トリソミー或いは3(影山飛鳥シリーズ09)

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第6章 「あれ、修人白髪だよ」  美喜がそう言いながら僕の髪を手で分けながらその白髪を抜いた。 「いて!」  白髪は抜くと増えるとよく聞く。 「抜いたら増えちゃうんじゃない?」 「そんなの迷信だよ」  僕は他にも白髪が生えていないかが気になってバスルームへ行って鏡を覗いてみた。鏡の前に立って自分の髪を改めて見ると、元々茶色の髪がところどころ黒くなっている。これは先日就職の為の面接に備えて美喜に髪を染めてもらったからだ。地が茶色だから仕方がないのだが、面接の度に髪の色の話をされることが気になって、それで黒く染めたのだった。でも髪が伸びるのが速いせいか、もう黒と茶のモザイクになっている。 「エッチな人って髪が伸びるのが速いんだよね」  気が付くと後ろに美喜が立っていて、鏡を覗き込んでいる僕を見て笑っていた。 「これで白髪が混ざったら三毛猫じゃん」 「え?」 「三毛猫って白と黒と茶の毛が混ざっているでしょ?」 「ああ」 「だから修人が三毛猫みたいだって言ったの」 「そうか三毛猫か」  僕はよくわからないけど笑った。 「でも、三毛猫ってオスがほとんどいなかったんじゃない?」 「どうして?」 「わかんない。でも何かでそう読んだことがあるよ」  美喜は何でもよく知っていた。 「じゃあ僕は希少種かい?」 「うれしい?」  別に僕は嬉しくなかった。 「全然」 「三毛猫くん」  するとそう言って急に美喜が後ろから抱き付いて来た。 「猫じゃないよ」 「だって三毛猫じゃん」  そう言って美喜が頬を摺り寄せて来た。 「猫って可愛いからもてるよ」  僕はもしもてたとしても猫になりたいとは思わなかった。 「ニャーニャー言ってればご飯だってもらえるよ」  美喜はそう言って体を強く押し付けてきた。 「就職なんてしなくていいし」  僕はたまらず体を反転して美喜に抱きついた。しかし、その美喜とも就職が決まる前に別れてしまった。 「修人って何か女々しいのよね」  それが美喜の最後の言葉だった。僕が彼女に反論しようとすると、その言い訳が女々しくって嫌だと追い打ちを受けた。じゃあどうしたらいいんだと言うと、そういう人任せなところが女々しいと言われた。 「私ね、もっと声の低い人がいいの。地から響くようなあの声を聞くと体がゾクゾクってするの」 「あの声って誰の声だよ?」 「ほら、そういうところが何か細かいというか女々しいと言うか」  僕を馬鹿にしたような目をして美喜がそう言った。 「誰か気になる男でも出来たの?」 「例えばの話よ。単なる例え」  僕は自分の声が特に高いと思ったことはなかったが、美喜が震えるほど低い響きを持っていないことは確かだった。 「ラグビーとか格闘技とか、そんなスポーツをやってるたくましい人がいいなあ」  一緒にテレビでスポーツ観戦をしていた時に、美喜がよくこのセリフを言った。その時は特に気にはしなかったけど、今となってはそういうことかと思った。 「修人、もっと体鍛えなよ」  何かの時に美喜にそう言われてスポーツジムに通ったことがあった。でも、筋トレじゃなくて走る方にばかり興味が湧いてしまって、どちらかと言えば、か細いスタイルになってしまった。そのことが美喜の趣味から僕が大きくずれて行ってしまった要因だった。 「私より色白じゃない?」  これは美喜が本当に羨ましがっていた。日に当たらなかったというわけではないが、日に焼けてもすぐに赤くなって、黒くなる前に元の色白の肌に戻った。 「母親が白かったから」 「そうなんだ」  美喜はよく無駄毛の処理をしていた。僕は知らない振りをしていたが、僕よりも遥かに毛深かった。毛深い女は情が厚いというので、僕は寧ろそれがいいことだと思っていたが、彼女はそれを気にしていたのだろうと思う。それに比べて僕はほとんど体毛がなかった。