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「遅かったじゃないか」
久しぶりに見る夫は陽に焼けて、以前よりも精悍な顔つきになっていた。
いつも丁寧に後ろでまとめていた焦茶色の髪は、自然に任せて無造作に流している。無精髭も粗野な男らしさをより強調していた。
夫は見たことのない衣服を身につけて、この場の雰囲気にとてもよく馴染んでいた。
「ここは冒険者ギルドだよ」
子爵が教えてくれた。
王都から遠く遠く離れた砂漠の国のダンジョン。
そこで生計を立てている人々が集う場所だと教えてくれた。
「相変わらずエオリアはかわいいな。フードを着けていても丸わかりだ。みんなが見ているぞ」
夫からそんな砕けた調子で褒められたことなど一度もなかったエオリアは、驚きでひと言も発せないでいた。
「お前も目立っているぞ、ジェイド…さっきから女どもがワアワアうるさい。場所を変えようか」
ギルドの受付に向かって歩く夫の背中。
受付の女性と大声をあげて笑いながら会話をする夫。
笑顔の余韻を残したまま振り返った顔が、初めて見る知らない人にみえた。
「お前なら一週間もすれば訪ねて来ると思っていたがな」
冒険者ギルドの談話室。
ここには防音の魔法がかけられているそうだ。
「ええ、そうですね。翌日には特定していましたよ」
「ハハッそうか!流石だな」
夫が白い歯をみせてニッと笑う。
「だからといってすぐには動けませんよ。今のあなたと違って自由は効かないんです」
かつての上司に向かってサラリと嫌味を言う子爵の表情は全く読めない。
「それで?離縁のサインなら書くぞ?王都に連れ戻すと言われても俺は全力で拒否するがな」
悪びれるでもなくニヤリと笑う夫の顔。この顔も初めて見る。恐らくこれが彼の素なのだとエオリアは思った。
「サインは要りませんよ。本国ではあなたを死亡扱いとすることに決定しました」
「へえ、そうなのか、それはありがたい。で?エオリアはどうするんだ?」
初めてエオリアの処遇に言及した夫だったが、それは心配や後めたさというよりは単なる好奇心、といった聞き方だった。
「わたしは城に戻りますわ。メルリウス伯爵家は取り潰しになります」
「そうか、やっと自由になれるのだな」
「いいえ、わたしに自由などありませんもの。またどこかの有力なお家の方との縁組があるのではないでしょうか?」
エオリアは小首を傾げながら淡々と告げる。
「大変だな。俺はやっと自由になれたというのに」
口角を上げ嬉しそうに笑う夫。
そんな彼を見てエオリアも少し笑った。
これまでの苦労は一体何だったのか…泣いたり悩んだり。何日も眠れない夜を過ごした。それを思うと目の前の男の清々しさは一体何だろう?逆に可笑しくなって来た。
「今日は、旦那さまにお礼を申し上げに参りました」
「礼?」
「はい旦那さま。2年間本当にありがとうございました。長き人生に於いて短い期間ではありましたが、エオリアは幸せでした」
エオリアはこころからの笑顔を夫に向けた。
「………」
呆気に取られたような表情の夫に、エオリアはさらに笑みを深める。
「さようなら。どうかお元気でお過ごしくださいませ」
椅子から立ち上がり、最後に完璧なカーテシーで夫に別れを告げた。
初めから最後まで、ついに夫からは謝罪らしき言葉を得られなかったが、エオリアは全てを理解していた。
夫自身が、自分こそが被害者だと思っているのだから、謝罪などある訳がないのだ。
だから、エオリアは礼を言うことにしたのだ。
おそらく今回の失踪劇も白い結婚も。
国、ひいては王家に対する彼なりの反発だったのではないかと思う。
もともと彼は爵位の低い男爵家の嫡男で、大自然に囲まれた片田舎育ちだ。そんな彼が、たまたま魔法の才があったというだけで王女を娶るまでに出世し、重役にまで登り詰めた。
野心のない人だからこそ平民の女性を愛したのではないか。
それを思うと、家族の期待、爵位や役職、王女との結婚…諸々の全てが彼の重荷にしかならない。
『俺はやっと自由になれた』
貴族としてあるまじきその言葉に、少し羨ましくもなるエオリアだった。
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