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「申し訳ございません」
「申し訳ございませんじゃねえんだよ、客が今、一番必要としているものを出せなくて、何が経営だよ。これだから、スーパー店員なんて底辺職についてるやつは」
男は舌打ちをした。続いて地団駄を踏む。その拍子に、男のもつカゴの中にあるショートケーキが倒れた。
静香はぎゅっと唇を噛みしめる。両手を強く握る。てのひらに爪が食い込まんとばかりに。
どうしてだ。
どうして、命をかけて働く人間が虐げられる?
こんな非常時に、呑気にケーキを買っている人間が偉そうにしている?
周りの人間に奇異の目を向けられながら、罵倒をされないといけない?
静香の視界が、今までで最も大きくぐらついた。倒れるわけにはいかないと、静香はまぶたに力をこめる。
(……あ)
薄汚れたスニーカーが目に映る。それは、しっかりと地に着いている。不安なことなど何もない。横に縦にも揺れていない。
その事実を認識した瞬間、静香の中のニューロンが、めぐるましく演算を始めた。
——ああ。このぐらつきは、余震の幻覚などではない。
大地が揺れているのではない。
私の中の暴力神が、武者震いをしているのだ。
アレスが豪快に笑う。
たまらない! 血しぶきを吹かせたくて!
この口うるさい男が、はらわたから鮮血をぶちまけたら、どんなに爽快だろう! この10日間の鬱憤が晴れるだろう!
「おい、なにボーッとしてんだよ。さっさと持ってこいよ。できねえなら、店長出せや! 無能ブス女が!」
この男は御客様という名の神様である。だから、人間である自分は反抗できなかった。
しかし、静香は気がついた。自分の中に宿るアレスに。自分の出番は今か今かと、血しぶきに飢えて震えている神に。
——私だって、同じ神だ。
それならば。
静香は悠然とした——優雅ともいえる所作で顔を上げる。自分にできる最上のほほ笑みを、男にふりかける。
「かしこまりました」
静香は、自身の震える右拳を、御客様の右頬にぶつけた。
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