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カルテ3『過去盗観』 恩人
なにやら基準に達したらしく、私は『看護助手』として院内で働くことになった。医療行為には携われないので基本は雑務をこなす。
「真樹君」
慈恩さんは私をそう呼ぶ。
「はい」
「この書類を受け付けへ」
「わかりました」
差し出された書類を受け取った時に、私と慈恩さんの指先が触れ合った。
その時だった。
私は、雨の降る古い村に放り出された。
「はあッ、はあッ」
聞き慣れた女性の声。菖蒲さんの声だ。
「はあッ・・・」
菖蒲さんに、右目と右腕があった。時代劇に出てくるような刀を持っていた。ここは、廃村だ。菖蒲さんは村を滅ぼした物の怪と対峙していた。今の菖蒲さんには格上の相手だった。なんとか民家の隙間を縫って翻弄し、追いかけてくる物の怪の隙を突いて、一閃。下から上に滑らせた刀が、物の怪の頭を両断した。
「ッチ・・・」
刀を杖に地面に突き立て、その場に膝をつく。雨を凌ごうと軒下に身体を寄せる。
「・・・寒いな」
あちこち引っ掻かれて出血が酷い。じっとしていれば傷は塞がるが、血が足りなかった。造血のために懐に入れてある干し肉を取り出し、齧る。しかし、歯が震えて噛み切れない。
「クソが・・・」
にぃ。
ちら、と音の正体を見る。大きいが、痩せた黒猫が一匹。
「・・・やるよ」
菖蒲さんは、干し肉を猫の方に放り投げた。余程お腹が空いていたのだろうか、猫は警戒しながらも、すぐに干し肉を食べ始めた。
「私が持っていても、もう仕様がない・・・」
自虐し、笑い、独り言つ。
「私の肉も喰うといい」
そう言って、目を閉じた。ただひたすら寒かった。
ふわり。
菖蒲さんが目を開くと、猫が菖蒲さんの腹を温めるように身体の上に乗り、丸くなっていた。菖蒲さんはどこか諦めを含んだ優しい微笑みを見せて、再び目を閉じる。弱り切った一人と一匹が、僅かな体温を分け合った。
やがて、雨が止み、日が昇って空気を温める。
「・・・ははっ、まだ生きてる」
自らに言ったのではなく、腹の上の猫を見て言う。
「ごらんよ、虹だ」
菖蒲さんの言葉を理解しているのかはわからないが、猫は菖蒲さんの視線の先を追った。気まぐれな春の冷雨から、一人と一匹は生き延びたのである。
「小汚い猫だ。お前は命の恩人だね」
にぃ、と猫が鳴く。
「運の悪いヤツだ。これからは私の独り言の相手をするんだからな」
菖蒲さんは右手の小指の腹を噛んで傷を作る。血が流れた。
「舐めな」
くんくん、と嗅いだあと、ちろり、と舐める。
「へえ、雄だったのか」
「あんた、一体・・・」
「お前、名前は?」
「・・・ねェよ。そんな上等なモノ」
「なら、私がつけてあげよう」
菖蒲さんは右手の小指の腹と親指の腹を擦り付け合わせる。そうすると、す、と傷が癒えた。
「慈恩」
「じおん?」
「慈悲深い恩人って意味だ」
「・・・勘違いするな。俺は、飯と寝床のために動いただけだ」
慈恩さんは立ち上がり、菖蒲さんに向かって手を差し出す。菖蒲さんがその手に触れた瞬間、
「あ、」
私はソウマ診療所に戻ってきた。
「どうした?」
なにも言ってはいけない気がした。
「すみません、考え事を、」
「勤務中だ。あとにしろ」
慈恩さんはパソコンに向き直り、もう私を見ない。
「失礼します」
私は診察室を出た。
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