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────「あ、また今日来るね。“土屋さん”」
受付担当の原田さんが予約表を眺め言った。
“土屋さん”
その名前にドクッと胸が高鳴る。
土屋壮平さん、33歳。彼についての情報はそれしかない。
「毎月クリーニングに来るなんて、よっぽど綺麗好きなのね」
原田さんの言うとおりだ。
私が歯科衛生士として勤めているデンタルクリニックに、ほとんど毎月、最短で三週間ほどで定期的にクリーニングに来る土屋さん。
虫歯は一本もなく、治療する必要はないのだけど、よっぽど歯を大切にしているのか、半年前に通院を始めて以来、ハイペースで利用してくれている。
そう、私が土屋さんに一目惚れしてから半年間ずっとだ。
「今日も藤代さんでお願いね」
院長に名指しで指示され、弾んだ声で「わかりました」と返事をする。
心の中ではガッツポーズだ。
また、土屋さんの歯をクリーニングできる。
土屋さんの歯を独り占めできるんだ。
そんな怪しい喜びに浸っているなんて知ったら、医院のスタッフ達も土屋さんも、ドン引きするだろう。
だから絶対に、この気持ちは誰にも内緒だ。
私は今、遅く来た青春、初めての片思いに夢中になっている。
────「17時で予約した土屋です」
土屋さんの低くて穏やかな声が聞こえ、受付の壁の裏に隠れて深呼吸をする。
月に一回の、夢の時間だ。
「こちらへどうぞ」
原田さんに案内されて、治療室に入り、チェアユニットに腰かける土屋さん。
やがてチェアは倒れ、仰向けになった土屋さんに近づく。
「では、クリーニングを始めます」
「宜しくお願いします」
土屋さんは今日も目を閉じていた。
長い睫毛が際立っていて、いつも見惚れてしまう。
サラサラな黒髪と、清潔感のある綺麗な肌。キリリと上がった眉毛と、すっきりした鼻筋。
何よりも心を奪われるのは。
「口を大きく開けてください」
心臓がドキドキしてどうしようもない。
彼の美しい口内が、体温を上昇させる。
こまめにブラッシングされていることがわかる汚れの少ない歯と、何度見ても圧倒されてしまう整った歯並び。
ピンク色の血色が良い舌に、色気を感じてしまって。
ごくりと固唾を飲み込んだ。
自分でもどうかしていると思う。
彼の口腔内に、一目惚れしてしまったなんて。
「終了です」
ああ。あっという間の時間だった。
彼の歯は綺麗だから、クリーニングがすぐに終わってしまう。
名残惜しさを感じつつ、すぐに彼に背を向けて器具の片付けを始める。
馬鹿みたい。意識しすぎて、彼と顔を合わせられないなんて。
「ありがとうございました」
低い声でそう言われ、顔は向けずに会釈する。
素っ気ない対応だとわかってはいるものの、今はそうすることがやっとで。
「……あれ?」
彼が治療室を出てしばらくした後、足元に落ちているカードに気づいた。
拾い上げるとそれは名刺。
────株式会社村井商事 営業部 課長
土屋壮平
……土屋さんの名刺だ。
慌てて待合室に出るも、彼の姿はない。
罪悪感を感じながらも、私はその名刺を、胸ポケットに忍ばせてしまうのだった。
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