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チキン南蛮
ゴールデン街の夜は遅い。
早めの仕込みを終え、加津佐は白木のカウンターを丹念に拭いていた。
古くて小さな二階家。
メゾネットと言えば聞こえはいいが、その昔は一階で酒を飲ませ、二階で客の相手をする『青線』とよばれる私娼窟だった街の名残だ。
この街の飲み屋は、大抵が昭和の負の遺産の香りを残したまま商売をしている。それがまた、時空を超えた幽玄の別世界を作り出し、現世に疲れた客を呼び寄せるのだ。
『小料理かづさ』は、清潔感のある白木の内装で、幽玄、というよりは、通の隠れ家、といった風情である。
小さくて古めかしいが、13歳の頃の地獄から抜け出し、必死に自分の手と体とで生き抜いてきた加津佐が手に入れた『城』なのだ。
いつものように『予約席』のプレートを置き、加津佐はカウンターに突っ伏した。
「ただいま」
ガラリと引き戸が開いて、内側に仕舞われたままの暖簾をかき分けるように、静馬が入ってきた。
「静馬さんっ! 」
跳ね起きた加津佐は、迷わず静馬に抱きついた。
「良かった、無事で良かった」
「悪かったな、ここのところ帰れなくて」
「いいんだ……無事ならそれで、それでいい」
暖かい……自分より体格の大きな加津佐を抱き寄せ、静馬はそのガッシリとした肩に顎を乗せた。
安心感のある、加津佐の体温、大きな手、大きな肩、そして広い胸。
「お帰り、静馬さん」
「うん」
暫くそのまま、二人は互いの実体を見失わないように、抱き締め合った。
「ポケットからさ、米粒が、出てきた」
「え、米粒? 」
「うん、カピカピに固まってるやつ」
静馬の髪を撫でるように、加津佐がフッと鼻息を漏らして笑った。
その鼻息に煽られるように、甘いピーチのような香りが立ち上った。
「ごめん、あの時、僕の手についてたんだね」
「おかげで、帰る場所があるって思えた……部下の受け売りだが」
「うん」
「チキン南蛮、ないよな」
んん、と唸って、加津佐が静馬の耳元で「ごめん」と謝った。
「老酒を切らしちゃったんだ。買いに行ったら、暫く入らないって……」
そう……と、静馬が落胆の溜息を漏らす。
「じゃ、加津佐がいい」
「じゃって何、じゃって」
照れたように加津佐の肩に顔を埋める静馬の香りを、加津佐は胸いっぱいに吸い込んだ。
自分を求める時の、心を解放して気を許した時だけの、甘やかで愛らしい香り。
初めて体を重ねるまでは嗅ぐことのなかったこの甘い香りは、ちょっとした喧嘩の時でさえ仄かに香る。
自分といる時は心も体も裸にしてくれている……中々言葉では言わないくせに、フェロモンではしっかり甘えてくれているのがわかるようで、加津佐はいつもこの香りに包まれると幸せになる。
「可愛い」
加津佐が耳の後ろを舌で舐め上げると、静馬がくすぐったそうに笑った。
「45のオッサンに可愛いも何も……」
「でも、可愛い。普段はクールな色気で人を寄せ付けないくせに、僕といる時だけこんな甘々な匂いさせるんだもん。可愛くないわけないだろ」
「知るか……本当だ、意識してるわけじゃないんだ、でも……お前を思うと、こんな甘い匂いになるらしい……なぁ加津佐、欲しい」
顔を上げた静馬の切なげに潤む瞳に、次いで、物欲しげに尖る唇に、加津佐はキスを捧げた。
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