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翌朝
エオリアは眠れぬ夜を過ごした。
昨夜夫は帰らなかった。
こんなことは今まで一度もなかったこと。
夫はいつも規則正しい生活を送っていた。
起床時間、食事の時間、出勤時間、帰宅時間、就寝時間。
特別な予定がない限り、このタイムスケジュールが狂うことはない。
少なくともエオリアと結婚してからは一度もないと断言できる。
昨夜もいつものように、居間のソファーに座って夫の帰りを待っていた。そしてそのまま夜が明けた。
「一睡もしていないのですか?」
早朝にやって来たスークレイ子爵の顔もエオリア同様、疲労の色が濃い。
屋敷で座って待つことしか出来なかったエオリアは、夫に何があったのか知りたくて子爵を歓迎した。
「通勤の途中で事故にでも遭われたのかと思い、魔法局の連中としらみつぶしに調べたのですが、残念ながら手掛かりはありませんでした」
「では、夫は職場に一度も顔を出さなかったのですね?」
「はい、僕はこれから局長のご実家へ行ってみようと思っています。もしかしたら帰省されているのかも知れません」
夫の実家は王都から馬車で6時間程の男爵領に屋敷を構えている。
エオリア自身そこへは訪れたことがないのだが、自然豊かなのんびりとした片田舎なのだと夫から聞いていた。
「でしたら、わたしもご一緒しますわ」
「いや、奥様は少し休まれた方がよろしいのでは?」
「夫の両親とは結婚式以来いちどもお会いしておりませんもの。この機会にご挨拶に伺っておきたいのです」
エオリアの意志の固そうな瞳をしばし見つめてから子爵は条件を出した。
「では、朝食をとってから出発しましょう。馬車の中で仮眠をとることが条件です」
仮眠、と言われても、きっと眠れないだろうと思っていたエオリアだったが、馬車の程よい揺れと車内の暖かさのせいで、同乗した侍女と一緒にいつのまにか熟睡していた。
目が覚めた時には、馬車は夫の実家に横付けにされていた。馬車の窓から外の様子を伺っていると、屋敷の入り口から子爵が駆けてくるのが見えた。
「起こしてくだされば良かったのに…」
エオリアが眉を下げて抗議をすると、子爵が手を差し出した。
「申し訳ありません。よく眠られていたので」
「帰りはあなたが眠ってくださいね?」
まだ眠ったまま起きない侍女は馬車に残し、ふたりは男爵邸に入った。
エオリアが夫の実家に訪れるのは、これが初めてだった。
田舎風の邸宅に、古めかしい家具や調度品がピカピカに磨かれて配置されている。広くはないが清潔感のある居心地の良い家で好感が持てた。
前触れ無しの突然の訪問にも義理の両親は快くもてなしてくれた。
「ようこそおいで下さいました。結婚式以来でございますか」
夫の20年後を思わせる壮年の男性が、嬉しそうにエオリアを迎えてくれる。義父と会うのはこれで二度目。
「お加減が悪いと息子から聞いておりましたが、まだ少しお顔の色がすぐれないようですね……お飲み物は紅茶でよろしいですか?」
義母が気遣わしげに話しかけてくる。
「ええ、お願いしますわ…」
話の意味がわからず、チラリと子爵の顔を見る。
子爵はエオリアに笑顔を向け事情を説明した。
「局長は、昨日の昼頃ここに着いたそうですよ。その時、奥様の体調のことを話していかれたようです」
「………」
子爵は男爵夫妻に顔を向けそのまま話を続ける。
「奥様はこの通りお元気になられました。僕もちょうど仕事が片付いたので、僕たちは局長よりも1日遅れで王都を出発したという訳です」
それを聞いた夫人が納得したように頷きニコニコしている。
「隣国のソルマ山に別荘を建てたのですってね。羨ましいわって話していたら、夫婦水入らずの邪魔をするなと息子に叱られましたのよ。スークレイ様もご一緒なら、私たちも連れて行ってくれてもよかったのにねえ」
そんな夫人の話に男爵が嗜めるように割り込んだ。
「スークレイ卿が同行するのは、仕事も兼ねているからだろう?ソルマ山の魔物の生態調査もあると、確か言っておったぞ」
「あら、でも一か月も休暇をもらったのでしょう?それなら仕事ばかりという訳ではないはずよ。普段からあの子は仕事漬けな生活なんですから、たまには息抜きも必要ですわよね?エオリアさん」
エオリアにとって、初めて聞く話ばかりだった。寝耳に水とはこのことだ。彼女は固い笑顔を作るので精一杯だった。
興にのった義母は、魔法局で出世して伯爵位を賜った息子の自慢話や、息子の幼少期の魔力量の多さに驚いた話など昔話に花を咲かせた。
エオリアはそれを上の空で聞くしかなかった。
「ところで、僕たちも出来るだけ早く局長と合流したいのですが、ソルマ山へのルートなどはお聞きになっていませんか?」
スークレイ子爵が自然な調子で話題を戻すと、夫人が照れたように口元を手で押さえた。
「あら、お喋りが長くなってしまいましたね!ふふ…あなた聞いてます?」
「いや、特には聞いていないなあ」
「…そうですか、局長の性格だと無駄のない最短ルートを選ぶでしょうね。僕たちもそろそろ出発しないといけないな」
子爵の合図を機に、ふたりは男爵邸をお暇することになった。
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