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◇◆◇
過去のデータを調べていたら遅くなってしまった。
駅のホームで立っていると、隣に人が立った。
土曜日のことを思い出して、羽海かなと思って隣を見ると違った。
ちょっと残念に思って、そう思った自分に疑問を持つ。
「…スーパー寄って帰るか」
気持ちを切り替える。
なんでか羽海の笑顔が浮かぶ。
スーパーで買い物をして帰宅。
そういえば、と思って脱衣室に。
ラックに置いてある柔軟剤を確認して、羽海にメーカーと商品名を送る。
八時半。
まだ帰っていないだろうか。
返信は十五分ほど経った頃にあった。
『ありがとう! 買う』
買うのか。
今のムスクのほうが羽海に合ってる気がするけどな。
と思っていたらスマホが短く鳴った。
『スーパーで見つけたんだけど、その商品名で香りの種類がたくさんある。どれ?』
香りの種類…忘れてた。
柔軟剤のボトルを見ると、グリーンフローラルになっているのでそう送ると、すぐに『ありがとう』と返事がきた。
十分ほど経った頃に、うちにあるのと同じ柔軟剤のボトルの画像が送られてきた。
『もうすぐ帰宅。帰ったらすぐ洗濯する』
張り切ってるな…。
羽海の笑顔が浮かんで、俺まで頬が緩んできた。
同じ柔軟剤、ただそれだけ。
でも心がふわふわする。
心地好さに目を閉じる。
わくわくするようなそわすわするような、変な感じ。
スマホが鳴った。
着信…誰かと思ったら羽海。
「はい」
『誉? 柔軟剤の量、どのくらい入れてる?』
「は?」
『だから柔軟剤の量』
なんだそれは。
「目安量を入れてるけど…好みで使えばいいだろ」
『誉と一緒がいいんだよ』
よくわからないけれど…とりあえず洗濯する時の水量と、いつも入れる量を伝える。
『ありがと』
ご機嫌な羽海。
通話を終えて、俺も洗濯をする。
そこで気が付く。
同じにしたいなら、洗濯洗剤の種類も重要なのでは…?
連絡したほうがいいのかなと思っていたらスマホがまた鳴った。
羽海から。
『誉! 洗剤なに使ってる!?』
やっぱり…。
洗剤名を教えると、今から買いに行くと言う。
時間を確認すると、もうスーパーはやっていない。
『ええ…せっかく誉とお揃いにできると思ったのに…』
すごく悲しそうな声。
どうしよう。
「よかったらうちの洗剤持っていこうか」
『いいの? 誉が使うのは?』
「予備がある」
『ありがとう!』
羽海はもとが甘い声だから、大きめの声でも耳が痛くならない。
むしろ可愛さが増して、これもひとつの魅力なんだろうなと思う。
早速、予備で買ってあった新品の洗剤を紙袋に入れて部屋を出る。
斜め向かいのアパートの前に羽海が立っていた。
Tシャツにハーフパンツという部屋着スタイル。
「誉、ありがとう」
「いや」
「よかったらうち来ない? お礼になにかしたい」
「嬉しいけど、悪いから」
「悪くない悪くない! 来て来て」
手を引っ張られて羽海の後についていく。
強引なところもあるのか。
二〇四号室が羽海の部屋。
間取りは2Kで、室内はきちんとしていた。
「ビールとチューハイと麦茶とコーヒー、どれがいい? あ、眠れなくなっちゃうからコーヒーはだめか。じゃあビールかな」
「いや、麦茶でいいよ」
「いいじゃん。一緒に飲もうよ」
「だったら聞くなよ…」
「あ、そうだね」
はは、と笑って羽海が缶ビールを二本、冷蔵庫から出す。
「珍しく発泡酒じゃなくてビール買った日に誉と飲めるなんて最高」
「いつもは発泡酒?」
「そう。でもなんだか今日はビールの気分だった。誉と飲めるからだったんだ」
可愛いな。
ビールを飲む前に羽海は洗濯機のスイッチを入れる。
ペーパーナプキンで飲み口を拭き、プルタブを上げた缶を俺に差し出す。
俺相手に気を遣い過ぎじゃないか。
「今日もお疲れさまー」
「お疲れさま」
こつん、と缶を軽くぶつけて一口飲む。
そこで大切なことが頭に浮かぶ。
「羽海は二十歳過ぎてるんだよな…?」
大学生としか聞いてない。
「うん。大学三年生、二十一です」
「誕生日来てるのか」
「四月生まれだよ。誉は?」
「俺は二十七、誕生日は七月」
答えてビールをまた一口飲むと、羽海がぱあっと笑顔になった。
「来月じゃん! 何日? 俺、お祝いしていい?」
どんどん迫ってくるので、ちょっと後ずさる。
後ずさった分だけ羽海は近付いてくる。
