真冬に咲く紅の花

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 小雨を避けながら、広い庭園を突っ切り、私は最も奥まったところにあるガラスハウスにたどり着いた。真冬だからか、さして眺めるものも見当たらず庭園は閑散としており、ガラスハウスの中も私以外の人影は見えなかった。 「ふう……」  思わずため息がこぼれる。濡れた靴の中に水分が染みこんできて、私の足先はどんどん熱を奪われていった。寒さから気を逸らそうとガラスハウスを見渡すと、辺り一面、鮮やかな黄色と紅色の花が咲き誇っていた。  季節外れの花々につい見とれてしまう。美しい色合いを楽しんでいると、わずらわしい日常から逃れられるようだった。  私は仕事を休んで、気の向くまま旅行をしていた。たまたま観光案内所で、この季節でも綺麗な花を観賞できると聞き、紅花資料館に足を延ばしてみることにしたのだ。  しばし自身を取り囲む花の中に佇み、呆然と仕事のことを思い返す。大学を出て社会人三年目となった私は、それなりに重要な業務を任されるようになっていた。──その仕事には、先輩女性社員の監視も含まれていた。  隙あらば仕事を抜け出そうとする彼女を引きとめ、ミスの修正をし、派遣社員をいじめる姿を見咎めて窘める。彼女が犯したミスをうっかり見逃すと、理不尽にも怒られるのは私だ。彼女が仕事に不真面目なのは誰の目にも明らかなので、いつの間にか私がお目付け役を押しつけられていた。曲がりなりにも正社員である彼女を解雇することは、会社側も難しいようであった。  そんな自身の境遇に嫌気が差し、僅かばかりの休暇を得て、気晴らしに遠出をしてみた。現実逃避であることは理解しているが、それでも休息を得たいというのが本音であった。  どのくらいぼんやりとしていたであろうか、ふと足音に気づく。ハウスの中に私以外の人物が入ってきた。そちらに視線を向けると、背の高い青年が作業道具を持って、ハウスの入り口に立っているのが見えた。 「こんにちは」  青年に声をかけられ、一瞬返答に迷う。しかし挨拶を返さないのも礼儀に反すると考え直し、私はお辞儀をした。 「……こんにちは。綺麗な花ですね」 「そうでしょう。今はハウスの中だけですけれど、季節には敷地のあちこちに紅花畑が広がるんですよ」  今日は母の手伝いで手入れにきました、と屈託なく笑う青年の端整な顔を見ていると、張りつめていた気持ちが少し軽くなるのを感じた。 「お嬢さん、寒くありませんか? 濡れていますよ」  疑問を投げかけられ、私はうっすら微笑む。「お嬢さん」という歳でもないけれど、呼ばれて嬉しいのは確かだ。青年は近寄ってきて、コートについた水滴を払ってくれる。 「ありがとうございます」 「いいえ、お客さんが風邪を引くのは俺としても本意でありませんから。よかったら、あっちの建物に行って、お茶をご馳走させてください」  青年に導かれてガラスハウスをあとにし、紅染工房という建物に入った。何人かのご婦人が、和気藹々と作業をしていた。 「あら、爽太(そうた)どうしたの?」 「ああ、母さん。このお嬢さんがね、寒そうな身なりをしていたから連れてきたんだ」  爽太と呼ばれた青年は、工房の奥に行き、すぐに戻ってきた。 「はい、お嬢さん。紅花茶です。温まりますよ」  色は緑茶と変わらないそれを差し出されて、思わず受け取ってしまった。それから違和感を覚えていたことを口にする。 「あの、私はお嬢さんという歳でもありませんから。美晴(みはる)といいます」 「美晴さんですか、いい名前ですね。改めまして、俺は爽太っていいます」  どちらからともなく笑い合い、私は勧められた紅花茶を飲んでみた。見た目と違い、ハーブティーのような味がする。  温かいお茶を飲んでいると、爽太さんは様々なものを並べて説明してくれた。 「これが紅花若菜干し、紅餅、紅花の種などです」  紅餅は染料になるらしい。種もより分けて、いいものを選別するそうだ。随分手間暇がかかる品々だと感じ入った。紅染めと藍染めのグラデーションになっている布地も見せてもらい、長年にわたって培われた技術にも魅了された。  