あるべきところには申し訳程度には生えていたが、過剰なものは一切なかった。それから一時髭を伸ばそうと頑張った時もあったが、いつまでも産毛みたいなものしか生えて来なくて諦めたことがあった。 「どうして足もそんなにきれいなの?」  それは美喜の脛と比べてもさほど変わりはなかった。しかし、彼女は無駄毛処理をしている。僕は全くの天然の足だった。髪の毛は細くはあったが、量は同年代と比べても有り余るほどあった。同窓会に行った時に同級生が髪の悩みでその手のカウンセリングを受けていることを知ったことがあった。その同窓会の二次会でカラオケに行った時に、当時みんなの憧れで卒業式の日には何人からも告白されたという麻子さんがしわがれ声になっているのを知ってとてもショックを受けた。 「酒の飲みすぎかな?」  同級生の誰かが小声で話していたが、卒業後の彼女を知らないので僕は黙っていた。カラオケの順番が回って来たので仕方なく僕もみんなの前で歌った。美喜にはカラオケに無理に連れて行かれたことがあって、嫌々ながらも自分の十八番があった。 「お前、めちゃめちゃキーが高くない?」  僕は美喜の好みだったロックバンドの曲を得意としていたのだが、同級生の女の子よりずっとキーが高いと言われた。 「ロックバンドやったら?」  どこかでそんな声がした。 「声が高ければロックバンドをやれるの?」  それもどこからかした。 「さあ」  最初にその話を振った本人がそう言った。 「でもそんな高い声が出るなんて希少種じゃん」 「確かに希少種だな」  希少種が良いことなのかと思った。でも酒が入っている席での話など本気で言ってるとは思えないし、なんとなく馬鹿にされた気がした。 「修人は就職決まった?」  結局その後はその話になって、まさかロックバンドで食って行きますなんて言えるはずもなくそこは真面目に答えることにした。 「俺、三つ受けて三つともだめだったよ」 「三つなんてまだまだじゃん」  同級生のその話に、僕は数が多ければいいってわけでもないと言いたかった。 「で、修人はどうすんの?」 「どうするって?」 「これから先どうすんの?」  ロックバンドでもやるかと言おうとしたけど、つまらない洒落だと言われそうなので、まだこれからだと答えた。 「何だ。これからか」  すると未だに1つも内定をもらえていないくせに、面接のいろはを教えてやると急に僕を取り囲んで上から目線での説教が始まった。それは正直うざったかったが仕方なく聞き役に徹した。  僕は就職を機にそれまでの関係を一掃した。過去を忘れ去りたかった。特に深刻な理由はなかったが、それまでの僕に対する周りの評価が僕自身の下すものとは大きくかけ離れているように感じていた。だからそれまでの自分を知っている人とはいつか手を切りたいと思っていた。それがダメもとで受けた会社にどういうまぐれか受かってしまったことで、これが過去のしがらみから解放されるチャンスだと思ったのだった。それで僕は住所を変え、それまでの知り合いが連絡を出来ないようにとスマートフォンの番号をはじめ、メールアドレスなど、僕の情報の全てを刷新してしまったのだった。僕はこれでやっと自由になれたと思った。これでやっと心の安らぎを得られると思ったのだった。  それから時が流れた。僕は新しい自分を得るのと同時に、本来の自分を取り戻すことも出来た。そして入社して1年が経った頃だった。同じ会社のある女性と仲良くなった。それは何かの打ち上げがきっかけだったと思う。彼女は他の同僚とは違って僕の過去を詮索することをしなかった。僕が学生時代どんなことをしていたのかとか、趣味は何だとか、そういうことを一切聞くことをしなかった。しかし彼女も自分のことを一切話さなかった。勿論僕も他人の過去には関心がなかった。それは他人のことを聞けば自分の過去を話さなくてはいけなくなるからということもあった。しかしそれとは別に僕は就職を起点としてゼロからの出発をしたかったのだ。だから過去を引きずらない人とこそ、未来に向けて一緒に進むことが出来ると思ったのだった。