ケンタッキーなんですよ

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ケンタッキーなんですよ

 女子更衣室の片隅、私は腕を組んで考えあぐねている。黒木係長から借りたこの男ものの紺色の傘、天日で乾かして折り目ひとつひとつ丁寧に巻いてボタンを留めたものの、これをどうやって返して良いのか分からない。 (そもそも、総合管理職の部屋なんて入った事ないし)  眉間に皺を寄せていると、大きな欠伸をしながら寿が更衣室の扉を開けた。 いつも気怠そうだが今朝は特にやる気がなさそうで頭のてっぺんで結えた髪はあちらこちらに跳ねている。 「寿、また合コン?」 「そう!昨夜は医科大学とインターンだって聞いてたらさ」 「最悪だったの?」 「そ!」 「着ている服の趣味は悪いし、乗ってる車自慢や住んでるマンションが何処とか、くっだらない話題しかないの!ざけんなって感じ」 「あぁ、金持ちの」 「ボンボン!」「ボンボン!」 「それよ、それ。あんなんで医科大学でメスとかぶすーっと」 「ぶすーっと、刺されたくは無いね」 「ほんっ、それ!」  襟元の棒ネクタイを整えて淡いピンクのジャケットを羽織り、個人ロッカーの小さな鏡でシアーなマンダリンオレンジの口紅を唇にのせる。 ん、ぱっ! 「で?」 「で?」 「何が、で?よ、瑠璃、奈良とは連絡取れたの?」 「ううむ」 「ううむって何よ」 「何だかモヤモヤはするんだけど、寿が言うように富山まで行こうとは思えないんだよねぇ」 「何それ」 「倦怠期?」 「ケンタッキー」 「うん、今度ケンタッキー食べに行こうよ」 「郊外にしか無いじゃない、面倒」 「そんな感じ」  手に持った黒木係長の傘をバトントワリングのバトンのようにくるくると器用に回して見せたが寿は知らんぷりだった。褒めてよ、もう。 「何、奈良とはケンタッキーなの」 「倦怠期も何も、会話らしい会話をした事が無いんだよね」 「あぁ、あんたら付き合ってんのか付き合って無いのかわかんない時に遠距離恋愛突入ーーーーー!だったよね」 「そうなんですよ、寿さん」  寿をプラスティックの青いベンチに座らせて、跳ねている髪の毛をヘアピンでモギュモギュと留める。意外と髪の毛が硬くて収まりが悪い。 「奈良の血液型は?」 「A型」 「相性最悪じゃん」 「誕生日は?」 「1月15日」 「相性最悪じゃん」 「ペラーーーーーっとした事は知ってるんだけど、悩みを聞いた事とか無いんだよね。相談事とか、新しい職場の事とか」 「うっわ、何それ」 「うん」 「何、それで一年間、バンバンやりまくってそれだけ?」 「人ぎきの悪い」 「ま、土曜日に帰って来て、日曜日に(はい、さよなら)じゃぁ、若人的にはしかないか」  大きなため息が漏れる。 「これって付き合ってるって言える?」 「ビミョーーーーーーーん」 「それで結婚したいとか思う私ってどう?」 「ビミョーーーーーーーん」 「25歳、周りが結婚しだして焦ってるだけなのかな」 「一度、じっくり会いなされ、有給取ってさ」 「うん」  そこでようやく寿が手に持ってくるくる回していた男ものの傘に目を留めた。 「何、それ」 「うん、この前、黒木係長が貸してくれた」 「え、あの堅物が!一女性社員に傘を貸す!」 「堅物なの?」 「と言うかさ、奈良の富山転勤、黒木係長が推薦したんだって」 「そうなの?」 「これはどう言う事ですか〜?」 「知らないわよ」 「ま、返すときにそれで背中、ブスーーーーっとやれば?」 「ぶ、物騒な、事件じゃん」 「奈良と瑠璃の恋路を邪魔した罪よ、ブスーーーっと」 「恋路ねぇ」  奈良建からのライン返信が滞りがちになりはや半月。最初は結婚の事を口にして彼の気分を害したのか、寿の言うように浮気をしているのかと気分は沈んだが、いざ富山県まで会いに行こうとなると切符を買う事が億劫になる。これは倦怠期なのかまた違う感情なのか、瑠璃の心は揺れ動いていた。
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