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801号室
紫陽花色の傘を借りたお礼だと佐川さんは言った。
俺もそのつもりでエレベーターのボタンを押した。いつもの五階を通り過ぎた黄色の四角いランプは最上階の八階で停まった。
ポーン
手には彼女が好きだと居酒屋で話した日本酒の立山の二文字があった。
佐川さんと飲むのはこれが二度目だ。
前回は会社の近所の居酒屋で生ビールのジョッキで乾杯した。その時は後から入店した会社の同僚も合流してカラオケに行った。酔いが回った彼女はいつもより明朗で、「何だ、佐川さんって明るいじゃん」「もっと冷めた人かと思った」と周囲から言われ喜んでいた。
「奈良くん、ありがとう」
「ありがとう?」
「私、周りから冷たいとか付き合いにくいとか、そう言われていたの」
「え、そんな事ないじゃん」
「だから嬉しかった」
「ん?」
「みんなとあんな風に楽しめたのも、奈良くんのお陰だと思う」
「そんな事ないだろ」
「そんな事あるのよ、ありがとう」
ほろ酔い気分の佐川さんは化粧っけのない白い頬をほんのりと赤めてエレベーターの中で手を振った。その時、俺は五階のエレベーターホールに降り、その笑顔を見送った。
同じマンション、同じ会社、同じチーム、距離は急速に縮まった。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ、ようこそ、我が家へ」
「なんだよ我が家って、居酒屋かよ」
俺の手には彼女の好きな日本酒の立山の二文字。初めて訪ねた佐川さんの部屋は木の匂いがした。見ると玄関にはガラスの小瓶に透明な液体が揺れ、竹串が何本も刺さっていた。
「何、これ。焼き鳥の串なん?」
「違うわよ。アロマオイル、ウッドスティック、そこから匂いがするの。この匂い、嫌い?」
「好きでもないけど、嫌いでもない」
「あ、そ」
その頃には苗字で呼び合いつつも、軽口が叩けるようになっていた。
「ほら、座って、座って!」
「居酒屋じゃん、砂肝ってオヤジかよ」
「うるさい!」
リビングにはベージュの毛足の短いカーペットが敷かれ、脚の短い豆みたいな形をした焦茶のフロアテーブルが真ん中に置かれていた。テーブルには砂肝の串焼きと枝豆、鶏の唐揚げ、胡瓜と茄子の漬物。漬物は自分で漬けたと言い、冷蔵庫を開けると糠味噌の臭いがして鼻を摘んだ。
「クッセェ!」
「失礼ね、美味しいのよ!」
派手なネイルが塗りたくられていない素のほっそりとした指先が胡瓜を一つ摘んで俺の口に入れる。俺の窄んだ唇が彼女の指先を舌で舐めとる。お互い見つめ合い、鼻先が触れた。一瞬、動きが止まったが彼女は横に長いフレームの眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。二重の綺麗な、それでいて冷たい月みたいな瞳が上目使いで俺を見た。
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