それでも何故彼女は僕の過去を聞かないのだろうか。そう思うことはあった。きっと忘れたい過去があったのだろうと思った。それは例えば離婚歴だとか、親からの虐待だとかかもしれない。それはわからなかった。彼女は決してそのことを話そうとはしなかった。だから僕も決してそれを聞こうとはしなかったからだ。  彼女とは半年ほど付き合って結婚することになった。その時一瞬影山に連絡をして、彼を式に呼ぼうかと思った。影山とは幼馴染だった。小学校からずっと一緒だった。それに彼は他の友達とは違って僕を偏見じみた目で見ることをしなかった。それで大学で初めて別々になった時も渋谷のライブハウスで一緒に歌を歌っていたことがあった。僕はそのことを決して忘れることが出来なかった。何故ならそれは僕が僕らしくいられた時だったからだ。だからどうしてもそれを消去することが出来なかった。いや、寧ろ消し去ってはいけない記憶だと思っていたからだった。しかし僕はあの日を境に過去への決別を誓ったのだった。だからそのことに例外を設けることはやはり出来なかった。それで僕はやっぱり影山に結婚の連絡をすることをしなかった。僕と彼女は就職以降知り合った知人だけに祝福されて結ばれたのだった。それは職場の同僚と取引関係の知り合いだけだった。 「あなた、過去を断ち切ったんだと言いながら影山さんのことは話をするのね」  それはいつだったか彼女と二人で外苑を散策した日のことだった。天気が良い休日だった。彼女は妙に機嫌が良くて、僕もそれにつられて何か気持ちが高揚していた。それで迂闊にも過去の話をしないという不文律を僕は知らず知らずのうちに破ってしまっていた。 「あ、そうだね。ごめん」 「別に謝らなくてもいいのよ。あなたが話したかったら話せばいいことだし」 「話したいわけじゃないよ」 「そうなの? でもあなた、嬉しそうに影山さんのことを話してたわよ」 「そっか。確かに影山は特別だからな」 「影山さんは特別な人なの?」 「うん。古い知り合いだから過去の一つには違いないけど、なんて言うかな。過去という集合の一要素であって、同時に現在という集合の要素でもあるというのかな」 「何それ。よくわからないけど」 「ごめん。そうだよな。わからないよな」  それがある日、社用で駒込に寄った時だった。無意識に歩いていた先にあのライブハウスがあった。そこは過去の一部だったはずだが何かに憑依されたように僕はその階段を下っていた。そして懐かしい気持ちに心を躍らせながらその店の中へと入って行ってしまったのだった。  その時、ステージでは若い女性が歌を歌っていた。それは妙に哀しい歌だった。僕はその歌声を一瞬聴いただけでその歌に惹かれてしまっていた。 「今の子、なんていうの?」  彼女がステージからいなくなると僕はバーテンダーにそう尋ねていた。 「加奈ちゃんのことかい?」 「加奈っていうんだ」 「この前突然現れてね。いきなり歌わせて欲しいって言い出したんだよ。いい歌歌うだろ?」 「うん」 「何か物悲しくってさ。あの子、あんなに若いのに、きっと辛い人生を送って来たんだろうね」  僕はそう言われて、その加奈という子に惹かれた理由が突然見えて来たのだった。それはその子も必死になって自分の過去を忘れ去ろうとしているのではないかということだった。その過去への決別が僕と同じ波動を感じさせたのだった。それで僕はその子に急速に興味が湧いたのだった。 「あの子、紹介してくれないかな」 「知り合ってどうするんだい?」 「どうもしないさ」 「あの子、男女の恋に興味がないからね。仲良くしようとしても無駄だよ」 「そんなんじゃないさ、僕ね、昔ここで歌を歌っていたんだよ」 「あんたがここで歌を?」 「学生時代にギター弾きと一緒にだけどね」 「そうだったんだ」 「だからあの子と1曲歌ってみたいなと思ったんだよ。だめかな?」 「一応店長に話してみるよ。