雪野へ

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半月が経った。机に向かっていた彩王は、ふと冷気を感じて顔を上げた。  彩陽の冬は短く、ほとんど無いに等しい。それでも年に数日ほど冷え込む夜があり、そんな日が続くと役人たちが揃って体調を崩していた。  もしかすると今夜、池の水に氷が張るかもしれないと言う子供じみた好奇心が頭をもたげる。机仕事に飽いていた彩王は自室を抜け出した。  冴え冴えと月の光を受ける宮廷の池のほとりに、誰かが立っていた。暗闇に目を凝らした彩王はそこにナグジャの姿を見つけて立ち止まった。  ナグジャは一心に空を見上げている。  逡巡した末、彩王はナグジャに声をかけた。  「こんなところで何をしているんだ」    ぼんやりとした視線が星空から彩王へと注がれる。その姿はどこか迷い児のような心もと無い。  「あぁ……いや、雪が……降らないものかと……」 その迷い児のような心許ない笑みに、憐憫にも似た情がせり上がって来るのを感じた。彩王はナグジャの隣に立ち、同じように空を見上げた。  「いくら南方とは言え、今日は冷える。部屋に入ろう……良かったらまた故郷の話を聞かせてくれないか」  ナグジャは素直に頷いた。その心内に何が去来していたのか知る術は無い。  ただ、その日から彩王とナグジャは逢瀬を重ねるようになった。気の強さは相変わらずだったが、ナグジャも彩王の事をサイと呼ぶほど親しくなっていた。  その後、ナグジャは正式に彩陽国の第一王妃となる。星空を共に見上げた夜から一年が経っていた。  ***  二人の間には子供ができなかったが、その事実はあまり重要視されなかった。周囲の者達の関心はツァスの娘(ナグジャ)ではなく彩王の治世であり、ご機嫌であり、ひいては自らの利益になることに向けられていた。他に妃候補はいくらでもいる。彼女らを擁立する者達の間では、第一王妃との間に世継ぎが産まれなくて助かったと安堵する声まで聞かれていた。  ナグジャは何も言わなかった。  恐れを知らない性格は王妃となっても変わらず、外交の場で彩王は何度か冷や汗をかいた。  ある時は料理がしたいと願い出て、侍女や調理人達に交じりながら厨房へ入り浸った。またある時は室内で鯉を飼いたいと言い始め、本当に巨大な水鉢を持ち込んだが、育った鯉が鉢をひっくり返して飼育を諦めた。彼女の思いつきを数えればキリがない。  それが子供のいない寂しさを埋め合わせる為の行為だったと気がついたのは、ナグジャが病に倒れて随分経った頃だった。  王妃が倒れたと聞いて駆けつけた彩王に向かって、彼女は深々と頭を下げた。  ──子も無く、病の身になってしまった。王妃として申し訳ない。  常ならば溌剌としたナグジャの思わぬ謝罪に、彩王は狼狽える。そうでは無いと否定しようとして言葉に詰まった。  お前の故郷と自由を奪ったのは私だ。彩陽の王妃という(くらい)を与えたのも、今思えばただの罪滅ぼしに過ぎない。彼女は煌めく宝石も、趣向を凝らした(かんざし)も欲しがらなかった。心のどこかで、一番欲しがっていたものを知りながら、宝石や(かんざし)や他の何かで埋め合わせようとしていた。  そんなもの、彼女には全て見通されていたのに。  許してくれ、すまなかったと声をあげて泣く彩王に、ナグジャはやはり何も言わなかった。  それからそう時を経たずしてナグジャは身罷(みまか)った。月日はまるで駿馬のように彩王の頭上を駆け抜け、彼女との日々は瞬く間に遠い日の思い出となっていく。
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