紺色の傘

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紺色の傘

「うわぁ、綺麗」  総合管理職のフロアはビルの最上階にあり、全面ガラス張りの大きな窓からは金沢市の日暮れ、日本海に沈む夕日を眺める事が出来る。 瑠璃は黒木に借りた紺色の傘を返す為、グレーのカーペットが敷かれた廊下でコンビニエンスストアの白いビニール袋を手に立っていた。 (うう、場違いすぎて辛い)  終業のチャイムが鳴り、すでに一時間が経っていた。 制服のピンクのジャケットを脱いだ瑠璃は丸襟に白いパフスリーブの白いブラウス、黒に細かなマーガレットの花柄で膝丈スカートを履いていた。足元はぺたんこソールの黒いパンプス。手元でガサガサと音を立てるコンビニエンスストアの袋、男物の傘。 目の前を行き過ぎるスーツの総合管理職員や、スレンダーな白いシャツに黒いタイトスカート、黒いローヒールの役員秘書に足の爪先から頭の天辺まで見られているようで居た堪れない。 (うう、黒木係長、早く出て来て下さい)  私、満島瑠璃は入社して初めてこのフロアに足を踏み入れて緊張しております。目的は黒木係長にお借りしたこの傘と、お礼の品をお返しする、ただそれだけです。なので黒木係長、何卒、何卒、一刻も早く御退勤下さい。そう祈りながら視線を足下に落としていると不意に声を掛けられた。 「あれ、満島さん?」 「か、係長!お待ちしておりました!」 「何かあった?」 「あ、あの。これ!ありがとうございました!それとこれは粗品ではありますが、お礼の品で、ござ、ござい、ま!」 「そんな早口で、急がなくても大丈夫だよ」  黒木係長は薄いフレームレスの眼鏡の下で柔らかく微笑んだ。 「こ、これ。どうぞ」  市販のお菓子を粗品と言うのは失礼だが、とりあえずコンビニエンスストアで極細チョコレートポッキーを大人買いして来た。 「これって」 「は、二年前の春の歓送迎会で、係長がお好きだと仰っていらしたので」 「あぁ、覚えていてくれたの」 「はい、ちょっと意外だったので」  天井を振り仰いだ黒木係長の顔は赤らんで、口元を大きな手のひらで隠していた。笑いを堪えていたようにも、照れているようにも見えた。 「どうされましたか?」 「あ、いや。ありがとう、かえって気を遣わせたみたいだね、申し訳ない」 「いえ、助かりました」  二言、三言、今日の天気の事など無難な会話を交わしながら廊下を歩いた。エレベーターホールには誰も居らず二人きりだった。 (え、えっと。何か、話題)  またまた緊張は最高潮で、行き先案内ボタンを押す手が震えた。 「係長、何階でしょうか?」 「あぁ、一階で。満島さんも帰るんでしょう?」 「は、はい」 「じゃあそこまで一緒に行きませんか」 「は、はい」  ここで無下に断る訳にも行かないので一階の丸いボタンを押した。 すると五階、四階と次々に社員が傾れ込み、背中を押された私は黒木係長の胸の傍近くに立って居た。息遣いを感じる。 (ヒィッ、ちか、近すぎる)  それは係長も同じように焦ったらしく、形の良い顎のラインは天井を凝視し、私との距離を少しでも離そうとしているように感じた。それにしても全く身動きが取れない。エレベーターの使用可能重量はもう少し減らすべきだ。 ぎゅっ  隣の女性社員がよろけて、私の頬が黒木係長の胸元に押し付けられた。ネクタイは肌触りが良くシルク、そしてその奥には意外と分厚いがっしりとした胸板があった。ドクドクと脈打つ鼓動が聞こえる。 「あ、すみません」 「い、いや、私こそ、申し訳ない」 ポーーーーン  革靴とパンプスの音が小さな箱の中から次々と足早に出て、私と黒木係長だけがポツンとエレベーターの中に取り残されてしまった。二人気不味く、右と左を向きながら玄関ロビーへと進む。 「せ、狭かったですね」 「確かに」 「く、口紅、付いていませんか?」  黒木係長が胸元を見下ろすと、ワイシャツのポケットのすぐ横に薄っすらとピンク色の唇の跡が付いていた。 「あ、ご、も、申し訳ありません!」 「いや、不可抗力だから」 「クリーニング代」 「良いよいいよ、気にしないで」 「あ、はぁ」  大股で歩く黒木係長の背中を見ながら受付カウンターを通り過ぎる。 ププーブロロロロ  自動ドアの向こう側はムワッと梅雨の湿気が身体にまとわり付いた。横断歩道の機械の小鳥の囀り、往来する車、そして満員バスの明かりを見送った。 ピッポーピッポー ピッポーピッポー  黒木係長の手にぶら下がった白いコンビニエンスストアの袋がガサガサと鳴る。私の気持ちもガザガサと落ち着きなく、意を決してあの件を尋ねた。 「あの」 「何でしょう」 「人事異動のことなんですが」 「何、どこか他の部署に異動したいの?」 「いえ、二年前の富山県への人事異動、営業職の奈良さんを推薦された方が黒木係長だと聞いたのですが、そうなんですか?」 グッ  黒木係長が何かに喉を詰まらせ、そこには焦りが感じられた。 「な、なぜ、今頃」 「やっぱり、そうなんですね。」 「彼は優秀だったから、推薦したまでだよ」 「そうですか」 「何か問題でも?」 「いえ、聞いてみたかっただけです」 (寿、情報網。侮りがたし)  その後、駐車場の階段の前でお辞儀をして別れた。黒木係長は何度も私を振り返り、ひらひらと手を振りながら階段を降りて行った。革靴の音が遠ざかり、ピッ!暗がりで車の鍵の開く音が聞こえハザードランプが点滅した。 (これって、偶然の一致ってやつ?)  二年前の春の歓送迎会、隣に座った黒木係長はご機嫌で良く喋っていた。後から知った事だがあれ程饒舌な係長の姿は見た事がないとの事だった。 (・・・・指輪)  それがこの建からプレゼントされた指輪を目にした途端、係長は急に言葉少なくなり何かを考えているようだった。 そして、黒木係長の推薦で決まった建の転勤。 =えっ!あの堅物が一女性社員に傘を貸す!=  寿曰く、誰が雨に濡れていようが「ご苦労様」と素通りする黒木係長が、それ程接点のない私に傘を差し出して優しく微笑んだ。 (これ、偶然じゃないような気がする)  いやいや、まさか。 エリートコースまっしぐらの黒木係長が私を? いつから?いつ、どこで?接点はあの二年前の春の歓送迎会、それしか思い当たる節がない。  瑠璃は左手薬指の瑠璃色の指輪を見た。
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