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カルテ3『過去盗観』 美しい鯨
「このッ、肉の屑共がッ!!」
命乞いをしてきた最後の一人の頭を、克美さんは踏み潰した。
「はあっ、はあっ、はあっ・・・」
「帰りますよ」
克美さんは荒い息を落ち着けるように、深く深く息を吐いた。
「・・・帰る必要はありません」
「何故です?」
「もう、人魚は居ませんよ」
菖蒲さんは薄く唇を開いた。なにかを言おうとして、言葉が見つからなくて、再び閉じる。
「愚かだと笑えばいい。私は、人間の知恵に負けて、誰一人として守れなかった。だからあの場所で、一人で、ただ漫然と過ごしていたのですから・・・」
克美さんが菖蒲さんを見る。月が無いから星も無い夜。闇に溶け込む菖蒲さんの姿。光が潰える海で暮らしていた克美さんの目には、問題なく見えていた。
「笑えばいいでしょう」
菖蒲さんは瞬く。
「笑えと言っているだろうッ!!」
胸倉を掴み上げる。足が浮く程に。
「帰る場所を失くしたのなら、私が場所となりましょう」
「なにを、言っているのです」
「美しい鯨よ、私と共に旅を」
そっと、菖蒲さんが克美さんの手に手を添える。
温かい。
克美さんは慌てて菖蒲さんから手を離した。殆ど放り投げるように。
「・・・貴方、名前は?」
「菖蒲」
「・・・私にも、記号が必要ですね」
「名前を付けてあげましょうか」
克美さんは逡巡したあと、頷く。
「克美。打ち克つ美しきもの。どうです」
「はっ、打ち克つ? なにに?」
「自分で考えろ」
菖蒲さんは突然突き放した。克美さんは少し驚いたあと、にやりと笑った。
「私の血を飲みなさい」
小指の腹を噛む。血が流れる。克美さんは手をとると長身を折り曲げ、血を飲んだ。
「・・・さあ、慈恩さんを迎えに行かなくては」
カサ、と紙が擦れた。
「克美さん」
「なんです?」
「最近、なんだか良い香りがします。香水ですか?」
「え? いえ、香水はつけていません。院長が嫌いますから」
「あれ? うーん、消毒液のにおいに慣れて、別のにおいがわかるようになったんですかね?」
「かもしれませんね」
にこり、克美さんが笑う。私も笑ってお辞儀をしてから、慈恩さんが居る診察室へ向かった。
「慈恩さん、克美さんが書類を渡して来いと」
慈恩さんは黙って受け取り、書類を見始める。
「おい」
「はい?」
「午後からくる患者に、採血が苦手な森沢という女が居る。いつもは雪弥が手を握ってるんだが、今日はお前がやれ」
「エエッ!?」
なんだその意外な新事実は。雪弥さんってそんなことするの?
「あ、あの、実は私も採血が苦手で、見てるとキュウーってなっちゃうかも」
「だからどうした。薬剤師に手を握らせて看護助手のお前はなにをするんだ」
「あ、ハイ・・・。ワカリマシタ・・・」
そのあと、やっぱりキュウーっとなった。
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