二人で立つマウンド

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 それから数日が経った、試合前日の全体練習。明日勝てば準決勝に駒を進める。少しでも長く夏を過ごせるかは、俺のピッチングにかかっている。  もし仮に、尾張大学のスカウトを受けたとして、そこからプロや社会人野球に進むことができたら──。そんなことを考えながら、軽い走り込みを行う。一年間、新聞配達で自転車を漕ぎ続けた足腰には自信がある。試合終盤でもバテないスタミナは、俺の武器の一つだ。  野球でお金を稼げたらどれだけ幸せだろうと思う。だけど、そんな人はほんのひと握り。唯一の家族である姉ちゃんの姿を見ていると、やはり踏み(とど)まってしまう。家計を支えると言っても、まだ二十四歳。人並みに友達と遊んだり、彼氏を作って恋愛したり──もっと自分の人生を謳歌(おうか)したいはず。  だから、俺だけが野球を好き放題やるわけにはいかない。家族として、俺も姉ちゃんの助けにならないといけない。そう考えると、やっぱりこの夏が最後だ。  走るスピードを緩め、呼吸を整える。大会が終わったら伊勢崎さんに連絡を入れよう。汗を(ぬぐ)いながら、ユニホームのポケットの中へ手を入れる。  すると──あることに気が付いた。 「……あれっ」  伊勢崎さんの名刺が、無い。確実に入れたはずなのに、どのポケットを探しても見つからない。冷や汗が一気に(あふ)れ出た。  名刺を貰ったあの日を振り返ってみる。ポケットに入れ、姉ちゃんとご飯を食べ、ユニホームを洗濯機に入れた──そこまで思い出して再び冷や汗をかいた。 「しまった……洗濯機……」  ポケットに入れたまま、洗濯機を回してしまった。今ポケットの中に無いなら……おそらく、水を吸い込んでバラバラになり、他の洗濯物にこびりついたに違いない。  余計な家事を増やしてしまった……心の中で土下座する。 「姉ちゃん、すまん……」  とは言え、尾張大学の連絡先はネットで調べれば出てくるだろう。紙まみれになった洗濯物に比べれば、さほど大きな問題ではない。  意識を再びグラウンドに戻す。明日も先発で投げると刈屋監督から言われている。悔いが無いよう、入念に最終調整を済ませていった。    * 「ただいま~」  練習を終え、静かな家に帰宅する。たしか今日は、姉ちゃんは夜勤だと言っていた。こういう日はあらかじめ作ってくれている夜ご飯にラップがしてある。本当に姉ちゃんには頭が上がらない。  今日は一人、レンジでチンして食べよう。そう思い、食卓に足を進めたその時。テーブルの上に置かれた物を見て、俺は驚きを隠せなかった。 「えっ──嘘だろ」  料理が盛られた皿。上に被さるラップ。箸が一人分。そしてその横に──伊勢崎さんの名刺。もうご飯を食べている場合じゃなくなった。  洗濯されたと思っていたそれは、水に濡れた形跡すら無くピカピカだ。だけど、俺はポケットに入れたまま洗濯機に入れてしまったはず。だとしたら、考えられるのは──。 「まさか──!」  洗濯前、姉ちゃんがポケットの中を確認し、この名刺を見つけた。じゃないと今ここに名刺は無い。  またしても──これはマズいと思った。伊勢崎さんの肩書きには、"スカウト"という文字がガッツリ記されている。俺が尾張大学からスカウトを受けたこと、姉ちゃんは知っている。 「しまった……マヌケだなぁ俺……」  あんなに大声で「就職したい」と言った手前、ものすごく恥ずかしくなった。野球を続けたい本音を隠して強がっていたのが見え見えの発言だった。  明日の試合が終わったら、ちゃんと話そう。そしてポケットの中はちゃんと確認しよう。  ようやく我に返り、レンジがある台所まで皿を持っていく。すると──レンジの横に、またしても何かが置いてあるのが見えた。 「──んっ?」  そこには"必勝祈願"と書かれた手縫いのお守りと、短いメモ用紙。[明日夜勤終わったら球場行くね。がんばれ!]と書かれていた。レンジの電子音を聞きながら、思わず()みが(こぼ)れる。生活する動線上に物を置いていく演出が、いかにも姉ちゃんらしかった。  大切に縫われた手製のお守り。明日着るユニホームのポケットの中にそれを入れ──今日は一人、箸を進めた。
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