「ねえ、何日?」
「…八日」
「わかった! スケジュール入れとく」
すぐスマホを出す羽海。
スケジュールを登録して満足そうだ…変な奴。
「土曜日だね」
「…土曜日なのか」
「知らなかったの?」
「あまり興味がない」
俺の答えに羽海が今度は不満そうだ。
「誉が生まれた大切な日なんだよ? もっと重要事項として考えないと」
「重要事項…」
「なにが食べたい?」
続いてスマホのメモアプリを開く羽海。
そんなことを聞かれても困る。
俺は家族以外に誕生日を祝われたことがない。
だから食べたいものって言われても…わからない。
「特にこれと言って食べたいものはない」
「じゃあ誕生日っぽいもの作る!」
「誕生日っぽいもの…」
ってなんだ。
「羽海はどうしてそんなに楽しそうなんだ?」
不思議に思って聞くと、羽海が微笑む。
「誉の誕生日って思ったらすごくわくわくする」
「それは重要事項だから?」
「重要事項…とはちょっと違う。詳細は秘密!」
「……」
秘密、か。
謎な奴だ。
「お祝いしたいのは、だめ?」
「………」
その表情は罪だ。
男同士でもくらっとした。
「……いいけど」
「嫌なら悲しいけど諦めるからはっきり言って?」
「……」
嫌か…?
…嫌じゃない。
むしろ嬉しい。
誰かに祝ってもらえることが、じゃなくて羽海に祝ってもらえることが、嬉しい。
「……羽海に、祝って欲しい」
言葉にしたら顔がすごく熱くなった。
恥ずかしい。
羽海の頬に朱が交じる。
「…誉って罪深い」
「は?」
「かっこいいのに可愛いなんて…ずるい」
それは羽海のほうだろう。
俺はかっこいいなんて言われたこともないし、可愛いなんて似合わない。
どこか拗ねたような顔の羽海が可愛い。
羽海の頬を軽くつねると、羽海は更に真っ赤になった。
「なにするの!?」
「いや、なんとなく」
「変な顔になるから離して!」
「どんな顔でもかっこいいよ」
「っ…!!」
思ったままを言うと、羽海が突撃してきた。
抱き締められて、すん、とにおいを嗅がれる。
「…羽海?」
「誉ってほんと、罪深い…」
「??」
「誉のにおい、すごく好き」
もう一回においを嗅がれて、それから解放される。
洗濯終了音が聞こえてきたからだ。
「誉、俺にどきどきしてね」
「!?」
「俺“だけ”に、だった」
立ち上がる羽海。
動けない俺。
「俺、そろそろ帰るよ」
どうしたらいいかわからないから逃げる。
「え? 帰っちゃうの? 俺の抱き枕」
「は?」
「誉を抱き枕にしたいって言ったじゃん」
悪戯っ子のような笑顔を見せる羽海にどきりとする。
言葉を失うと、また羽海が近付いてきて俺を抱き締めた。
「一晩中抱き締められてたら誉もよく眠れるかもよ?」
「それは…」
「俺もよく眠れそう…」
小さくあくびをする羽海。
疲れてるんじゃないのか。
「…帰るよ。抱き枕は嫌だし」
「嫌なの?」
「う、ん…なんかそういうの、わからないから」
って、自分が言ってる言葉の意味のほうがわからない。
「いや、羽海がどうこうじゃなくて…」
「…もしかして、誉って一緒に寝る人がいる?」
不安そうな目。
なぜか胸が苦しくなる。
「いや…いない、けど…」
「よかった…。じゃあ立候補します」
「は?」
「俺、誉を抱き枕にしていい存在になりたい!」
なんだそれ。
ぽかんとする俺をまたぎゅっと抱き締めて、羽海はもう一度あくびをする。
「なんならこのままここにいて…」
低く甘い声にぞくっとする。
その、じっとしていられない感覚に思わずぎゅっと目を閉じた。
「あっ!」
「え?」
どうにもならなくて大きい声を出してしまうと、羽海がびっくりした様子で俺の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「あ、明日も…早いから…」
「うん」
「だから…あの」
あの、なんだ。
言葉が続かない。
「…今日は…だめだ」
なんとかそれだけ言うと、羽海から離れる。
羽海は嬉しそうにしている。
なんでだ。
「今日“は”なんだ? じゃあ期待する」
「あ…」
「誉が自分で言ったんだからね。取り消しなんてできないから」
玄関まで見送ってくれるので、礼を言って部屋を出る。
火照った頬に涼しい風が気持ちいい。
なんで顔がこんなに熱いんだ。
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