そのあと、爽太さんの先導で武者蔵や紅の館など見学し、紅花で染めた振袖や雛人形に感嘆の声を上げてしまった。 「そこまで喜んでいただけると、美晴さんを案内した甲斐がありました」  敷地内を流れる小川のせせらぎに耳を傾けながら、爽太さんの表情を窺う。はにかんだ顔は優しげで、私の心を受け容れてくれる──そんな風に思ってしまうと、いつしかくすぶっていた感情を吐き出してしまっていた。  厄介な先輩社員の存在、仕事での理不尽な扱い、そんなことが口をついて出て止まらない。爽太さんに剥き出しの醜い思いをぶちまけてしまって、それからはっと我に返り口をつぐんだ。  ──何を私は初対面の彼に言ってしまったのだろうか。  後悔の念に駆られて、恐る恐る爽太さんを見上げると、彼はひどく真剣な顔をしていた。黙ってしまった私に手を差し伸べてくる。 「この先に売店があります。休憩しましょう」  道なりに進むと、彼の言う通り喫茶つきの売店が見えた。入り口にメニューが掲げられている。 「何飲みますか?」 「じゃあ、カフェオレを……爽太さんは?」 「俺は珈琲にします」  爽太さんに甘えてばかりはいられないと、私は二人分の飲み物を注文した。彼は特に何も言わなかった。私なりの罪滅ぼしに付き合ってくれたのだろう。  椅子に座って、周囲を眺める。喫茶スペースと売店スペースに分かれているようだった。  爽太さんは向かいの席で複雑な表情をしながら私を見つめている。珈琲を一口すすり、少しずつ言い聞かせるように話し始めた。 「俺だって社会人の端くれですから、美晴さんがつらい思いをしていることはわかるつもりです。どんな仕事だって、大変なことはいくらでもあります。でも、そこにやり甲斐はありますか? 無理はしてほしくないですけど、美晴さんが胸を張れる仕事であってほしいと思います」  そのためには、と彼は続ける。 「ストレスはなるべく発散してください。今日見せてくれた貴女の笑顔は素敵でした。つらい思いを話すことで、幾分かでも美晴さんの気が晴れたなら、俺はとても嬉しいです」  包み込むような温かさを感じて、私の頑なな気持ちが溶けていった。爽太さんは立ち上がり、売店に向かっていく。やがて戻ってきた彼は、紅色のシュシュを手にしていた。 「美晴さんは髪が長いから、仕事中に使えるかもしれませんね。おみやげにもらってください」  彼の気遣いに息が詰まりそうになる。震える手で、シュシュを受け取った。 「あ、の……。ありがとう、ございます。なんとお礼を言っていいのか……」 「気にしないで大丈夫ですよ」  爽太さんは紅花にも負けない綺麗な顔を上げて、売店のモニターを見上げた。 「あれを見てください」  つられて私もモニターを見上げると、雪のおまつりのような光景が目に入った。眩いイルミネーションに彩られた雪像や雪原は幻想的で、画面越しにも素晴らしさが伝わってくる。 「近くで行われる雪フェスティバルです。美晴さんがまた休暇を取れたら、一緒に見に行きませんか?」  都会育ちの私は、雪のおまつりを見たことがない。美しい雪景色を楽しんでみたい。それに、何より爽太さんが誘ってくれた。断る理由など、見当たらないではないか。 「はい……はい。ぜひご一緒したいです。必ずまたここに来ますから、待っていてください」  爽太さんはにっこり笑って、また珈琲を飲んだ。私もカフェオレを口に含む。じんわりとした温かさが身体に広がった。  飲み終わって席を立つと、爽太さんは出口まで送ってくれた。私は深く頭を下げて、彼にお礼の意を示す。 「そんなに畏まらないでいいですよ。大したことはしていません」 「いいえ、爽太さんは私の恩人です」  そのとき、雨の粒が別のものに変わった。はらりと舞う粉雪。音もなく降り積もる純白の雪は身体を凍えさせるが、心の中までは届かない。私の芯の部分は紅色に染まっている。  袋からシュシュを取り出し、髪の毛を手櫛で梳いてまとめた。紅花で染め上げたシュシュは、私の大切な宝物になるだろう。
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