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宮廷の寝所へ戻る頃には既に陽が暮れていた。彩王は先程までの軍議に思いを馳せながら部屋に入り、人の気配にハッとした。
誰だ、と誰何する寸前で、今朝老宰相と交わしたやり取りを思い出し、危うく自分が間抜けになるところだったと内心舌打ちする。それにしても室内に灯り一つ無いとはどういう事だろう?
仕方なく自分で燈台に火を着ける。炎の明かりが薄っすら室内を照らすと、奇妙な純白の布の塊が落ちているのに気がついた。
部屋の隅にへばりつく様にある塊は、丁度人一人がすっぽりと入れるくらい大きい。こんなものあっただろうかと近づこうとする彩王に、突然鋭い声が飛んだ。
「近づくな!」
ギョッとする彩王の目の前で布の塊が動き、人影が姿を表す。女だ。いかにも気の強そうな目でこちらを睨みつけながら唸っている。
狼を思わせる異国の女の目にたじろぎ、もう少しで衛兵を呼ぶところだった。彩王はなんとか自分を取り戻すと、純白の布を巻きつけたまま部屋の隅に蹲る女の前で咳払いをした。
「私が誰だかわかっているか?その様子だとわかっていないんじゃないか?」
「知っているさ、王。私を馬鹿にしないで欲しい」
「私を王と知りながらそんな態度を取っていたのか?お前はツァスの……」
「ナグジャ。父はホゥマ、母はリッタカ。誇り高きタジの一族だ。例え異国の王であれ、私の許可なく触ることは許さん」
あまりにスラスラと答えるため、彩王は面食らった。その剣幕で今にも喉笛に噛み付いてきそうだ。
老宰相の進言に耳を傾けた事を早くも後悔しつつ彩王は思考を巡らせる。この女を部屋から摘み出すのは容易いが、その時は衛兵達の噂話にありもしない尾ひれがついて回ることになるだろう。自分が部屋を出る方法もあるがそれも癪に障る。要はただ一夜、この女と同じ部屋にいれば済むだけだ。
彩王は自分に辛抱だと言い聞かせ、寝台に腰掛けた。
「わかった、ナグジャよ。私はお前に指一本触れないと誓おう。だがこの部屋から出ていく道理も無い。私の部屋だからな。お前も今夜は一晩ここにいてもらうぞ」
白色の布から顔だけ覗かせたナグジャは、キョトンとした表情になった。
「……王がそれでいいなら」
そう言ったきり黙り込む。室内に奇妙な静けさが訪れた。
──気まずい。
燈台の明かりが揺れる度、彩王は自室に他人がいる緊張感で肩を強張らせた。その内蝋は燃え尽きたが、暗闇の中でますます眠れなくなっただけだ。やがて沈黙に耐えかねた彩王は女の名を口にした。
「……ナグジャ」
「……なんだろうか」
「ツァスとはどんな所だ?北にあると聞くが、行ったことが無い」
「行けばいい。ツァスはもう彩陽の領土だ、王が来るなら歓迎されるだろうさ」
皮肉交じりの言葉の中にどこか物寂しさが感じられるのは気のせいだろうか。半ば売られるような形で彩陽にやって来たであろうこの女が、こちらに敵意を剥き出すのも無理はない。彩王は声を和らげた。
「いつかは行くだろうが、差し当たってここに一人、ツァスから来た者がいるだろう。その者から聞きたい話もある。どうせ暇だからな」
「何も話す事など無い。どうしてもと言うなら質問するといい」
あくまでも素っ気ない態度をとるつもりらしい。女とはかように面倒臭いものだろうかと頭を痛めながら質問を考えるが、北の文化も風土も何も知らない。強いて上げるならナグジャをすっぽりと覆う白い布は、彩陽では見た事がないものだ。恐らくツァスから持ってきたものだろうと見当をつける。
「では聞くが、その布は?故郷から持ってきたのか?」
「布?ああ、そうだ。これはいざという時雪の中に隠れられるよう白く染めている」
「雪……?雪とはなんだ?」
えっ、と暗がりの中でナグジャが絶句する。何か妙な質問をしてしまったかと焦る彩王に、ナグジャは感心したような、呆れたような口調で、
「はぁ……そうか、ここには雪が無いのか。雪とは空から降る白い粒のことだ」
「雨のようなものか?」
「雨に似ているが、凍っているので地面に積もるのだ。彩王よ、想像してみろ。この国を取り囲む山々が全て真っ白に染まった風景を。雪が降り積もれば彩陽の色とりどりの建物も皆白くなってしまうぞ」
そう言われて想像してみようとしてみるものの、生まれた時から様々な草花に囲まれている彩陽の風景が白一色になる姿は思い浮かばない。首を傾げる彩王にナグジャは続けた。
「染まるだけじゃない。雪は小さくとも形があって、それが分厚く降り積もるんだ。雪のひと粒をよく見るとどれもこれも形が違うんだよ、不思議だろう……」
先程までのつれない態度が嘘のように、ナグジャはすらすらと雪を話し始める。やがてツァスの雪原の話から戦いの逸話、幼い頃の思い出と次々に話が移り変わってゆく。
相槌を打っていた彩王は、いつの間にか空が白々としているのに気がついて顔を上げた。一晩中話し込んでいたようだ。
ふと気がつくとナグジャの声は止み、代わりに小さな寝息が聞こえていた。どうやら部屋の隅で眠ってしまったらしい。
朝日の中、膝に埋もれるようにして眠るその横顔は彩陽にいるどの女とも違う。気の強そうな眉に黒い髪を高く結い上げて、頬にはそばかすが散っている。緩やかに押し寄せる眠気からぼんやりとナグジャを眺めていた彩王は、ふと我に返った。──例えどんな形であれ、一夜を女と過ごしたという事実は残せたのだ。しばらくは周囲からあれこれ夜の過ごし方を注意されることも無いだろう……。
世継ぎやら、王としての威厳やら、ああ、本当に面倒くさい。
彩王は音を立てないように自室を抜け出し、侍女たちに後を任せると、一度背伸びをしてから公務へ向かった。
これでもうツァスの女と過ごすことは無いだろう。
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