あんたが本当にここで歌っていたのなら店長ならあんたのことを覚えているかもしれないしね」  僕と加奈の付き合いはこうして始まった。店長は僕の歌ではなく影山のギターを覚えていた。僕のことはそのついでに思い出してくれた。それで店長が加奈と引き合わせてくれて二人でスタンダードのジャズを一曲歌った。 「藤本さんが良ければここで毎週加奈と歌ってみないかい?」  ステージから下りるとそう店長から声を掛けられた。 「加奈も是非藤本さんと一緒に歌いたいって言っているんだよ」  その言葉は意外だった。まさか彼女からそういう話が出るとは思っていなかったからだ。しかしそう言われた直後僕はあることに気が付いたのだった。それは僕たち二人は捨てたくてもどうしても捨て切れない過去を持つ者同士ではないかということだった。 第7章  それは会社の健康診断がきっかけだった。要精密検査の判定に自宅近くの大学病院に行くとMRIや血液検査などの結果、すい臓ガンだと判定された。 「あ、そうですか」 しかしそう医者に宣告された瞬間、僕の口から出た言葉はそんな一言だった。と言うのも僕はそれほどの衝撃を受けていなかったからだ。全くショックを受けなかったと言えば嘘だったが、目の前が真っ暗になるほどの深刻な心境に陥ることはなかった。 実は父の家系は代々短命だった。母は80まで生きたが、父は50になる前に他界した。父は生前、自分の家系は何か遺伝的な病気を抱えているのではないかという話を僕にした。それで戸籍を蒐集して家系図のようなものまで作っていた。それを見ると父の兄弟はみんな50代で亡くなっていた。父の父もやはり60少し手前の寿命だった。 「僕のガンは遺伝的なものなのでしょうか?」 「ガンが遺伝するという意味ですか?」 「いいえ、父の家系が遺伝病で代々短命だったので、僕もそうなのかと思いまして」 「その遺伝病とはどんな病気ですか?」 「そういう家系だと父から聞いたことがあるのですが病名までは聞いていません」 「心配でしたら染色体検査でもしてみますか?」 「その検査は簡単に出来ますか?」 「血液検査で出来ますが」 「ではお願いします」  検査結果、僕はクラインフェルター症候群だということが判明した。しかしこの病気は再発危険率が少ない疾患だということで親から子に当然受け継がれるものではないらしい。もしそれが体外受精や顕微授精などをして子供を授かったのであれば、そこには遺伝の可能性が高いらしいのだが、自然妊娠で出来た子どもであれば遺伝の可能性は極めて少ないというのがその医者の話だった。そしてこの病気が短命かどうかということは、性腺機能低下症の為、内臓機能の低下が急速に起こり、非常に疲れやすくなったり、骨密度の低下によって車椅子や寝たきりになったり、重い更年期障害、膠原病などを患って正常な人よりも遥かに老化が速く進んで短命に終わるということはあるらしい。ガンも老化の一種だと考えればそれもこの病気の一環なのかもしれないと思った。 「それからこれも大事なことなのでお伝えしなければいけないのですが、この病気の方は不妊になる可能性が極めて高いということです。結婚はされていますか?」 「はい」 「お子さんは?」 「いません。出来ませんでした」 「小さい時気管支関連の病気とか心臓の病気を患ったことはありませんか?」 (過去の話か) 「幼い頃気管支が弱くて空気のきれいなところに引っ越しました。まだ幼稚園に入る前の話です。それから幼稚園に入園する際の検診で心臓弁膜症だと診断されました。それは誤診だったようですが」 「そうですか」 「そのことがその何とかという病気と関係するのですか?」 「そうなのですが、あなたの場合、血液検査からはそうだと出ていますので参考までにお伺いしただけです」 「そうですか。それで肝心の話ですが僕の命は後どれくらいなのでしょうか?」 「このまま放置すれば10か月くらいでしょうか。現在2センチくらいの大きさになっていますから」 「2センチですか。それが大きいのか小さいのかわかりませんが、会社では毎年超音波検査をしていました。