足跡

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足跡

 繋いだ手がグッと後方に引かれてピンッと伸びる。突然、彼女が立ち止まった。彼女は長い睫毛を空に上げる。 「ねぇ、見て、雪だよ!」 「雪?」  振り返った僕は空を視界に映す。無機質な灰色の空からハラハラと舞い落ちてくる細かく刻んだような白い紙。 「これ、絶対に雪だから!」 彼女は編み上げブーツでぴょんぴょんと子供のように飛び跳ねる。 「ねぇ、タカヒロ、この街に雪が降るなんて初めてだよね?」 「うん」 僕は雪の結晶を受け止めようと手のひらを伸ばす。 「積もるかな?」 彼女は首に巻いた白いマフラーからいたずらっぽい口元を覗かせる。桜色の唇。僕の二番目に好きな彼女のチャームポイントだ。 「そうだなぁ〜、レイトショーが終わる頃には積もっているかもね」 僕は繋いだままの彼女の手を引いた。 「急がないと遅刻しちゃうよ。コユキが観たいって騒いでた映画でしょ?」 「うん!楽しみ!」  僕らは力強く路面を蹴ってシネマ館へと走る。映画を観てる最中も手は繋いだまま。  そう、僕とコユキは恋人関係。付き合い始めて二年になる。  シネマのロビー。「面白かったね」二人はなおさら手を固く結んで微笑み合う。  外に出ると、さっきより雪の粒が大きくて激しく降っていた。  クリスマスの足音近く、イルミネーションに輝く街。忙しく行き交う通行人。路上を歩く僕は黒いブーツを止めた。 「ねぇ、コユキ」 「ん?」 「僕らが初めて出逢った時を覚えてる?」 「勿論、覚えてるよ」 コユキは僕を見て口角を上げた。 「ナンパされた」 「ナンパって、確かに僕から声をかけたけど……」  まあ、コユキの言うことは正しい。 イルミネーションが彩る街中、僕の歩く進行方向から彼女がこちらに歩いてきたんだ。ただ交差するはずだった。 ……はずだったのに僕は声をかけた。 「ねぇ、なんで私に声をかけたの?」 彼女は半歩進んで振り返る。 僕は瞳を細めて答えた。 「君があまりにも楽しそうに歩いていたから」  少し歩くと公園がある。この場所で僕らはいつもサヨナラするんだ。  今日はショッピングをして映画も観て楽しかったな。次の約束を交わしてサヨナラしようとするとコユキが下を向いて「あっ!」と小さく発した。 「タカヒロ、足元を見て」 「えっ、うん」  足元に視線を下ろす。僕には彼女の言いたいことがすぐに分かった。  真っ白な雪にスタンプされた僕とコユキの大小の靴跡が街灯に照らされている。 「雪が降ると靴跡がつくね」 彼女はしゃがんで靴跡を見つめた。 「なんか不思議だね」 「うん」  真っ白な世界に刻まれた僕らの靴跡はとてもハシャいでいて楽しそうで、何だか泣けてきてしまう。 「ねぇ、タカヒロ」 「ん?」 「出逢ってから二年、私達はこの街で楽しく遊んだね」  コユキとの二年に想いを馳せる。水族館、遊園地、動物園、本当に色んな場所に行った。どれも楽しい大切な思い出。その思い出は、今日を仲間にして明日へと続く。 「うん」 僕は頷いた。 「明日も十九時半にここね。明日は何をしようか?どこへでも遊びに行けるよ」  コユキは何も答えない。黙って靴跡を眺めている。いつもの彼女なら即答してくれるのに、どうしたんだろ?様子が変だ。 「コユキ?」 僕は彼女の横にしゃがんだ。 「タカヒロ、私は今どんな顔をしているか分かる?」 「えっ?」 急な問いかけに僕はコユキの横顔を見た。彼女は微動もせず無表情だ。 「タカヒロには分からないよね。私は今、泣いているんだよ」  泣いている?「なぜ?」と僕は聞いた。 「なぜ私が泣いているのか、タカヒロには本当に分からないの?」 「分からない」 「私が泣いているのは……」 コユキは雪に手を重ねる。 「この雪が冷たくないからだよ」 「あっ……」  その言葉だけで僕には彼女の泣く意味が理解できた。