老酒

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老酒

「静馬さん、手帳忘れてるよ」  珍しく寝坊した市川(いちかわ)静馬(しずま)は、慌ててジャケットを羽織りながら玄関に滑り込み、つまづきそうになりながら革靴を履いていた。  静馬に持たせる弁当用の握り飯を握り終えたままの手で、松下(まつした)加津佐(かづさ)はランチボックスと、ベッドの脇に置いたままになっていた警察手帳とを手に、パタパタと玄関に駆け寄った。 「すまんっ」  静馬は受け取った手帳をスラックスのポケットに捩じ込んだ。 「結構巻いたから、時間は大丈夫だよ。慌てて転んだら大変」 「トシだから、な」 「45はまだ若いよ。昨日だって……」  昨夜、加津佐の体の下で気持ちよさそうに背中を反らして喘ぐ姿態を思い出し、加津佐が口元を緩めた。 「もう、やーらしい」 「どっちがっ……今日から暫く、厄介な案件に入るから、署に泊り込むかも知れない」 「わかった。気をつけて」  踵を返してドアノブを掴む静馬の手を、加津佐は思い出したように掴んで引き寄せた。 「何だ、んん……」  文句を言わせる間も無く、加津佐が静馬の唇を塞いだ……。  あの柔らかな感触以降、もう5日も静馬に触れていない。  半年前に田無署から新宿東署の生活安全課の課長に転属した静馬は、大捕物があるとかで、数日署に泊まり込んでいた。  ゴールデン街の入り口で小料理屋を営む加津佐は、静馬から『ごめん』とだけ送られた携帯電話のメッセージを見つめ、溜息をついた。  加津佐は37歳、静馬は45歳。愛に浮かれる年ではないのだが……。  出会い自体はもう一年以上前になる。  二人共、溜まるものが溜まったらワンナイトで発散すれば十分、今更一生を共にするパートナーを探そうなどとは思わない……そんな風に諦観していた筈だった。 「一人だけど、入れます? 」  まだ都下の田無署に勤務していた静馬が、西武新宿駅から新宿御苑前のこのマンションまでの徒歩ルート上にある加津佐の店に初めてふらりと入ってきた時の衝撃は、今でも思い出すだけで鼓動が高まるほどだ。 「いらっしゃいませ……奥へ、どうぞ」  180㎝の長身を感じさせない柔らかな所作、何より、骨っぽさのないつるりとした白い小顔に、切れ長の双眸。見るものが見れば刑事の目だとすぐにわかる鋭さながら、長い睫毛に覆われて黒々と映えるその目の端には、例えようのない色気があった。増して、落ち着いたバリトンボイス。 「綺麗なお店ですね。今日のおすすめは何かな……ねぇ、大将? 」 「え、あ、はい、えっと……試作のサービスなんですけど、チキン南蛮、いかがですか」  おしぼりを差し出すと、静馬は指の先にまで神経の行き届いた所作で受け取った。撫で肩で肩が凝るのか、温かいおしぼりを耳の下に当てた時、ふわりと濃厚な香りが立ち上った。香水にしては微かで、艶かしい。 「ああ……生き返るな……」  思わず包丁を取り落として見とれてしまうほどに、溜息を漏らす静馬は美しかった。ゴールデン街という掃き溜めに舞い降りた、正に白鷺……。  その時のチキン南蛮を大層気に入った静馬が足繁く通ってくるようになってからは、来ても来なくても、白木の清涼感あるカウンターの一番奥の席に予約プレートを置いて、いつでも出せるようにチキン南蛮を仕込むようになっていた。  今日は今日はと待ち侘びて、明日こそと願をかけるようにチキン南蛮を仕込み、店の引き戸が開く度にドキリとした。  今でも、チキン南蛮の仕込みをする時、あの頃の切なさを思い出す。  お互い、ものの弾みもあるけれど、思い切って一歩を踏み出し、今、こうして一緒に暮らすまでの仲になった……。  材料を確認しようとキッチンの冷蔵庫を開けて、加津佐は頭を掻いた。 「あれ、買い置きの老酒、もう使っちゃったんだっけ」  いつも静馬のチキン南蛮には、彼の祖母のレシピに従い、漬け汁に老酒を使っている。それも紹興酒ではなく、五年ものの上海老酒だ。いつか在庫を切らして近くのスーパーで似たような紹興酒を買って使ったら、まろみが全然違い、揚げた時の仕上がりまで違ってしまった。 「買いに行くか」  明日にはきっと帰ってくる……願掛けも込めて、加津佐は買いに行くことにした。    
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