去年はすい臓に何もなかったのに、いきなり1年でそんな大きさになってしまうんですか?」 「すい臓ガンは発見が困難なんです。ですから見つかった時はこれくらいの大きさのことがあるんです」  僕のカウントダウンがその時始まった。そしてその残された時間をどう使うかそれだけを考えることにした。延命治療はしないことにした。父も父の兄弟もそれを行ったばかりにその最期は本当に辛そうだった。病院のベッドに縛り付けられて、したいことも出来ずに日々病気と闘っていた。だから僕は出来る限り最後の最後まで自由でいたかったのだ。 「私、あなたが逝ってしまったら本当に一人になってしまう」  病院での結果を妻に伝えると彼女は僕にそう言った。 「ずっと一人だったのだから君にはきっとそれに耐えられるよ」  僕は申し訳ないという気持ちとそれから妻を元気づけたいという思いからそう妻に言った。 「でも今は二人だから。ううん、あなたと出逢って二人で一人だから。だからあなたを失ってしまったら半身になってしまうでしょう。そうなったら生きていけないもの」  妻の言葉は意外だった。 「あなたの過去はどうでもいいの。そして今あなたが誰とどう関わっているのかも興味がないの。今の私との関係だけが大切なの」 「それは僕も同じさ」 「それから私との未来もとっても大事なことだったの。今という時間が分け目なく連続してつながって行く未来が私にはとても大切なことだったの」 「それだって僕も同じさ」 「違うよ。だってあなたは私を置いて行ってしまうのよ」 「そのことは僕も心配している」 「あなたが逝ってしまって、私がここに一人取り残されることに私は耐えられない。あなたもそんなことが耐えられる?」  僕はまさか妻が一緒に死にたいと言い出すのではないかと思った。 「だから私はあなたの子供が欲しいの。あなたがいなくなった後、私の失った半身を補うものが欲しいの」  僕は愕然とした。それは僕が不妊だったからだ。そしてそのことは検査をするまでもなく今まで夫婦生活を続けていて、それで子供が出来なかったという事実がそれを物語っていた。 「でも僕たちに子供は出来なかったよね」 (だから今後も出来ない可能性が高いよね)  僕は自分の遺伝病を明かして不妊の事実を告げることを避けた。 「うん。わかってる。だから私不妊治療を受けてもいいと思ってるの」 「え?」 「ごめんなさい。ずっと黙っていて。私ずっと黙っていたけど若い時に子供を堕ろしているの。それで子宮内膜の厚みがなくなってしまっているって言われたの。だから子供が出来ないの。でもきっと治療をすれば子供を産めるようになると思うの。だからお願い」  僕はそれでも僕らに子供を作ることは出来ないのだと言いたかった。しかし自分の夫を亡くす悲しみにも加えて子供も残すことが出来ないということをこの時妻に告げることはとても出来なかった。   僕は余命を宣告されてもライブハウスでのステージを止めなかった。いや、寧ろそれに没頭して行くようになって行った。それは一種の現実逃避かと思った。あのライブハウスで加奈の歌を聴いていると僕は今自分が抱えている悲しみや苦しみを全て忘れることが出来た。それはまるで加奈の辛い過去に比べたら僕の抱えていることなんて大したことではないと言われているようだったからだ。 「君はどんな過去を背負っているんだ?」  僕は加奈の横でギターを弾きながら、彼女の横顔に時々そう問い掛けていた。しかし過去は今まさにこの瞬間から次々と積み重なって行く。そして過去の辛い思い出もその中に埋もれて行ってしまうのだ。だから前に進める。生きて行ける。加奈の横顔を見ているといつしかその問いはそんな答えに至ってしまうのだった。  僕と加奈はステージだけの関係だった。それ以上でもなければそれ以下でもなかった。だからステージを下りると二人で客席に呼ばれることがあってもそこでは他人のような振る舞いだった。店長はそれが二人のフェイクだと勘ぐって僕たちが恋人同士だと思っていたようだった。