確かにこの街は楽しい。でも……。 「この街には未来がない」 呟きを雪に落とすコユキ。 「私はアナタが好き。だからこそ未来に進みたい」 「それは、もうこの街には来ないということ?」 「うん」  僕達は今、メタバースプラットフォームにいる。メタバースとはインターネット上に構築された三次元仮想空間。現実の世界と何ら変わらないリアリティな都市がある。自分の分身である3Dアバターを操作して空間内の移動や他ユーザーと会話が可能な場所。  アバターの表情は喜怒哀楽、全てある。しかしアバターが表情を認識するまでタイムラグがあるのだ。特に悲しい表情に関しては認識が遅い。  今、コユキは切ない表情をしている。が、例え泣いていたとしてもアバターに涙は流せない。 「くっ!」 コントローラーを持つ両手が震えた。  彼女を失いたくない。でも失いたくないのはアバターのコユキか?リアルな彼女なのか?  答えは考えるまでもなく直ぐに出た。僕はゴーグルを捨てて現実のコユキを選んだ。 「僕達は前に進もう。進まなきゃいけない」 僕は冷たさの伝わらない雪に手を置いた。 「この靴跡のように……」 ◆    一年後、僕は飛行機で北の大地へと飛ぶことになる。北海道、千歳空港のロビーで、その人は僕の到着を待っていてくれた。  すぐに分かった。LINEでの写メ交換やトーク、ビデオ通話で僕らは縁を繋いできたのだから。  ビデオ通話でも思ってたけど、現実の彼女はアバターより断然、可愛かった。桜色の唇もそのまま。 「隆弘!」 「小雪」  互いに見つめ合う。やっぱりリアルは凄い。表情にタイムラグがないから直ぐに真っ赤になって二人は俯いてしまった。ビデオ通話より対面の方が何倍も恥ずかしい。 「隆弘、やっぱりアバターにそっくり」  うん、無理してイケメンにせず自分に似せて良かったと思えた瞬間だ。  空港から外に出ると雪が降っていた。 「これが雪か……」 僕はそっと腕を伸ばす。結晶は手のひらに落ちると体温で溶けて水に姿を変える。 「雪、初めてでしょ?沖縄には降らないもんね」 小雪はニッコリ笑った。 「うん、雪はかき氷のように冷たいんだね」  雪をもっと感じたくて上に顔を向ける。すると、同じ灰色だけど無機質ではない自然の雲が僕を出迎えてくれた。 「お昼まだでしょ?」 「えっ、あっ、うん」 「家でお母さんが手料理作って待ってるよ。隆弘に逢うの楽しみだって」 「本当?嬉しいなぁ〜」  実はビデオ通話で僕と僕の両親、彼女と彼女の両親とは仲良しだ。  駐車スペースに停めてある小雪の赤いマイカーに乗る手前、僕は身を乗り出して彼女を抱きしめた。 「やっと君を感じることができた」 「うん」 小雪も必死に抱きしめ返そうとしてくれる。 「隆弘、温かいね」 「そりゃあ生きてるからね」  僕はそう言って笑ったけど、本当は彼女の体温に感動してたんだ。ずっと夢見て求めていた温もりが確かな形になって手の中に深い想いを伝えてくる。鼻腔をくすぐる匂いも甘い。  メタバースプラットフォームで出逢った最初の頃、僕達には偶然の共通点があった。  だからこそ、僕と小雪は現実から逃避して仮想空間を選んでしまったんだ。でも仮想空間は仮想空間であり未来は現実にしかない。  僕、秦野隆弘(はたのたかひろ)(二十八歳)は、一級建築士として設計事務所に勤務している。そんな僕は今日、真城小雪(ましろこゆき)(二十七歳)市役所勤務にプロポーズをする為にここにいる。  気がつくと、小雪の被る黒い毛糸の帽子が雪で白く染まっている。赤いコートの両肩も白い。睫毛にも雪は乗るんだね。仮想空間のアバターにはない光景に瞬きが止まらない。  路面も真っ白だ。そんな僕らの雪に刻んだ跡は駆動輪(後輪)とキャスター(前輪)が回った跡。決して靴跡は残せない。  