揺れ震えるアレス

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揺れ震えるアレス

 音無(おとなし)静香(しずか)にとってお盆とは、大晦日に次ぐ忌まわしき行事である。  職場であるスーパーマーケットが、野蛮人どもに荒らされるからだ。  我が子の帰省に高揚するジジババが「寿司はまだか」と店員に怒り散らす。チューブのわさびの陳列場所すら分からない役立たずの父親は、妻の背後霊に徹し、店内の人口密度を無駄に増やす。嫁いびりのストレスを抱える女は、レジで待たされたことを店員に叱責する。ガキどもは未会計商品をぐちゃぐちゃにした上に、店内を疾走している。  スーパーにとってお盆とは、年間売上高ランキング第2位の日なのである。この日に向けて、各部門のリーダーたるチーフは激務をこなしてきた。  静香も例外ではない。常温商品を扱うグロサリー部門のチーフとして、現在7連勤目である。 (今年は飲料の売れ行きが異常ね……。さすが10年に一度の猛暑だわ)  ペットボトルの炭酸飲料を補充しながら、静香は心の中で汗を拭う。勤続8年の中で、最も飲料が飛んでいく夏である。 「ねえ、粉のお酢ってどこにあるの?」  突然、背中から老婆の声が浴びせられた。補充の手を止めた静香は機敏に振り返る。その拍子に老婆の持つカゴの中身が見えた。サーモン、いくら、きゅうり、錦糸玉子……孫のために手巻き寿司でも作るのだろう。  最後に実家でお盆を過ごしたのはいつだったかと考えながら、静香は「ご案内いたします」と定型句を述べる。  少なくとも社会人になってからは、盆正月に帰省したことはないと結論が導かれたところで、老婆を案内した。  *  ——商品を保管するバックヤードには、エアコンはおろか、扇風機すら存在しない。  飲料の入った段ボールが場所の取り合いをしている台車の前で、静香は水筒に口をつけた。恵みの水が、喉を通って、胃袋に到達したのをハッキリと感じる。 「いやー、参っちゃうよね」  静香の斜め後ろから、くたびれた声を発した男は、爽やかな短髪を携えた内山(うちやま)である。  手を団扇がわりにして、猛暑にささやかな抵抗をする内山に、静香は微苦笑をふりかける。 「鮮魚チーフは大変ですよね。刺身もお客さんもさばききれないでしょ」 「ハハハ、音無さん、座布団一枚!」  パン、と痛快な音で手を叩く内山は、ニカっと歯を出して笑う。激務の波の中でも明るい表情を手放さない内山を、静香は畏敬をこめて見つめる。
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