第四章 疼痛を伴う真実 一 粉砕機

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「裸足か」  そうだ。克死患者の知覚は、肉体に依存する。目を失えば視覚を失い、耳を失えば聴覚を失う。では、人としての形状のすべてを失った肉塊が得られる感覚といえば、床に響く振動くらいのものなのではないか。 「聖。必ず助け出すからな」  俺は一度、聖の腕を離した。肉塊は奇妙な蠕動を繰り返し、聖の体を再度ゆっくりと飲み込んでいく。その姿を見届けることなく、俺は奥歯を噛み締めて踵を返した。  廊下に出ると、素早く隣の病室のドアを開け飛び込む。  そこは、ごく一般的な大部屋の病室だった。だが、俺が奇妙に感じたのは、そこに置かれているベッドに、克死患者が一人も拘束されていないことだった。ベッドが使われた形跡がない、ということではない。誰かがそこにいただろうと感じるのに、姿だけがないのだ。その原因には、あの肉塊の正体と繋がりがありそうだ。  しかし、いまの俺に深く考えている時間はない。部屋の中に素早く視線を巡らせると、手近な位置に置かれていた車椅子に手をかけた。さらに、部屋の中に放置されていたモニターを複数台持ち上げ、車椅子に積み上げるようにして乗せると、廊下に戻る。  狙いは、廊下の突き当たりだ。車椅子の手押しハンドルを握り、数回揺らして軌道を確認してから、勢いよく車椅子を押し、ついでに蹴り出した。車椅子は真っ直ぐに進んでいき、狙い通りに廊下の突き当たりに激突すると、積んでいたモニターを落としながら派手に倒れる。その衝撃の振動は、俺の足裏にまで響く。  次の瞬間。暗闇に沈んだ病室から、肉塊の一部がウゾウゾと這い出してきた。一部と言っても、大きさは直径おおよそ二メートル。高さも一七〇センチほどはあり、小山が動いているような印象だ。肉塊の動きは意外に俊敏であり、すぐに振動の発生源である車椅子の元まで到達していた。  俺はその隙に、肉塊のいた病室の中へと侵入する。中にはまだ肉塊は残っているものの、外に分離していったため質量が減っていた。そして、肉塊に覆われ完全に隠れていた、ミンチになっていない複数体の克死患者の一部が露出している。彼らは体をもがくように体を動かしているが、自力での脱出は不可能なようだ。  その中に、聖の姿もある。頭頂部まで埋もれかけていた先ほどと比べ、体が腰の辺りまで外に出ている。 「聖!」  呼びかけを続けながら聖の腕を引き、今度こそ完全に引き抜くことに成功する。  俺は力の抜けた聖の体を抱え上げ、部屋を出るために振り向く。部屋の片隅に、大掛かりな機械が設置してあったことに気がついた。肉塊に塗れているのでよくわからないが、地下の映像で見かけ、老人の体をミンチにしていた粉砕機のようである。  俺は眉を顰めながらも気を失ったままの聖を連れ、まずは来た道を戻った。聖の体を背負い直して、三階につながる階段の前に立つ。肉塊の中にもいなかったし、渡り廊下からここまでにも姿は見えなかった。ゆめちゃんはおそらく、この階にはいない。であれば、探しに行くのならば三階に行かなければならない。  俺が三階の様子を伺うように視線を上へと向けたそのとき、踊り場に人影が現れた。俺はそれがゆめちゃんであることを期待したが、希望は一瞬で打ち砕かれる。  現れたのは、やけに大柄な男だった。作業着のような形状の服を着ていることはわかるが、全身が血まみれで、その詳細はもはや窺い知れない。彼は大きな呼吸を繰り返すように肩を上下している。だが、その肩の上に乗っている頭部が半分に割れていた。頭頂部から斧にでもかち割られたかのようだ。顔が左右に分かれ奇妙なズレ方をしているが、顔のパーツは一応それぞれに機能している。その異様な姿を見て、ゾッとした。  だめだ。気を失った聖を背負ったまま、なにがいるかも知れない場所に進むことなどできない。 「おおぉぅぁああああああ」  男が、裂けた口から異様な叫びを上げながら足を一歩踏みだした瞬間。俺はすぐさま踵を返した。男に追い付かれないよう、可能な限りの全速力で走る。足裏には、背後から大柄な男が走り寄る振動が響いている。さらに視界の端には、男の立てる振動に誘き出されたか、肉塊が蠢いているのも見えた。  俺は、安全が確保できているA棟の地下に戻ることを余儀なくされた。足を止めることなく、ただ走り続ける。
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