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はるかなる旅人へ
わたしがいかに、あとがきを記すべきか考えこんでいると、夫がやってきて、手元をのぞいた。
「またその話かい? あれはもう終わったはずだろう? カタリーナ」
ユイラ人の夫はわたしのよき理解者であると同時に、かなりのヤキモチ妬きでもある。わたしがラ・マン侯爵の話にばかり情熱をそそぐものだから、内心おもしろくないようだ。
「ええ。終わりました。でも、何か書きたりない気がして。それで考えているのですわ。もっともっと、たくさん書きたいことがあったような」
「それはいいが、私はつねづね思うのだ。あなたの書くユスタッシュは、ちょっとばかりカッコよすぎるんじゃないのか?」
「そんなことありませんわ。侯爵はとても美男で、それは素敵な紳士でしたもの」
「こう言ってはなんだが、アイツもけっこうイヤなヤツだった。あなたが書く、この世のものとは思えないほどの美男子ではなかったし、暗くてウジウジしてるわりに、急に怒りだすし。それはまあ、容姿はわが家の血筋をひいているのだから、整ってはいたよ? でもね」
「いいじゃありませんの。物語なんだから。わたしは十五歳のときに、ルビーから聞いた冒険譚を、どうしても形にしたいだけ」
十年前だ。
わたしは今でも、南タウロスの父の城でお友達になったルビーとその夫のラ・マン侯爵を鮮烈におぼえている。二人は絵に描いたように美しい、お似合いの夫婦だった。
少女だったわたしに数々の冒険の話をしてくれた。氷の国で大熊と戦ったこと。魔の森での信じられないような驚異。草原で百人もの蛮族にかこまれ、馬をかって逃げだしたこと。謎めいた神々の塔で遭遇した古代の呪い……。
どれも夢のなかのようだ。
きっと二人は今でも世界のどこかを旅しているのだろう。
夫はルビーの話をすると、いつも物悲しげになる。何度も聞いたのに、やっぱり今回も同じことをたずねてきた。
「ルビーは幸せだった?」
「とても幸せだったわ。あんなに愛しあってる夫婦はほかにいないもの」
「それならいいんだ」
わたしは夫をかえりみた。
「ハリー」
ルビーがそうしたように、彼を愛称で呼ぶと、夫は喜んだ。
「ハリー。あなたには、わたしがいてよ」
わたしの父は南タウロスの大公殿下の従兄弟にあたる公爵だ。南タウロスでは一、二位を争う屈指の名家なわけ。だから、ユイラの社交界へ留学に来たとき、ハリオットと知りあい、三十五の年までルビーへの初恋を守りとおした、このいじらしい人と恋に落ちた。ラ・クルエル公爵家とは家柄のつりあいもよく、つつがなく婚儀の運びとなった。
ハリオットは一見、傲慢だけど、その内側にはとても、もろいものを抱えている。わたしの描くユスタッシュの像には、夫の影響が少しばかりあるかもしれない。
「それにしても、カタリーナ。一つだけ、その話で納得いかないことがある」
「まあ、何?」
「それを読むと、私が従兄弟を毒殺しようとした極悪人のようではないか?」
「ごめんなさい。物語としては、そのほうが盛りあがるから。でも、誰も本気にしないわよ。作り話だとわかってくれるわ」
「私はユスタッシュを殺そうとなどしなかった」
そう言いつつ、ハリオットは伏目になる。いつもそうだ。彼は何かを隠している。心にやましいことがあるのは間違いない。
「ねえ、ハリー。だけれど、あなたはこの話になると、いつも気まずそうね? ユスタッシュに薬を使って、馬術大会の成績を落とそうとしたのは事実なんでしょう?」
「……したとも」
夫はますます居心地が悪そうだ。
「ね、あなた。わたしにだけは、ほんとのことを言ってくださらない? あなたはいったい何をしたの?」
夫は消え入りそうな声でつぶやく。
「私が使ったのは、つまり……腹くだしの薬だったのだ」
わたしたちは目を見かわしたあと、声をあわせて笑った。
完
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