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プロローグ
夏空が曇っていた。曇天だとひとの心が曇る。夕方からは雲が晴れて、今夜は満天の星空だと出がけのテレビで聞いた。けれど今、窓の外はよどんだ空気でとても暑いのだろうし、室内にしても空調は控えめすぎるほど控えめだ。額の汗をシャツで拭ってしまいたいのを抑えて、山田さんのおばあちゃんの言葉を待った。
「あんたにゃわかんないよ……」
山田さんは呟いた。どうやらそれが、考え抜いた末の結論らしい。僕の顔を斜めに眺めやりながら、山田さんは続けた。
「あんた……まだ若いし、健康だろ? そんときゃ私だってわからんかった。父んときも母んときもそうだった。おんなじ目に遭って、初めてひとは思い知るんだよ」
僕は山田さんの目線に目線をあわせると、微笑んでみせた。
「そうかも、しれませんね」
こういうときになにか言っても無駄というものだ。ベートーベンのピアノソナタ、「悲愴」を思い浮かべると、まもなく澄んだピアノの調べが頭の中で鳴り始めた。薫、薫、薫……。心の内で旧友の名を呼び続けた。
「山田さん、このノート置いていきます。気が向いたら読んでみてください。少しは気晴らしになるかも」
手持ちのファイルのなかから、古びたA4のノートを取り出してベッドの上に置いた。
「なんだい? これ」
「もう20年も昔、僕が出会ったある少年の記録です。彼はあきれてしまうくらい陽気な男だった。だから少しは……」
「少しは?」
「笑えるかも」
とても笑える心境でないことぐらいわかっていた。でも僕は本当は、山田さんにこのノートを読んで笑って欲しいと願っていたわけではなかった。笑いを求めるなら、『コボちゃん』でも読んだほうが一千倍ましというものだ。言葉を尽くしても伝わらないものが、この世にはあるのだ。だから物語とやらが存在するのだと信じていた。
「じゃ、僕もう行きます。なにかあったら、国立さんを呼んでください」
もの言わぬ山田さんを部屋に置き去りにして、そっと扉を閉めると、ダン、ダダン、というバスケットボールの音が聞こえてきた。セピア色の記憶が、色鮮やかに胸に蘇る。20年。もう20年か。薫。お前はいま、どこでなにをしている……。僕はお前のおかげで、今日も元気に暮らしているよ。
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