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◇◆◇◆◇
あの別れから半年。
あれからすぐ、俺は仕事を辞めて引っ越した。
伊織の気配の残った部屋にいるのが辛過ぎて耐えられなかった。
でも、引っ越してみても仕事を変えてみても、身体は伊織を覚えている。
身体中に残る伊織の記憶。
それは時が経つにつれて切なく心を締め付ける。
テレビもニュースも見なくなった。
だからあのあと伊織がどうしたのか、どうなったのか、なにも知らない。
もう十分だから。
俺にはもう、これ以上はいらないから。
なにも望まないから。
「………」
嘘。
本当は伊織が欲しい。
伊織に会いたい。
心も身体も伊織が恋しくて、伊織の体温を求めてる。
近所のスーパーでのレジ勤務を終えて帰宅する。
今日も適当になんか食べて酒飲んで寝よう。
あれから酒量が一気に増えた。
酔ってなにも考えられないようにならないと涙が止まらないから。
忘れないといけないのに忘れられない。
なんで魔法使いは俺のところに伊織を送ったんだろう。
俺を苦しめるためだろうか。
魔法使いは悪魔だったんじゃないのか。
自宅のドアを開けるといいにおいがする。
寂しさで嗅覚もおかしくなったか。
「おかえり」
………。
「また『ただいま』言わなくなったのか。しょうがねえやつ」
「え?」
なにが起きてる?
エプロンつけた男が眉を顰めてる。
テーブルにはいつかのように温かい食事。
「…いおり?」
「うん」
「なんで…?」
夢?
幻?
「お前、酒飲み過ぎ。この空き缶の量、なんだよ」
「え…」
「それになに引っ越してんだよ。ようやく会えるってなって会いに行ったら知らない男が部屋から出てくるし。彼氏でもできたのかと思った」
「彼氏なんて…え?」
わけがわからない俺の頬を伊織が抓る。
「なんで待ってねえんだよ」
「え? 待つ?」
痛いから夢でも伊織の幻でもなさそう。
だったらなにが起こってるんだろう。
伊織が頬を抓る手を離して、俺の手を握る。
「けじめつけて、全部置いてきた」
「けじめ…?」
「新しい仕事はまだ見つけてないけど、なんでもやる」
「新しい仕事…って? それにどうやってここ知ったの? 鍵だって…」
ここに住んでる事は誰にも知らせてない。
それにどうやって部屋に入ったんだろう。
「興信所で調べてもらった。鍵はあいてたぞ、ほんとあぶなっかしいやつ」
すごく大きな溜め息吐かれた。
「…もしかしてもう俺の事なんて忘れてた?」
「そっ…な事、あるはずない…!」
ようやくじわじわわかってきて、視界が滲み始める。
伊織がそっと抱き締めてくれる。
変わってない、伊織の香り、伊織の温もり。
「ぅ…」
「待たせてごめん。いっぱい辛い思いさせただろ」
首を横に振って伊織にしがみ付く。
伊織があの夜のように何度もキスをくれて、それから微笑む。
「千紘、好きだ。これからずっとそばにいさせて欲しい」
「…っ」
返事をしたいのに言葉が出てこない。
ぶんぶん首を縦に振って頷くと、伊織は苦笑する。
「千紘の気持ちも聞かせろよ」
「っ…俺、っ」
「うん」
「ぅぅ…っ」
色んなものがこみ上げてきて全然喋れない。
どうしよう。
伊織は俺の言葉を待ってる。
「…っ!」
伊織の首に腕を回して、勢いに任せてキスをする。
「っ、う…っく…」
泣きじゃくる俺をあやすように伊織も優しいキスを何度も返してくれる。
「泣き止め」
「っぅ…」
「千紘に言って欲しい事あるんだから」
「…?」
なんだろう。
ぐずぐずするまま伊織の顔を見る。
伊織の綺麗な瞳に映る俺は情けないくらいぐずぐず。
「俺、千紘のとこに帰ってきたんだけど」
こくこくと頷く。
まだうまく喋れない。
涙も止まらない。
「帰って来た人にはなんて言うの?」
「…っ」
伊織がまた抱き締めてくれるので、俺も抱き締め返す。
「っ…おかえり、おかえり伊織…っ」
「うん、ただいま千紘」
おかえり伊織。
おかえり。
俺のところに帰ってきてくれてありがとう。
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