ライブハウスでしか会わない店長、加奈、そしてステージから下りてしまえば最早どこですれ違おうとも僕の顔を識別することが出来ない客の前では、それを敢えて否定することは無意味に思えた。 では僕と加奈はどういう関係だったのか。恋人でもなければ友達でもない関係。知り合いではあるがそれぞれのことを知っているわけではない。遠くもなく、近くもない関係。もし次のステージで彼女が来なければそれで終わってしまうような関係。でもだからこそ僕は彼女に何か不思議な親密感を抱いたのだった。彼女にならどんなことでも話せる。そう思ったのだった。 「加奈はいつまでこうやってここで歌うつもりなんだい?」  それは楽屋で唐突に僕から投げ掛けた言葉だった。そして案の定彼女はそれに無反応だった。 「いつまでかしら」 「全てのことには終わりがあるわけだしね」 「それって私たちのコンビを解消したいっていうことですか?」 「そういう意味じゃないよ。でも加奈は何を目指してここで歌っているのかなって」 「私は何かを目指してここで歌っているんじゃありません」 「じゃあ何のために?」 「わかりません」 「わからない?」 「はい。何のために歌うのか、それはわかりません。でも強いて言うなら魂を鎮めるためかな」 「それって鎮魂歌を歌っているという意味?」 「はい」 「誰の?」 「うーん。誰でしょう。私のかしら」  僕は彼女とそんなに長く会話をしたのは初めてだった。そして彼女は死者の霊を慰めるために歌っていると言った。その死者とは誰のことか。まさか彼女のことではないだろう。どんなに辛い過去があったとしても今彼女は生きている。彼女自身が自分を死んでいると思っていたとしても歌を歌っている瞬間の彼女は確かに生きていた。そうだとすればその死者とはきっと彼女の大事な人のことなのだろうと思った。しかしそれが誰かと聞いても過去のことを彼女が話すわけがなかった。 「藤本さんはどうしてステージに立っているんですか?」  僕が話すのを止めて、一人で考え事を始めてしまったので、今度は彼女から僕に質問をして来た。 「どうしてだろう。改めてそう聞かれると返答に困るね」 「いつまでステージに立とうとか期限を決めているのですか?」 「それはなんとなくだけど」 「じゃあ決めているんですね」 「うん」 「それはいつまでですか?」 「命尽きるまで、なんちゃって」  そう僕が言った瞬間、冷たい空気が二人の間に流れた。 「ごめん。詰まらない冗談だったね」 「いいえ、なんとなくある人のことを思い出してしまって」 「ある人?」 「はい。もう終わってしまった過去の人のことですが」 「その人は加奈の大事な人だったのかな?」 「藤本さんがさっきその人にふと似てるなって思ったんです」 「僕がその人に?」 「ええ」 「その人って」 「私の父です」 「お父さん?」 「はい。 私の父は裕福な家の長男でした。祖父から事業を継いで、その会社を更に大きくして贅沢な暮らしをしていました」 「じゃあ加奈はいいとこのお嬢さんだったんだ」 「父には弟が一人いました。叔父は祖父や父とは反りが合わなかったようです。それで祖父が生前に祖父から相続の前渡しだと言って大金をもらって事業を始めたようでしたがそれがうまく行かず倒産してしまったのです。父がそんな叔父を不憫に思い自分の会社に引き入れたようですが父の弟だということでよく働きもせず社内での評判はすこぶる悪かったようです。父はそんな叔父をいつも陰でかばっていたようでした」  加奈はまるで一人芝居を始めたように自分の父の話を始めた。まるで堰を切ったような言葉の勢いに僕は黙って彼女の話に耳を傾けた。 「ところがその父が病に倒れました。病名はガンでした。ガンと言っても余命を宣告されるような深刻なところまでは進行していなかったので、少し入院して療養すればまた仕事に復帰できると誰もが思っていたようでした。ところがその父が入院してからわずか3か月で他界しました。