ブーツで残した靴跡は寒さを感じない思い出に変わりずっと心に残るだろう。だけど二度と見ない。振り向かない。僕と小雪は現実(いま)だけを進むから。  白い息が雪と同化する。やはり冬は寒い。  僕は当たり前のことを当たり前に思って失笑した。  そうそう、僕が一番気に入っている彼女のチャームポイントは、僕と同じ両足だ。名前は【愛】  小雪の家で「結婚して下さい!」と頭を下げた僕に「えっ、私、小雪の母ですけど」と彼女の母親が自分に指を差したのは後まで続く笑い話。  緊張のあまり「結婚を許して下さい」と言葉を間違えてしまったのだ。 「ばーか」 小雪は僕の横でそう言って爆笑した。  彼女の父は微妙な面持ちをしてたっけ。完全にやらかした僕は夜にご馳走になったすき焼きと寿司とビールの味を全く覚えていない。 ◆  十年後。仕事から帰宅すると妻の小雪が車椅子に座る背中が見えた。  僕に気づいた彼女は振り返って緩く微笑む。 「おかえりなさい、あなた」  家は平家のオールバリアフリー。勿論、新築の設計士は自分。僕はジョイスティックレバーを操作して車輪を進めた。表情で分かる、何やら彼女は楽しそうだ。その原因は……。 「またアルバム見てたの?」  小雪は写真を撮ってアルバムを増やすのが趣味だ。木枠のガラステーブルに十冊のアルバムが積み重ねてある。 「見せて」 僕は開かれた十一冊目のアルバムに目線を落とす。 「これ、この前行った旅行の写真だね」 「そうそう」 彼女は写真に指を差した。 「これさ、隆人(りゅうと)雪人(ゆきと)が変な顔してない?」  笑顔の僕達に挟まれて白目に舌を出して変顔しているのは長男の隆人、八歳だ。まだ小さいのにスロープのない段差でアシストして大活躍してくれる優しい小学生。その横に並んで、兄に負けないクシャッとした変顔を見せて写っているのは次男の雪人、七歳。彼は電動で動く車椅子を押したいと駄々をこねる。二人共、漫才が大好き。明るくひょうきんな性格で、僕らの笑いは絶えない。現時刻、二人はベッドで睡眠中、お笑い芸人になる夢でも見てるのかな?  二人共、赤ちゃんの頃に養子縁組した子供だ。僕達に子供を作る行為は無理だった。従って子供達と血の繋がりは確かにない。だけど僕と妻は子供達に流れる血以上の絆を感じている。心から愛しているんだ。  クスリと笑う僕。 「しょっちゅうアルバム見てるくせに今頃気づいたの?」 「いえ、妙な顔してると思ってたけど、途中から全部の写真がそうだから」  確かに、どの写真も子供達は変顔だ。 「もしかして写真を撮る時は変顔するって思い込んでるのかな?」  小雪の言葉に僕は爆笑した。 「それじゃ、これから撮るだろう卒業の集合写真もきっと変顔だね」 「やだ、それは大変!あの子達に教えなきゃ」 彼女は僕を見ておどけてからアルバムに瞳を戻した。 「でも、まあ、いいかぁ〜。これが私達、家族の足跡だもんね」  そう、僕達が現実に残すのは車輪跡だけではない。こうした数々のアルバムの中の写真達。水族館、動物園、遊園地、現実の世界でも僕らは様々な場所に遊びに出かけた。乗れないアトラクションやスタッフさんに迷惑かけてしまうことは悔しいし心苦しいけれど、自由に動けるアバターで遊ぶより不自由なリアルの方が楽しい。  小雪は写真を思い出の足跡と呼んで一枚いちまい愛しそうに撫でる。  当然ながら苦悩する時や泣く時もある。でも全部抱きしめて未来に向かって歩けば、例えどんな道でも必ず生きる足跡を残すことができるんだ。  正月休み、僕ら家族は飛行機に乗り沖縄から北海道、彼女の実家に帰省予定。  冬の北海道、僕らはまた白い息を吐いて寒さを感じながら純白の大地に刻印を増やす。車輪と靴跡。一歩一歩、大切にね。  僕ら家族の足跡の名前は【幸せ】だ。      
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