二 嘘

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 気がつくと、辺りには白い靄が満ちていた。  確認のため指を動かしてみると、手のあるべき場所にはなにも見えなかった。この空間には、また俺自身が存在していないようだ。  少しずつ、靄が晴れていく。目を凝らし周囲を見回してみて、この場所が病室であることに俺は気がついた。白い靄がかかっていることを除いても、病室の中は眩さを感じるほどに明るい。スタッフの姿も多く賑わっているのでだいぶ雰囲気が違うが、放棄される前の克死院だろうということはわかる。 「その子、どうしたの」  声に視線をあげると、看護服に似た白いパンツスタイルのユニフォームを着た女性が窓辺に立っていた。正確には、そのすぐ横にはベッドがあり、そのベッドに向かって作業をしている途中だったようだ。彼女は長い髪をきつめにまとめ上げており、厳しい表情を浮かべている。  彼女の視線の先を追うと、ゆめちゃんがいた。同じユニフォームを着た男に腕を引かれ、彼女は焦点の合わない瞳をし、虚空を眺めている。体は常時不自然に左右に揺れており、一見して、まともな精神状態ではないことがわかる。この靄の中で見ている光景が前回の続きだとすれば、彼女は父親に首を絞められたことにより克死状態に陥ったのだろう。 「入口のまえのとこに、ひとりで、立ってました」  ゆめちゃんの腕をひいている小太りな男性が、口の中でくぐもるボソボソとした声で話す。彼の姿勢は妙に猫背だ。受け答え自体はできているが、その視線は落ち着きがなく部屋の中のあちこちへと移動し続けている。彼自身が何かしらの精神疾患を持っているのではないかと思われた。  窓辺に立っていた女性は深いため息をつく。ゆめちゃんのそばへと近寄ると、彼女の着ている服を調べ始めた。ポケットを探るが、中には何も入っていない。 「身元のわかるものはなし、か。昨日も克死患者の置き去りは三件もあったけど、どれも老人だった。克死状態になった子供を置き去りにするなんて、ひどいことをする親もいたもんね」  女性は独り言のように呟いてから、男性へと視線を向ける。 「しょうがない。小児病室に連れて行って、入院処置を済ませてしまってちょうだい。幸いこの子に危険性はないみたいだから。増田(ますだ)さん、あなた一人に任せていい? 続々と患者が運び込まれてきてて、もう手一杯なのよ」 「は、はい。だいじょうぶ、です」  増田と呼ばれた男性は、小刻みにコクコクと頷いた。彼は再度ゆめの腕を引き、病室を出ると、階段を上って院内を移動する。俺もその後をついていくことにした。  彼らが向かったのは、B棟の六階だ。増田は迷う様子もなく奥の病室に向かうと、中へ入っていく。病室の入り口には『B610』の番号が振られ、室内には他の病室と同じくベッドが並べられている。相違点としては、そのベッドに寝ているのがすべて年若い子供たちというところだ。  増田は空いている一つのベッドにゆめちゃんを座らせると、一度そばを離れて、細々としたものを持ってきた。ベッド周りのカーテンを閉めると、たどたどしい手つきでゆめの服を脱がせていく。  幼いとはいえ女の子の裸を見るのは憚られて、俺は視線を逸らそうとした。だが、そこで増田の手つきに妙なものを感じた。思わず様子を観察する。 「……かわいい、かわいいね」  増田は脱がせたゆめちゃんの服を床の上に落とすと、口の中でボソボソと呟く。太い眉の下の妙に丸い瞳が爛々としている。彼の芋虫のようなずんぐりとした手は、下卑た意思を感じさせる動きで、彼女のあらわになった肌の上を辿る。 “お前。なにを考えているんだ、やめろ”  静止の声を上げようとしたが、もちろん、俺の声が空間に出ることはない。  増田の手の動きは徐々に大胆になっていき、少女の体を弄っていく。そしてその卑しい指が、明確な目的を持って彼女の足の間へと伸びて行ったとき。 「やめて!」  ゆめちゃんが叫んだ。彼女は腕を伸ばして増田の体を突き飛ばし、そのままベッドの上で、自分自身を守るように身を屈める。
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