなんでもしてやろうと思った。  そして両手で自分の涙をぬぐって小百合にキスをしていく。ゆっくりと、静かに、そして長いキスであった。口を離した陶子は小百合を見つめる。 「陶子、ありがと。あたし、これで生まれ変われるよ」小百合がしんみり言う。 「いやだよ小百合、死なないで、あんたが生まれ変われるなら、何度でも、いつでもキスくらいしてやるからさ、だから死んじゃいやだよお」泣きじゃくりながら小百合にいう。 「本当?うれしいな、陶子、ありがとう! よおし、私、早く良くなるからね、そしたらまたキスしてね」か細い声だが、うれしそうにほほ笑む小百合の声が聞こえた。 「へ? 小百合、あんた……」 「三週間の入院だってさ、ねえ、よかったらまた見舞いなんかに来ておくれよ、頼むよ、陶子お」 「あんた、大丈夫なんだ?」 「え? あたりまえさ、小百合様がちょっとやそっとじゃくたばるわけないんだよ。ただ、確かに今回はあと一センチずれていたら危なかったってお医者さんが言ってたけど」  陶子は本当にへなへなとベッド脇に頽れたのだった。  後で聞いた話であったが、母親が泣いていたのは小百合が一命を取り留めたからであり、一緒にいた男性は別れた小百合の父親で、さすがに小百合が刺されたということで駆けつけ、だが無事だとわかって二人で一緒に泣いていたところに、陶子と優真が駆けつけた、ということだった。“なんて紛らわしいおばさんなの”と、あとで陶子は思った。 〝小百合に会ってやって、なんて言いますか、普通あそこで!〟  陶子が優真に、帰りは普通のスピードで送ってもらい家に着いたのは午前四時であった。遠くに見える陶子の家には明かりがついていた。少し手前のお寺の横でバイクを止め、降りてバイクを引きながら、歩いて家まで送る優真であった。こういうこともする優真である。近隣に迷惑のかからないよう気遣ったつもりである。  二人は小百合の無事を喜び、またこれまでのいきさつと優真を呼んだ事情などを話しながら坂道を歩いていく。一通りの話が終わった時、陶子が 「優真、本当にありがとね、今日は心から感謝してる、ありがとう」しんみりと言う。 「いいさ、いつでも。お前の頼みなら何でも聞いてやるよ」優真の答えだ。 〝えっ〟と思う。 〝あいつもあんたのことがずっと好きなんだよ〟 小百合の言葉がよみがえってきた。  陶子には聞き返すのもはばかられるような、意味深な優真の言葉であったからだが、 「お前には昔からいっぱい世話になってるもんな、ほら、この前も隅坂駅で機転を利かせてくれたろ、あれはほんとに助かった」 〝なあんだ〟陶子の心に湧いた淡い期待のようなものが、やっぱりな、という想いとともに消えていく。 「だけど小百合も水臭いな、俺に相談してくれたら、あんな刺されるようなことにはさせなかったのに、」話題を変えて優真が言う。 「なに言ってんのよ、バカ言わないで。小百合がそんなことあんたに相談するわけないじゃないの」陶子がすぐさま反論した。 「なんでだよ、相談してくれたって」 「わかんないの? あんたはそこら辺の悪ガキじゃないのよ、ここいら辺では、私はそんな風に言いたかないけど、ちょっとしたヒーローでしょ、そんなあんたに迷惑がかかるような相談を小百合がすると思ってるの?」 「そうか、そんなに俺のこと思ってくれてんのか、なんでだろ」  陶子はあきれ顔で優真をまじまじと見た。 「な、なんでだろうなって?」  陶子の呆れ顔の意味を優真は分かっていない、と感じたので、ついに言ってしまった。 「小百合があんたのことを好きだったからじゃないの、わかんなかったの、この鈍感!」 「え」 「もういいわ、あんたは一生そうしてなさい」 「陶子ぉ」弟のような優真であった。 「なによそれ。甘えないで。それとね、もう一つ、あんたに相談なんてできなかった理由があるでしょ」 「なんなんだい?」 「わかんないの? あんたが出てったら、この程度じゃすまなくなるでしょって言ってんのよ。あんた、小百合や私の妹の祥子のことになったら、自分の立場とか自分がスポーツマンだってことなんか忘れて、想像するのも怖いくらいの〝大活躍〟しちゃうでしょ。小百合、そんなことは望んでないもの」  陶子に、自らが無意識に封印していた過去の記憶がよみがえってきていた。 「……。ところでお前さあ、」優真がまた話題を変えてきた。 「なに?」今日はいつもの陶子より少しだけおとなしい。 「お前、おっぱい、でかいな。