夜嵐

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夜嵐

 大風の中、雨が降り出した。  嫌な宵だ、とシェルは柳眉を寄せた。そして、つくづく不合理で野蛮で迷惑な慣わしだ、とも。  北海を囲むように領土を築き、広大な海洋帝国を打ち立てた始祖帝の四人の弟は、建国の功臣であり、それぞれに大公位を与えられた。シェルの十二代前の先祖にあたる。十二代前、先祖たちは、この地の先住民から『入江から来た者』と呼ばれ恐れられる蛮族だった。  今は気候が温暖で文化的に進んだ南方を手本に、蛮族の悪名を返上すべく数々の施策を講じているが、このような蛮習が復活するようでは、まだまだだ。シェルは凝り固まった肩をほぐしながらため息をつく。そのせいで、腰に吊るした剣の重さに体が傾くのを必死に立て直しながら、掠奪者が来るのを今か今かと待たねばならないし、もう何時間もそうしている。  皇帝が執り行う嫁取りの儀式、『后狩り』のせいだ。  戴冠式を半年後に控えた若き皇帝エーヴェルトが、数代ぶりに皇后を自らの手で得る后狩りを行うと宣言した時、異を唱える者はいなかった。廃れつつあるとはいえ古来から続いた伝統であり、新帝の勇壮さを知らしめるのに適した慶事だからである。  ただし、屋敷の門に目印の白羽の矢を立てられた家――皇帝の標的となった娘の一族には一大事だった。  古の掠奪婚に起源を持つ后狩りは、建前上、娘を奪われる家では不名誉なこととされる。そのため、形式的に一族の若者たちが娘の護衛番を務め、一応は抵抗する慣わしとなっている。  一族の面子を保つために、シェルは妹クリスティーナの護衛として父に呼び戻された。  亡き母の母国ミレニオに留学して一年、学業を半ばに切り上げるのは断腸の思いだったが、大切な妹の結婚ともなれば、勝手を通すわけにもいかない。しかも相手は皇帝陛下である。大公家の跡継ぎとして、立派に妹の盾となり、偉丈夫の陛下に薙ぎ倒されて、悔し涙に暮れる――振りをしながら大事な妹を奪われる役目を果たさなければならない。 (――茶番だ)  儀式とは、そうしたものである。  シェルは再びため息をついた。  白羽の矢を立ててくれたはいいが、そこには結び文もなく、后狩りの日時もわからない。早馬に継ぐ早馬で留学先に知らせが届き、距離が距離だけに苦手な馬車に放り込まれ、何度も馬を替え一週間かけて帝都に戻った時、あらゆる乗り物が苦手なシェルは殆ど虫の息だった。  それでも愛する妹の護衛番をしなければ、と青白い顔で屋敷に辿り着いたが、ほぼ同時に皇帝が軍港の視察に出たとの知らせがあった。おかげで、往復一週間はかかるその旅程の間、シェルは何とか体調を整えることができ、こうして今夜を迎えている。  初めての后狩り、初めての護衛番。緊張はしているが、こんな嵐の夜に陛下はいらっしゃらないだろう、とシェルは少し気が楽だった。合理的に物事を進め無駄を嫌うあの方が、わざわざ悪天候の中、闇を縫って后狩りを行う理由がない。  狩りの獲物は『建国の五柱』の一柱、ユングリング大公家唯一の公女――皇家を除いた帝国第一の家門の嫡女であり、どこに嫁ごうとも劣ることのない格を持つ。その上クリスティーナは、心優しく教養深く、実に可憐な美少女なのだ。 「お兄様、お疲れでしょう。こちらにお座りになって」 「ありがとう、クリス」  蝋燭の薄明かりの中、何よりも可愛い妹に手招きされ、シェルは素直に頷いた。今夜は何も起こらないだろうという楽観と、慣れない剣の重さから来る疲労が、護衛番の警戒心をほどいている。扉の外、廊下に陣取っている従兄弟たちも同様で、何名かは部屋に引き揚げたようだ。  数代ぶりの后狩り、しかもユングリングに連なる者がその標的となったことは過去になく、一族の者たちも護衛番の勝手がわからない。皇帝が視察から帝都に戻ったのは昨日、不在にしていた間の政務も溜まっているだろう。后狩りがいつ行われるかわからない以上、護衛番は数週間の長丁場を覚悟しなければならない。  つくづく、不合理で野蛮で迷惑な慣わしである。 (あの方が厭われるすべてを含有する蛮習なのに、何故后狩りなどをお考えになったのか……)  使いを立て婚姻を申し込めば、智勇に優れた若き皇帝の求婚を拒む家などないというのに。 (いや……クリスをよく知るからこそ、后狩りを思い立たれたのだろうか)  家柄はこの上なく教養も高く、穏やかな気質で、どこを取っても皇后に相応しい姫でありながら、クリスティーナには欠けているものがある。後宮の要となり、十人の妃たちを束ねる覚悟だ。全員が年上で皇子皇女を儲けている彼女たちの上に立つのが、クリスティーナには恐ろしく、憂鬱でしかないのだ。  この国の有力者は妾を持つのが当たり前で、父である大公も正室以外に何人もの妾を持っている。シェルとクリスティーナは同母兄妹で、母は正室だったが、寵を競う妾たちの諍いを身近に見て育った。父大公に溺愛され、掌中の珠と育てられたクリスティーナを直接害する者はいなかったが、それでもおっとりした妹が、皇帝の後宮に入ることを恐れるようになるほど、十分に陰湿だったのだ。 「今夜はもう遅いわ、お兄様もお寝みになって」 「そうだね、クリスも疲れたろう。僕はこの長椅子を借りるよ」 「まあ、それではお疲れが取れないわ」 「万一陛下がいらっしゃった時に僕がいなかったら、我が家の面目が立たないだろう?」  兄の体を気遣う妹にやさしく言い聞かせたが、クリスティーナは顔を強張らせて口を噤んでしまった。  門柱に白羽の矢を立てられてから、妹は入宮を嫌がり泣き暮らしていたという。シェルが帝都に戻ってからは、その看病と再会の喜びに涙を見せることはなくなり、側付きの者たちを安堵させていたが、皇后の位に登ることを納得したわけでも、覚悟を決めたわけでもないようだ。 「ねえ、クリス。後宮を厭う気持ちはとてもよくわかるけれど、陛下に見初められるのはとても名誉なことだ。あの方は、優秀な者しか側に置かない。ただ美しいとか家柄が高いとか、そういう理由でクリスを選ばれたのではないはずだよ」 「わたくしはそうは思いませんわ」  普段は聞き分けのよい妹がすかさず反論したことに驚き、シェルは目を瞬かせた。蝋燭の灯りを映しているせいか、妹の黒い瞳は怒りにきらめいているようにも見える。  その沈黙を突いて、クリスティーナは言い重ねた。 「だって即位なさる時、お兄様を侍従から外されたじゃありませんか」 「クリス……」  皇太子付きの侍従はみな、主人の即位とともに皇帝付きの侍従となった中、唯一シェルだけが職を解かれ、皇宮内に与えられていた私室も失った。一年前のことだ。  それは、新帝の信を失ったことを意味していた。  ――一族の役にも立たぬ愚か者が!  皇家との密接な関係を築くことに腐心する父大公に厳しく叱責され、帝都にもユングリングの領地にも居場所がなくなったシェルは、傷心を隠したまま、留学の名目で異国へと逃れた。何度考えても、侍従として仕えた五年間を省みても、それほど強い不興を買った理由に心当たりがなく、そのことで深い自責と自己嫌悪に囚われたからだ。  自らの過ちにいまだ気づけぬほど愚鈍だから、敬愛し、心を込めて仕えた主人に厭われたのだろう。  それでも、幼い頃から憧れ続けた学問と芸術の都ミレニオで、大学に入り本格的に学業に没頭する日々は充実して楽しく、学友もでき、一年前に受けた傷は少しずつ癒えていた。心配させないように、時折交わしていた妹への便りでは、常に明るい筆致を心掛けていたのだが。 「お兄様ほど博識で洗練された美しい殿方、この国にはいないもの。それなのに……陛下には人を見る目がないのよ」 「こら、クリス」  妹の軽口を、顔を顰める振りで不敬と咎める兄に、その返事も「はぁい」と軽い。 「でもそのおかげで、お兄様はお母様の国へ行けたのだから、よかったのかしら。……居心地がいいのでしょう?」  ここよりも――どこよりも。  目と目を合わせれば、言葉はなくても伝わってくる。伝わってしまう。妹の声なき声も、それに対する答えも。  妹の問いに、口に出しては答えなかった。クリスティーナもそれを求めてはいないだろう。  この国で、こうして自分を案じてくれる相手と過ごすことで、思い知らされる。そんなあたたかい存在は、妹ただ一人だけだということを。 (――やはり帰ろう)  護衛番をしていれば、いつか皇帝と鉢合わせることになる。