二 嘘

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二 嘘

 A棟に戻るときに通る渡り廊下では、相変わらず首吊り女がウロウロとしていた。ただ、気をつけて横を通り抜ければ特に問題もなく、廊下にいる他の克死患者もやり過ごして、無事に地下へと辿り着く。  肉塊に飲み込まれたことで、聖は全身がべっとりと血塗れになっていた。真っ先に給食室へ向かい、その汚れを落とすことにする。  一度服を脱がせると布巾に水を含ませ、彼の体を拭いていく。冷水しか利用できないが、聖がその冷たさに目覚めることはなかった。俺自身の体についた汚れもついでに拭ってしまうと、支度を済ませ、聖を連れてリネン室へと向かった。  やるべきことをすべて済ませた後、俺は須藤さんを看取ったときと同じように、聖の横に座り込み、彼の手を握っていた。  目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは衝撃的な光景の数々だ。克死院で目覚めてからはずっとそうだったが、今日は殊更ヘビーな出来事が多かった。なにより、昨日は須藤さんとゆめちゃんもここにいたのに、いまは気を失ってしまった聖と二人だけだ。 「りく?」  小さく、聖の声がした。ハッとして視線を向けると、彼は眉を寄せて怪訝そうな表情で俺のことを見ていた。 「気がついたのか、よかった。本当に、よかった。俺は、もう一人きりになってしまったのかと……」  無意識に、握っていた手に力が篭った。言葉を紡いでいた途中から感極まってきて、声が詰まる。 「おいおい、縁起でもねぇから枕元で泣くなよ」  聖は心底嫌そうに言うと、俺の手を振り払おうとした。だが、俺の沈みきった表情を見て、手はそのままに、ゆっくりと上体を起こす。 「何があったんだ?」  問いかけられるが、咄嗟に言葉が出ずに首を横に振る。それだけで、聖にはおおよそのことは伝わったようだ。 「ゆっくりでいいから、話せよ」  優しいトーンで吐息混じりに促され、俺は視線を落とす。 「……あのあと、須藤さんは一人で搬入口に近づいて行ったんだ。だけど、搬入作業をしていたスタッフに銃で撃たれた」 「なに、銃で? 克死患者に間違われたのか?」 「いや。須藤さんはちゃんと声をかけながら近づいて行ったから、そんなわけはないはずなんだ。克死院で近づいてくる者は全部撃つって感じだった。日本で使われるものとは思えないほどに威力の高い銃で。須藤さんは、体のほとんどを吹き飛ばされて、克死状態に戻ってしまった」  話していると、脳内であの銃声が木霊するようだ。聖も光景を想像したのか、眉を寄せて表情を歪めていた。 「そうか。それは、残念だったな」 「ああ……搬入作業をしているスタッフは、克死状態の知識が乏しいのかもしれない。搬入口からスタッフに声をかけて外に出してもらうのは諦めたほうがいい。リスクが高すぎる」  俺の言葉に異論ないというように聖は頷いた。 「それで、そのあとどうなったんだ。ゆめはどうした」  俺は胸に手を当て首を振る。 「ごめん。ゆめちゃんの行方は、わからない。須藤さんを見届けてから聖を追いかけたんだが、肉の塊みたいな化け物に飲み込まれていて、お前を助けるだけで精一杯だった。少なくとも、ゆめちゃんは肉塊には飲み込まれていなかった」  聖はあたりを見回す。ランタンは灯しているから、ここが地下のリネン室だということはすぐにわかる。聖は、ゆめの所在が不明だということには渋い表情をしていたが、取り乱しはしなかった。 「謝るなよ。おれのことを助けてくれたんだろ。おれも、気色の悪いキングスライムみたいなやつのことは憶えてるぜ。B棟につながる渡り廊下に行ったときにあいつが急に出てきて。逃げようとしたんだが、想像以上に動きが俊敏でさ。足元を掬われて倒れて、床にしこたま後頭部を打ち付けたんだよな。そっから記憶がない。お前は、どうやってあのスライムからおれを助け出せたんだ?」 「そこらにあったモニターを車椅子に乗せて、それを壁に激突させることで、遠い場所で振動を発生させたんだ」 「振動?」 「肉塊には目も耳も鼻もないから、どうも肉塊は、床に響く振動を頼りに襲いに行くみたいだ。俺は裸足だったから、床を歩くときにその振動がしなくて狙われなかったんだと思う。ゆめちゃんも裸足だったし、俺よりずっと体重も軽いだろ。だから、彼女がアレに襲われることはないはずだ。B棟の二階は幸か不幸か、肉塊がいるおかげで普通の克死患者がほぼいなかったから、そういう意味では安全だろう。他の階がどうなっているかはわからないが」  脳裏に血まみれの大柄の男の姿が浮かんだが、俺は一度そこで言葉を切り、聖を見る。なんとなく、彼女は無事だという直感があった。
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