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ラシンの担当医
「峰ー。いるかー? 」
この日ラシンが訪れたのは、当初の目的地であった峰友医院という外科の病院だ。看板がなければ普通の民家と勘違いしてしまう外観をしている。
しかし今日は休館日。そんなタイミングで来たのにはある理由がある。それは、この医院で受ける施術が関係しているのだ。
ラシンは玄関の合鍵を預かっている。その鍵を使って中に入ると、いつもは怪我をした老人や転んだ子供で軽く賑やかだが、今は薄暗い。
ここの院長である峰友は、患者からの評判こそいいが、ラシンは本当の峰友を知っている。
「また地下か? 」
地下は、診察室の奥にあるハッチから入ることができる。しかしそこは、医院に関係のあるものは一つも置いていない。あくまでも峰友の《趣味》の部屋なのだ。
「ここか」
ハッチを見つけて開けるとはしごが伸びている。慎重に下っていくと、5mほどのモルタルの廊下が続いている。その先には鉄の大きな扉があり、厳重なロックが見て取れる。
しかし、そのドアは軽く開いていた。そこから聞こえる声は、間違いなくこの医院の院長。峰友の声だった。
「フハハハッ、素晴らしい骨格だ。やはり野生のものは一味違う」
ラシンが扉を開けると、そこには大きな手術台があり、それが光で照らされていた。手術台の上には、様々な解剖のための器具をつけられたシカの死体があった。
「おやラシンくん。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
峰友は、白衣を着てフレームの薄い眼鏡をかけていて軽く天然パーマ。それと、一番特徴的な光のない目で構成された顔をしている。
「お、おう......今日はシカか」
よく聞いてくれたと言わんばかりに峰友は喜び、器具を持ったまま歓喜の声をあげた。
「そうさそうさ! 今日は野生の、しかも最大レベルのシカだ......ほおら、見てごらん? 」
すると峰友は、ゴム手袋をした両手で切開されたシカの腹部をこじ開けた。ムアッと温かい空気が顔を撫で、独特の臭いが鼻を突き刺した。
「うおッ......」
峰友はラシンにもゴム手袋をつけさせ、手首を持ってシカの体内をまさぐらせた。
「分かるかい? これが肋骨さ。腰椎を辿ってもっと下に行けば、ほら、恥骨、仙骨、大腿骨だ」
骨を触るぐらいならいいのだが、内蔵をそのままにしておくので強烈な臭いと生暖かい感触が気持ち悪い。
「お、おう......ってか、早く片付けて俺の施術をしろよ! 」
「はあ、わかったよ......」
しょんぼりした峰友はシカの死体を台車に下ろし、別の部屋へ持っていった。その隙にラシンは手術台についた血を綺麗に拭き取り、アルコール消毒をしたのち、その手術台に横たわった。
峰友が戻ってくると、白衣類は新しく青色のものに変わった。同時にキコキコと押してきたのは、今回の施術のための特別な局所麻酔の器具や、硬いものを削り取るための電動カッターが乗った台車だった。
「それではこれより、第45回ツノ切除手術を開始します。主治医はわたくし、峰友が務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」
言い終わると、峰友は最小限の動きと痛みで局所麻酔を完了し、周囲の髪の毛には一切触れず、1mmのズレもなく正確にツノのカットをした。
ラシンには2本のツノがある。峰友にはカットしたツノを譲る代わりに、無償でツノのカットを提供してもらっているのだ。
ラシンが6才の頃に両親がこの契約を結んだが、この契約にはある《約束》が含まれている。
ラシンが鬼であることを誰にも話さないこと。
「......ツノの切除、完了しました」
峰友は器具の台車を別室に持っていき、戻って来る頃にはいつもの白衣を着ていた。
「今日はかなり伸びていたね。精神面で過激なことやストレスがあると伸びが早くなるのは分かっているから、何かあったのかな? 」
そのときラシンは、ミオウ関連のことを思い出していた。
「......別に、何もねぇよ」
「......いや、ラシンくんのプライベートを探るつもりはないんだ。気を悪くしないでくれたまえ」
「......」
ラシンは黙って起き上がり手術台から降りて、出口へ向かった。
「ラシンくん」
峰友は後ろから声をかけた。
「ん? 」
眼鏡の位置を正し、今一度ラシンを見た。