母は父のあまりの突然の死にそれから心の病になってしまったのです」 「そんなことがあったんだね」 「私は当時8歳でした。ですからその辺りの事情がまるでわかりませんでした。父の死がどれほどのものなのか、ただ母の泣き崩れる姿を見て自分も大泣きしたことは記憶にあります。その時、妹の美奈は生まれたばかりでした。妹こそ、その時の状況はまるで理解出来なかったことだと思います」 (妹さんがいるんだ) 「やがて母の心の病気が酷くなって行きました。それは叔父に勧められて心療内科に通い出してからです。そこで処方された精神病の薬が母の人格を日に日に削って行きました。やがて母は薬の依存症になり、そして遂には精神病院に入退院を繰り返し、自殺という結末で私と妹の前から姿を消しました。父が他界してからわずか10か月後のことです」 (ご両親とも亡くなられたんだ) 「それから私と妹は叔父夫婦の養子になりました。その頃の記憶がある私は別として妹は自分が本当に彼らの子供だと信じて疑わなかったようです。私は彼らになかなか馴染めませんでした。彼らは父の遺した家と会社を引き継ぎ、私たち二人をもその手中に収めました。そしてあたかも初めから私たちの親だったように振る舞い、会社では社長として権勢を振るったのでした。そんな叔父に私は反発しました。それで私は叔父から嫌われました。その分妹は叔父に可愛がられました。私は何も知らない妹がそういう形でも幸せならそれでいいと思っていました」 「・・・・・・」 「それは私が高校3年生の時でした。就職をするのか大学へ進むのかを迷っていた時でした。叔父は叔父の会社に勤めてもいいし、地元の大学に進むならお金を出してやってもいいと言いました。しかし、その会社は元はと言えば父のものだったわけですし、お金だって私が父から譲られた遺産の一部だったわけです。私は就職をするにしても、大学に進学するにしてもその家を出たいと考えていました。東京に出て、一人暮らしをしたいと思っていたのです。それでそのことを叔父に言うと勝手にしろ、但し面倒は一切見ないからなと言われました」  彼女のおしゃべりは留まることがなかった。まるでその場に誰もいないかのように淡々とした口調で語っていた。それで僕はただ彼女の瞳を見つめるだけで、相槌を打ったり、質問を交えたりすることを止めた。 「私は卒業後に東京の化粧品会社に就職することが決まりました。叔父の仕送りがなければ大学への進学は無理だったからです。でも私の心は晴れやかでした。これでやっと叔父から解放されると思ったからです。そんな時でした。祖父が社長をしている時からずっとその会社で働いている広田さんが私を訪ねて来て是非話しておきたいと言ったのです。私は何事かと思って呼び出された駅前の喫茶店に行きました。広田さんは約束の時間に少し遅れて現れました。やって来た広田さんは周りを見回した後に手短にと言ってこんな話をしてくれたのです。それは父が入院した時の話でした。 『先代の社長、つまりあなたのお父さんは今の社長に殺されたのです』 『え?』 『あなたはまだ小さかったから知らなかったでしょうが、それほど病気が深刻な状況でもなかった社長があんなに急に逝ってしまうなんてあり得ない話だったのです』 『父の病気の進行がとても速かったと聞いていますが』 『真相はそうではないのです』 『どういうことですか?』 『社長は当時背中の痛みを訴えていました。それでCTをとってみるとどうやら骨に転移しているようだったのです。それでもあんなにすぐに逝ってしまうことなんてないのです。でも痛みがあって、その痛みの部位がご自分でもわかってしまうと、そこが急に気になり出して、却って痛みが増すということがあるじゃないですか。それなんですよ。それで奥様や周囲の人にそのことを訴え出したのです。そうしたら今の社長が痛み止めを勧めたのです。そしてそれを医者にも指示をしたのです。痛み止めって麻薬じゃないですか。脳がどんどんやられてしまうんですよ。社長の病気はそんなところまで進んではいなかったんですよ。