海と笑顔

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「おはようございます……」 「おはよう、大知くん」  珍しく返ってくる言葉があった。 「あれ。佐竹さん、来てたんですか」 「うん。この四月でミツマさんの総支配人が代わるでしょ。今日が就任でご挨拶に行くから」 「ああ……今日でしたっけ。俺も行ったほうがいいですか?」 「え? 行かないの?」 「……」  上司で社長の佐竹さんは当然のように言う。  俺が働くのは小さい人材派遣会社。派遣するのはバンケットスタッフ……ホテルのパーティーなどの宴会で飲食サービスを提供するスタッフ。スケジュール組みや事前確認などの事務作業、経理関連はすべて俺が一人でやっている。  そして普段は事務所に顔を出さない女社長の佐竹さんが、外回り営業とスタッフ教育をしている。スタッフは仕事が丁寧だと評判はいいけれど、なにぶんうちは会社が小さいから、やっぱり大手の人材派遣会社に負けてしまう。  それでも気に入って使ってくれているホテルはいくつかあって、そのおかげで俺は給料が出て生活ができている。  契約しているホテルの中でも、C県の海沿いにあるミツマホテルという、今日総支配人のかわるホテルは、スタッフ一人当たりの支払いを高く出してくれているので、現場に入った人にも他のホテルで入った場合より高い給料が出せることで人気のホテル。  そのかわり厳しいし、ホテル側のこだわりも強い。ミツマさんに初めて入る人を派遣する場合も色々大変だったりするので派遣するのはいつもミツマさんで入っているスタッフだけど、スケジュールに対して「入りたい」と希望するスタッフが多いときは調整に頭を悩ませることが多々ある。 「いつも事務連絡でミツマさんと話したりメールしたりしてるのは大知くんなんだから、私より大知くんの名前のほうが向こうでは通じるんじゃない?」 「……やめてください」  ロッカーに置いてあるスーツを出す。  俺がここで働き始めたきっかけは、日雇い派遣で食いつないでいた頃に友人の友人として知り合った佐竹さんに拾われたこと。だから佐竹さんには感謝している。  でも、気まぐれで突然海外に行ってしまったりすることもある自由人だから、なかなか大変でもある。他にもう一つ会社を経営しているので、事務所にずっといることもできないし。 「先に車で待ってるね」 「はい」  前の総支配人は優しくていい方だった。フェアや打ち合わせなどでホテルに行く機会があってお会いするとお菓子をくれた。贈答用のものじゃなくて、「社長には内緒ね」って駄菓子や飴をこそっと手のひらにのせてくれるのがほっこりした。新しい総支配人はどんな方だろう。  鏡の前でネクタイを整えて事務所を出た。……早く戻ってこないと仕事が詰まっている。  一昨日の夜から昨日の朝まで、開成は俺を抱き続けて離さなかった。ぐったりと、歩くのも大変な状態の俺と一緒にチェックアウトして、帰る方向が同じだったので同じ新幹線に乗った。車内では開成の肩にもたれて少しうとうとしたりした。  東京駅で別れて、帰宅してから連絡先どころか名字も知らないことに気がついて溜め息。旅先で羽目を外したってことで忘れるしかないんだろうな、と思うと身体が疼く。低く甘い声で名前を囁かれたのが耳から離れない。開成の体温も身体の重みも、なにもかもが鮮明で、恥ずかしいくらい開成を求めてしまう。こんなに自分が快楽に弱いなんて知らなかった。 「ソロ旅、どうだった?」 「えっ!?」 「また行ったんでしょ?」 「……はい」 「なんか微妙な顔してるね。聞くのやめた」 「そうしてください……」  聞かれても困る……だって答えられない。  思い出すだけでまた身体が反応してしまうから、頭の中を切り替えて窓の外を見る。流れる景色の向こうに開成の姿を追いかけてしまう自分に呆れる。もう二度と会えない男を引き摺ってどうするんだ。  ミツマホテルに着いて車から降りる。当然だけど、色々なところが挨拶に来てるだろう。新しい総支配人の判断次第ではうちみたいな小さい会社、簡単に切られる可能性があるから気をつけないと。 「気合い入れすぎ」 「だって仕事がなくなったら困りますから」 「力みすぎもよくないよ」  佐竹さんとこそこそ話す。華やかなエントランスに出迎えられて足を進め、そして……。 「……」  いや……なんか、色んな人と話してるイケメンに見覚えがある。ていうか、もしかしなくてもまずい状況じゃないのか、俺。  人が途切れるのを待って佐竹さんと「総支配人」のもとへ近づく。その人は俺を見て固まったけれどすぐに笑顔に戻り、佐竹さんと名刺を交換して俺をじっと見る。 「そちらは?」 「事務の大知です。ミツマさんとの連絡はすべて大知が行っています」 「……大知と申します」 「三津真(みつま)です。よろしく」  名字は今知ったけど、ファーストネームはとっくに知ってるよ。  差し出された名刺に書かれている、「総支配人 三津真開成」という名前にただただ呆然とした。
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