歯並びに一目惚れ

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「乾杯」 「か、かん……」  土屋さんは生ビール、私は梅酒のロックで乾杯する。  まだ夢心地で、生きている実感がない。  目の前の土屋さんは、美味しそうにビールを呷る。  動く喉仏も、伏し目がちな瞳も、どんな仕草も色っぽく感じて、酔いが回るのを早めた。 「改めて、さっきはありがとう」 「こちらこそ、助けて頂いて……ありがとうございます」  深々と頭を下げると、また彼はふっと笑う。 「そんなにかしこまらないで。敬語遣うのもやめよう」 「はい……」  やっぱり土屋さん、こういうのに慣れていそう。  女性と話すことに躊躇いがないみたい。  私とは大違いだ。 「藤代さんの職業って……」  そう言いかける土屋さんにホッとする。  私のこと、覚えていないみたいだ。  いつも彼は目を瞑っているし、私もマスクをしているし。  でもここで歯科衛生士だとカミングアウトしたら、何かの拍子にバレるかもしれない。  そうしたら、やっぱり怪しまれるんじゃ。  何か他の職業だってことにしておかなきゃ。  必死に考えを巡らせて、さっきのスカウトの男性を思い出す。 「……クラブで働いてます」 「クラブ!?」  すると、ものすごく驚いた表情をする土屋さん。  少し無理があったかな?  クラブで働くほどの華があるわけじゃないし。 「どこで!?」  必死になる土屋さんに驚いた。  そして、その後の会話を予想していなかったことに冷や汗が滲む。 「な、内緒です……」 「……そっか」  見るからに落胆する土屋さんに、更に拍子抜けする。 「……教えてくれたら行くのに」  そんな言葉に絶句した。  これも社交辞令?  もしかして、土屋さんって遊び人なの?  少しショックだけど、それでも彼への気持ちは変わらなかった。  なんせ、初めての恋だ。  こんなことで思いは冷めたりしない。  むしろこう、独特な色気を醸し出す彼のことが、気になって仕方なくなった。 「だけど、意外だな。いや、悪い意味じゃなくて」  土屋さんは困惑しているようだった。  そりゃそうか。さっきのスカウト、あんなに動揺していたくせに。 「あ! あの! 私が働いているとこは、こう、こじんまりしていて! 落ち着いた雰囲気なんで!」  まずい。噓に噓を重ねて、引き返せなくなってきた。  だけどもう、こうして会えることもないだろうから。  これからはまた、面識もない歯科衛生士とお客さんという関係に戻る。  だったらこの一時だけは、別人としてでも思いきり楽しみたい。  
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