雪の日の午後

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「あら嫌だ。こんな所で吸わないで…」 「えっ?」 …弥生の、名残雪ちらつく京都の高級マンションの一室。 下着一枚で、ベランダの上り小口で煙草を蒸していた藤次に、黒のフリルが艶やかなベビードール姿の弥栄子(やえこ)が咎める。 「なんで?いつもベランダはええて言うてたやん。」 「吸うならちゃんと外出て。部屋に臭いつくじゃない。ウチの人、家じゃ吸わないんだから…」 「そやし、見知らぬ男がベランダから覗いとったら、ご近所はんに怪しまれるで?」 「それこそ心配ご無用よ。弟だって言えば良いわ。ウチ5人兄弟だもの。あの人は勿論、誰も一々顔なんて覚えちゃいないわ。だからほら、消して。」 言って、弥栄子は藤次から煙草を取り上げ、ベランダのアスファルトの床に押し付ける。 その様を見つめながら、藤次は妖しく…弥栄子の耳元で囁く。 「へぇ、ワシいつの間に、弥栄子姐さん弟になったんにゃろ…」 その言葉に、弥栄子は真っ赤なルージュの引かれた口角を上げ、藤次に囁き返す。 「あら、姐さんて呼んでる時点で、あなたも可愛い…私の弟よ?藤次クン…」 「ほんなら、もう一回しよ?弥栄子…」 「まだするの?あなた本当に、好きね…」 …そうして女と身体を重ねるのが、心に空いた風穴を埋める唯一の手段やと、18で悟り、20歳になった夏。 助教に弁当届けに来たこの女…弥栄子に見染められ、誘われるままここへ来て、助教の目を盗んで行為に及ぶ、いわゆる不倫にハマって約半年。 色々制約はあったけど、それが逆に刺激的で、初めて覚えた煙草の味と同じくらい快感で、年上女の巧みな手管も相まって、ただひたすら、酔いしれた… 「…流石に、シャツ一枚で外は冷えるか…」 ポツリと呟き、藤次はベランダに凭れて紫煙を燻らす。 「3本目やし…そろそろ時間やな。帰らな…」 言って、ベランダの手摺りをサッと擦ると、降り積もっていた雪が盛り上がり、小さな雪玉ができたので、何気なく、それに頭を作ってやり、吸いかけの煙草と、弥栄子が捨て置いた先程の吸い殻を両端に差す。 「ははっ…我ながら、ガキみたいな事しよったわ。」 言って、目の前の歪な形の雪だるまをぼんやり眺めていると、小樽の…母方の曾祖母の小さな手を思い出す。 雪深い小樽で、雪だるまを作ってはしゃぐ自分を、可愛い可愛いと言って、愛してくれた…唯一の、今はもうない、慈しみの温もりをくれた手が不意に恋しくなり、しかし、求めた所で叶わぬ無駄な事だと思うと心が乱れて、その火を掻き消すかのように、藤次はパシャリと、目の前の雪だるまを薙ぎ払う。 「帰ろ…」 勿論、帰るのはあの…冷酷で無慈悲な(ちち)の棲む家ではない。 偽りでも良い。 一瞬でも良い。 この心の穴を、渇きを潤してくれるなら、誰でも良い。 そう考えながら、藤次はマンションを後にし、携帯アドレスから適当に女の名前を見繕うと電話をかけ、雪のちらつき始めた夜の京都へと、消えていった。 彼の孤独と渇きが本当の意味で潤うのは、この日から25年後。 場所は、京都地方検察庁検事室。 女性警官に連れられて来た、儚げに震える1人の女。 笠原絢音との出会いだった…
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