さっき俺に掴まってた時、俺の背中に、もう大きくて大きくて……」 「うん、人より大きいかもしれないね……」  このとき優真は、今日の陶子は一体どうしたんだろうととっさに思った。今のは陶子の嫌いなからかい方だ、いつもの陶子なら怒って、もしかしてひっぱたかれるような発言を、いま彼女はスルーした。そういえば先程から何か元気がない様子だった。だからこそわざとふざけたことを言ってみた優真であったが、反応しない。よおし、と、 「あのさ、お前は何でいつも俺を助けてくれんだよ」 「別に、理由なんて……」 「あ、そうか、もしかしてお前、お前は俺が好きなのか?」冗談をつづけた優真だが、これには陶子が反応した。明らかに顔つきが変わっていた。 「ばっ、ばっかじゃないの! あんたみたいな、どうしようもないバカを誰が好きになるってのよ」「駅に待ってる女たちと一緒にしないでよ」「あんた、いつからそんなうぬぼれ屋になったのっ!」速射砲であった。  驚いたのは優真であった。胸の大きさを取り上げた冗談にも反応しなかった陶子が、これしきの“冗談”、決まり切った冗談だと優真は思っていたのだが、その言葉に怒り心頭のようだ。優真はびっくりして弁解しようとする。 「あ、いや、違うん……」  ちょうど玄関先に着いたところであった。家の中から娘の帰りを待っていた母親が出てきた。陶子の書き置きによって深夜に優真と出かけていることは知っていたので、一緒に立っている優真を見ても驚かない。 「あ、優ちゃんも一緒に帰ってきたのね」 「おばさん、こんばんは」 「なに、けんか?」 「そんなんじゃないわよ、ただいま」陶子が母に応える。 「だってあんた、いま優ちゃんに大きな声で怒ってたじゃないの。あ、わかった、陶子、あんた、今夜優ちゃんにしてもらえなかったんだね?」  陶子は目を丸くした。なんということをいう母だと。 「なっ、何言ってるの母さんっ!バカじゃないの!」「いくら母さんだって、言っていい冗談と悪い冗談があるわ。よりによってそんなこと言うなんて。最低っ、謝ってよっ!」かんかんになって母にかみつく。  しかし母は黙っていない。 「何言ってんだい、夜中に書き置き一つで家を飛び出しておいて、祥子の生徒手帳のこと考えると、何かことが起こって、そこへ飛び出して行ったと考えるのが普通だろ? いくら優ちゃんと一緒だって言ったって、こっちは心配で今まで気が気じゃなかったんだ、こんな皮肉くらい言わせてもらって何が悪いのさ!」  陶子は一瞬言葉に詰まったが、 「もうどいつもこいつも、わたしのまわりはバカな人ばっかり。私もういやっ!」  母に心配をかけたことは重々悪いと思ってはいたが、乙女に対する冗談にしては、いくら黙って深夜に外出した娘に対する、皮肉を込めた言い方だとは言え酷すぎると思った。そして、優真からの〝意外な〟冗談の後でもあり、今のこのタイミングは最悪であった。陶子はぷんぷん怒って家の中に入ってしまった。玄関先には妹の祥子もおり、お姉ちゃん、手帳ありがとう、と礼を言う声にも反応せず、まっすぐ二階へ上がってしまった。  そんなことにも動じていない様子の陶子の母親は優真に、 「悠ちゃん、寄ってく?」と聞いた。 「あ、あのおばさん、俺は別に陶子に……」 「わかってるわよ、今言ったようにほんと、今のはあの子へのお仕置きなんだけど、優ちゃんにはかえって悪かったね、ごめんね、謝るわ」 「いや俺は別に」 「あんたはほんとにいい子ねえ、優ちゃん、いつもごめんね、あの子のわがままで世話をかけてばっかりで」 「違うよおばさん、いつも助けてもらってるのは俺なんだよ」 「まあね、そういうこともあるだろうけど、肝心なところではいつもあの子は優ちゃんに助けられているのよ、わからない?」 「……?」 「まあいいわ、今夜もきっと優ちゃんの世話になったんだろうことは私にはわかる、親だからね、優ちゃん、ありがとね。今夜はあれだけど、また近く遊びに来てね」 「ええ、ありがとうございます、おばさん。だけど、陶子、怒ってますよ、このあと大丈夫ですか?」 「平気平気、明日の朝、焼き芋でも食べさせたら機嫌治るから心配ないって! バイク、気をつけて帰ってね!」そういうとさっさと家の中に入っていってしまった。 〝最強のおばさんだなあ〟見送りながら優真は思った。 続く
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