あんなのは放射線をあてれば治ってしまうレベルだったのです。それを今の社長があなたのお父さんを薬漬けにしてしまったのです。それからは速かった。本当に速かった』  私は広田さんのその話を聞いて言葉もありませんでした。 『私が1か月をおいてお見舞いに行った時は本当にびっくりしました。1か月前には冗談を言い合って別れたのに、その時は社長の顔からは死相がはっきりと浮かび上がっていたからです。そしてそれから数日して社長は帰らぬ人になってしまったのです』  広田さんはそこまで一気に話をするとそこでしゃべるのを止めました。私がどうしたのだろうと広田さんの顔を覗き込むと彼は泣いていました。 『みっともない姿を見せてしまって申し訳ないです。でも悔しくてね。今でも社長の声が聞こえるんですよ。広田さん、来月には絶対復帰しますからまた力を貸してください。お願いしますねと言った社長の声が・・・・・・』  広田さんが二人分のコーヒー代をテーブルに置いてそこから立ち去ると、私はその場に暫く居残って、そして東京行きの決心を新たにしました。父の財産を奪おうと言う動機が初めから叔父にあったのかどうかはわかりませんでした。しかし直接手を下してはいないものの、叔父の判断で父はその死期を早められたのです。そして母にしてもその父の死のショックから心の病になり、その後自殺をしてしまいました。それも直接叔父は手を下してはいませんが、母に心療内科の受診を勧め、薬漬けにしたのは叔父だったわけです。その結果として叔父は私の両親の全てを手中に収めることが出来たのです。だから私はその叔父から逃れたかったのです。父とそして母の大事な宝だった妹を一人残して行くのは私の唯一の心残りでしたが仕方がありませんでした」 「そんなことが君にはあったんだね」  僕は加奈の話がひと段落したと思ってそこで一言だけ言葉を発した。しかし彼女の話はそこで終わりではなかった。 「叔父が入院したと連絡がありました。叔母からでした。どうしても叔父が私に会いたいと言うのです。私は叔父が生死をさまよう状態になっても今更会う気など全くありませんでした。でもその時ふと思ったのです。これは叔父に復讐をする絶好の機会なのではないかと。それで私は叔父が入院した病院に行くことにしたのです。叔父の病室は個室だと聞いていました。病室の入口に掲げられた名前を見ると、そこには叔父一人の名前がありました。私は静かにその引き戸を開けて中に入りました。するとそこには随分やせ細って衰弱した叔父が横たわっていました。正直私はそのあまりに変わり果てた姿を見て驚きました。これがあのふてぶてしく私の前にいつも立ちはだかっていた叔父かと思いました。叔父には人工呼吸器がつながれていました。そして浅く速く呼吸する音が規則正しく私の耳に聞こえて来ました。 『おじさん・・・・・・』  私は一応声を掛けてみましたが、叔父はピクリともせず熟睡していました。きっと薬で眠らされているのだろう思いました。父を薬漬けにした叔父が今同じように私の目の前で薬漬けになっていたのです。 (今この呼吸器を外せば叔父は死んでしまう)  その時私はそんなことを考えていました。そしてそうすることで父や母の供養がやっと出来るとも思ったのです。しかしその一方でそんなことをしなくても叔父の命が長くはないことは明らかでした。私の手で叔父を逝かせるのか、或いはこのまま放置して叔父の命が尽きるのを待つのか、それは自分が叔父を殺したという実感を持てるかどうかの違いに過ぎないのだと思いました。それで結局私はその呼吸器を外すことをしなかったのです。しなかったのか、出来なかったのかわかりませんが、私はそれをしませんでした。私はそのまま病室を出ると病院の前で客待ちをしていたタクシーに乗り込んで再び東京に戻ったのです」  僕は彼女の歌う歌が哀しいわけをその時ようやく知ったのだった。
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