その時にはなるべく不興を買わぬように、形ばかりの抵抗をして、妹をその手に渡そう。兄としての役目を終え、婚礼にまつわる一連の儀式が終わったら、速やかに国を出てミレニオへ向かおう。  もう戻れないことを想定し、教授には退学の意を伝えてきたが、復学を願い出れば許されるはずだ。そうして再び呼び戻される日まで、静謐な学究の日々を送ればいい。――そんな日は、おそらく永遠に来ることはないと知りながら。  寂寥と安堵が同時に去来し、儚く微笑む兄を気遣い、クリスティーナの手が頬に触れる。このぬくもりを覚えておこう、とシェルは手を重ねた。遠く隔っても、二度と会えなくても、クリスティーナがたった一人の、互いを思い合う妹であることは、死が二人を別つまで変わらない。  ――その時。  立て続けに、廊下で重い物が床にぶつかるような鈍い音がした。それに続いて、短い呻き声も。 「……アラン? 何かあったのか?」  今夜の不寝番を務めるはずの従弟の名を呼ぶが、返事はない。シェルは俄かに緊張し、固くなりながらも立ち上がると、クリスティーナを背に庇った。こんな悪天候で、まさか后狩りが行われているのだろうか。  部屋には当然、鍵をかけている。とはいえ、后狩りのために付け替えた、破られることを前提にした簡易錠だ。施錠されていることを確認するようにガチャリと扉の取っ手が鳴り、背後でクリスティーナが息を呑む気配がした。 「お兄様……!」 「もう何も言ってはいけない、わかっているね」  奪われた娘の親が、掠奪者を婿と認め和解するまで、娘は一切口をきいてはいけないのが后狩りのしきたりである。そして、武術に長けた従兄弟たちが簡単に道を譲ったなら、それは掠奪者が皇帝だということだ。  臓腑まで震えるような雷鳴が轟くのと、荒々しく扉が開け放たれたのは同時だった。雷光を背に、大きな影が室内に伸びる。あまりの轟音と衝撃的な登場に、クリスティーナは勿論、シェルも肝を潰されてしまい、座り込まずにいるのが精一杯だ。  竦み上がったまま呆然とする兄妹に、ゆっくりと影が近づいてくる。蝋燭の灯りが届いたその顔は、――皇帝のものだ。  この嵐の中、一週間に及ぶ行幸の直後に、后狩りが行われている。それだけ自身の選んだ獲物――クリスティーナを、皇后として熱望しているということだろう。 「久しいな、公女。――ここにいたか、我が后よ」  力強く張りのある美声が、雷鳴の隙間を縫って部屋に響いた。一年ぶりに耳にする、懐かしい声だ。  それとともに、絨毯に大粒の水滴が落ちる音がする。雨足は強く、ずぶ濡れになったのだろう。つい以前の習慣で、濡れた衣装を替えようと体が動こうとするのを、シェルはすんでのところでとどめた。  もう一年が経つのに、体はまだ侍従の頃の記憶から抜け出せていない。不要だと厭われたにもかかわらず、唯一と心に定めた主を前に、侍従の礼を取ろうとしてしまう。 (しっかりしろ、今はクリスのために盾の役目を果たすんだ)  この国へ呼び戻された理由を思い出し、シェルは腰の剣に手を掛けた。  それでも、解雇された元侍従が皇帝の顔を直視することは憚られる。シェルは睫毛を伏せながら、精一杯声を張った。 「畏れながら、ユングリングの姫を狩ると仰せなら、その盾を退けてからに……ぐうッ! はっ、ぁ……ぁ、……」  突然容赦のない拳が、鳩尾に鋭く打ち込まれた。まったくの無防備だったシェルは、急所にまともにくらい呆気なく気絶してしまう。  倒れかかる体が床に打ちつけられる前に、逞しい腕が細身を抱きとめた。そのまま掬うように抱き上げ、腕を枕に仰のいた額に、皇帝は許しを乞うように唇を押し当てる。  痩せたな、という呟きが聞こえた気がしたが、視界を塞ぐ黒々とした大男の影に、クリスティーナは震えるばかりだ。悲鳴を上げることもできず、長椅子の上で竦んだままのユングリングの姫には一瞥もくれず、皇帝は身を翻し部屋を出て行く。  手にした獲物の重み――狩りの上首尾に、心から満足そうにエーヴェルトは囁いた。 「ようやくお前を得る日が来た。――帰るぞ、我らが『家』に」
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