「亡くなったご両親からは、君を支えるようにと頼まれている。君は、人とは違うから......人とは違う悩みを抱えるかもしれないと、心配しているんだ」
だから、と峰友は続けた。
「辛いことがあったら、何でも言いなさい」
その声と口調は、いつもの峰友ではなく、院長の峰友先生でもなく、ただ知り合いの息子を気に掛ける、峰友という一人の男のものだった。
「峰......」
ラシンはその様子に心を打たれた。いつもはおかしな様子の峰友が、こうも真面目で愚直な側面を見せるなど。
「な、何か悩みがあるのだったら、今度私と一緒にクマの解剖でも......」
ラシンは扉を閉め、はしごに向かって行った。部屋からは峰友が叫んでいるような雰囲気を感じたが、防音なので聞こえなかった。
医院を出ると、しゃがんで野良犬をかまっているミオウがいた。ツノのカットで待たせていたのだ。
頭を撫でたり手を舐められたりして笑顔になるミオウは、ラシンには少し眩しく見えた。あまりに小さくて、可愛らしかった。
なので、少しイタズラをしたくなってしまったのだ。
「......わッ!! 」
そう声をかけると同時に両肩に手を置くと、ミオウはびっくりして体をビクッと震わせた。その動きに犬は驚き、走って逃げてしまった。
「ハハ、悪い悪い。びっくりしたか? 」
ミオウはゆっくり顔を向けてきた。すると、ミオウの目は大量の涙を溜め込み、今にも零れそうになっていた。
「あ、悪い......」
次の瞬間、ラシンよりも身長が低いミオウはラシンの胸辺りに頭を持ってきて、両腕でラシンを叩いた。
「もおおおラシンさんのバカバカバカぁ!! びっくりしたじゃないですかぁッ!! 」
「わ、悪かったって! ちょっと魔が差したんだ。ホントに悪かった。な? 」
叩くのはやめたが、ミオウは口を尖らせて軽く拗ねている。そして聞こえないぐらいの声でつぶやいた。
「ちょっとおもらししちゃったじゃないですか......」
「ん? 今なんて......」
「なんでもありません! 」
赤面しながらぷいっとそっぽを向いてしまった。
ちょっとやりすぎたか。
そう思って、心の中で少し反省した。
それにしても、今日から本格的に妖怪退治の仕事が始まるわけだが、いまいち実感がわかない。
(少し前まで普通に学生やってたのに、こんなことになっちまった......)
ミオウが妖怪の気配を探り、反応があったらそこへラシンが突撃する。今、そういうフォーメーションをとっている。ミオウの後ろをラシンが歩く形だ。
だから、ラシンがいなくなってもミオウは気づかないのだ。
「......うお! 」
ラシンは急に右腕を引っ張られ、薄暗い路地裏に引き込まれた。
「おっとっとっと......なんだ? 」
引っ張られた右腕を見ると、そこには長髪の女性がいた。ラシンの右腕を抱きしめるようにしている。
「と、突然すみません。私、悪い人たちに襲われてるんです。少しの間、守ってもらえませんか? お願いです! 」
その女性は、胸の膨らみを押し付けるようにして懇願してくる。まだまだ青い高校生であるラシンには刺激が強かった。
「え? ああ、まあいいけど......」
「ッ! ありがとうございます! じゃあ......お礼、しないとですね」
女性は、ただでさえ開いている胸元をもっとはだけさせ、ラシンを誘惑した。
「い、いやいや! そういうのは流石に......」
「いいんですよ......じゃあ、こっちに来てください」
女性に引っ張られてどんどん路地の奥に入っていく。進み具合と比例して、どんどん暗くなっていった。
その頃ミオウは、
「......あれ? ラシンさん? 」
後ろからしていた足音が消えて、ラシンがいなくなったことに今更気がついたのだ。
「ラシンさん? ラシンさん!? 」
心細くてしょうがない。町中で声を出して通行人にチラチラと見られている。キョロキョロしながら名前を呼ぶ姿は、まさに迷子の子供そのものだった。
「ら、ラシンさん......」
ミオウは静かに涙を溜めて、静かに泣いた。
「どこぉ? 」
そしてそのラシンは、
ついに路地の行き止まりまで到達し、壁を背にして女性に詰め寄られる形となっていた。
「ここなら人目もないので、私も思う存分、お礼ができます。準備をするので、ちょっと目を瞑っててもらえますか? 」
「お、おっす......」
大人しく目を瞑るラシン。しかし、ラシンも多感な時期である。心が体にブレーキをかけきれず、右目が少し開いてしまった。
そして、衝撃の現場を目にした。
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