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カルテ3『過去盗観』 地獄
「雪弥さん、大川さんの処方箋です」
足の悪いお婆さんのかわりに、私が雪弥さんのところまで処方箋を運ぶ。少し指を伸ばして、雪弥さんの指に触れた。
途端に吐き気がした。
脳内に直接叩き込まれる絶望の数々。美しい男の子として産まれた雪弥さんは、両親に裏切られて金で売られ、尻の穴を、処女を奪われ、ただ精を吐く道具として生かされ続けた。飼い主の男の想像を絶する変態行為にこころを蝕まれ、いつしか戦うことも、逃げることも、抵抗することも諦め、そんな生活が十年以上も続いた。
爆発するような音を立てて、雪弥さんが閉じ込められている牢屋に続く木戸が蹴破られる。克美さんと慈恩さんが窮屈そうに背を曲げて中に入り、菖蒲さんも入ってきた。
「酷いにおいですね」
克美さんが言う。
「・・・ん、生きているヤツが居るな」
慈恩さんが言う。
「あの男の奴隷でしょうね」
「皆殺しだ。関係ない」
牢屋の鉄の錠を素手で破壊し、体液と排泄物と腐った食事に塗れた雪弥さんに慈恩さんが手を伸ばした時だった。
「おい、なんだ」
菖蒲さんが慈恩さんの手首を掴んで、とめた。
「殺すな」
慈恩さんは物言いたげに菖蒲さんを睨んだが、大人しく引き下がる。菖蒲さんは膝が汚れるのも構わず、雪弥さんの前にしゃがみ込んだ。雪弥さんは、ぼう、と菖蒲さんを見上げる。
「神を堕とす美貌をしている」
「なにを言ってるんですか」
「正気かお前」
「堕ちたよ。一目惚れだ」
「ああ、もう・・・」
「おい、止めねェか」
「貴方こそ止めてくださいよ。この人、一度言い出したら聞かないんですから」
克美さんと慈恩さんが言い合いを始める。菖蒲さんは小指の腹を噛み、雪弥さんの口に含ませた。
『あっ』
二人が声を揃えて言う。
「お前達二人で居ると喧嘩ばかりだ。聞き飽きたよ。もう一人居れば静かになるだろ」
「どういう理屈ですか」
「仲裁役か? それとも数の多さで競うのか」
「どっちだっていいさ」
雪弥さんの瞳に、輝きが戻った。雪弥さんは保護され、身を清められ、取り敢えず一晩眠った。翌朝、菖蒲さんの分の食事も貪るように喰らい、克美さんと慈恩さんが自分の食事を菖蒲さんに分けた。
「そろそろ話せるようになったかい?」
「・・・は、はい」
「名前は?」
「あり、ま、せん」
嘘だ。本当は有る。しかし、自分を捨てた両親と、飼い主の男に呼ばれていた名前で、自身を呼ばれたくなかった。
「うーん・・・。雪のように白い肌だから、雪、雪・・・」
菖蒲さんが空中に指で字を書く。
「雪弥だな。響きが良い。どこまでも広がる雪原のように美しいお前にぴったりだ」
「ゆき、や・・・」
「私は菖蒲。こっちが克美さんでこっちが慈恩さん」
「あやめ、さま、菖蒲様」
「菖蒲、だよ」
雪弥さんにとって、菖蒲さんは死ぬよりもつらい現実から、地獄の窯の底から救い出してくれた女神だったのだ。菖蒲さんのしなやかな手が雪弥さんに触れるたび、菖蒲さんの甘い香りが雪弥さんの肺に満ちるたび、菖蒲さんの優しい声が雪弥さんの鼓膜を震わせるたび、雪弥さんの傷は癒されていった。
「菖蒲さん、貴方、雪弥さんに優し過ぎますよ」
「そう?」
「贔屓するな」
「ええ? 別段贔屓しているわけじゃ、」
雪弥さんの信仰は次第に苛烈になり、
「妬いてんじゃねえよ爺共がよ」
嫉妬と執着心と愛の塊である現在の雪弥さんが産まれたのだ。
「うっ、ぇうっ、」
「おい、どうした」
「ず、ずみまぜっ、は、吐きまず」
「はあ!?」
私は処方箋をカウンターに叩き付け、慌ててトイレに駆け込んで、雪弥さんの過去の苦しみの一部を胃の内容物と共に吐き出した。
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