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売り場に戻った静香の耳を攻撃したのは、男の怒声だった。
「おい、いつになったら寿司は出るんだよ。店長呼んでこい!」
寿司売り場の前で、白い生鮮服に身を包んだ女性社員が、背中を丸めている。
静香は顔をしかめた。そんなに怒るくらいなら、予約をすればよかったじゃないか。早朝4時から、休む間もなく業務にあたる人間への態度がこれなのか——
特盛パックの肉が大陳された冷ケースに背を向けて、静香は焼肉のタレが並ぶ棚を整理する。片膝をつく格好になっている。床から膝に伝わる冷気だけが、静香を癒してくれる。
商品を奥から取り出すくせに、戻す時は手前に置く客が後をたたない。そのせいで、賞味期限順に並べる努力が水の泡となっている。
「ねえ、お砂糖ってどこ?」
いつの間にか隣に立っていた高齢の女性に、静香は心でしかめ面を作る。
砂糖なんて、天井にかかっている案内板に載っている商品だ。赤の他人にものを頼むのに敬語も使えないのか?
「ご案内いたします」
立ち上がった静香の視界が揺れる。連勤の疲れが祟っているのだろうか。
砂糖売り場にたどり着いた女性は、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。今日、息子が帰ってくるからね。何か作ってあげようと思って」
女性が押しているカートは商品でいっぱいになっている。このカートは、母親が息子を思う気持ちを可視化したものなのだ。
「息子さん、きっと喜ばれますよ」
静香は、本心に促されるままに口角を上げた。
客商売の職について、人間にうんざりした回数は数え切れない。
それでも、だからこそ、人間の善意に触れた時、静香の心は、くすぐったい温かさで満たされるのだ。
*
静香が昼休憩に入ったのは、午後5時のことだった。この時間に昼食をとる人間はさすがにいない。休憩室は静香の貸切となっていた。
カップラーメンにポットのお湯を注ぎ、パイプ椅子に座った静香は、ふうっと息を吐く。
客足がようやく引いてきた。これから来るのは、値引きされた商品を狙いにくる客だけであろう。
あともうひと踏ん張りで、1週間ぶりの休みが手に入る。
(久しぶりに、小説を書く時間が取れそうね)
趣味で書いている小説の構想を練りながら、静香はカップラーメンの完成を待つ。
その静香の耳を、アラームがつんざいた。
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