トリソミー或いは3(影山飛鳥シリーズ09)

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第16章 「その子を返して!」 加奈はいきなり部屋に入って来たその女の一言でそれが誰なのかわかった。 「その子を返して!」  その女の右手には包丁が固く握られていて鬼気迫るものがあった。それで加奈は先ずは詫びの言葉を述べようと思ったのだった。 「ごめんなさい。私もこの子を奥さんに引き渡そうとしたんです。でもこの子は私がお腹を痛めて生んだ子なんです」 「いいえ、その子があんたのお腹に命を宿した瞬間からそれは既にあんたの子じゃないのよ。だってあんたは代理母でしょ。彼の妻である私に代わってその子を産んだだけなんだから」 「それはわかっています。だから養子でもどんな形でも、とにかくこの子をあなたに渡したかったんです」 「じゃあなんでとっととその子を渡さなかったの?」 「それが出来たらこんなに苦しむことはなかったんです」 「それは彼の子だから?」 「私の子だからです」 「彼とあんたの子だから?」 「いいえ、私が産んで私が育てた子だからです」 「何言ってんのよ!」  その途端藤本の妻は加奈の腕の中からその子を引きはがそうと加奈に飛び掛かった。そして加奈と揉み合った末、加奈の胸、喉を手の中にあった包丁で突き刺してしまったのだった。その時だった。一瞬遅く、影山が美奈を伴って加奈のマンションに到着した。 「姉さん!」 「あなた、美奈?」 「姉さん」  加奈の出血はおびただしかった。それはもう誰の目にも彼女が助からないということが明らかだった。 「美奈、きれいになったね」  加奈は美奈の顔をじっと見ていた。 「その人はあなたのいい人でしょ?」  加奈は次に影山を見つめてそう言った。影山はそれにどう答えたらいいか一瞬迷った。 「良かったね、美奈」  影山の隣で美奈が頷いた。 「妹をお願いします」  加奈が息を引き取った瞬間、加奈に抱かれていた彼女の子供が大声で泣き出した。藤本の妻はその場に茫然と立ち尽くし、加奈と加奈の子供をじっと見ていた。 第17章 和田美奈の場合 「影山さん、色々とありがとうございました」 影山は故郷の甲府に帰る和田美奈を見送りに上野原のホームまで来ていた。 「藤本は僕の幼馴染だったんですよ」 「そうなんですか?」 「ええ、最近の付き合いはなかったんですが。それで彼が不妊症だったことは知りませんでした」 「そういうことは親しい関係でもなかなかお話しすることではないと思いますし。でもどうして姉は人工授精などを」 「そうですね。きっと藤本が加奈さんに持ちかけたのでしょう」 「どうして?」 「彼は不治の病でした。死を目の前にして、きっと何かをこの世に置き忘れたと思ったのかもしれません」 「この世に忘れ物?」 「ええ。それを取り戻したくて、それで加奈さんに人工授精の話を持ちかけたのでしょう。でもそれは奥さんには内緒にしたかった。知られたら当然反対されるわけですからね。そして加奈さんにしても会社の人やライブハウスの人に父親の知れない子を妊娠したなんて知られたくなかったのだと思います。それで逃げるようにして、結果六本木のマンションの家賃を滞納する形になってしまったわけですが上野原に身を隠したんでしょうね。お知り合いを頼って」 「はい。さすがに子供が生まれる前後は人の手も必要だったでしょう。でもその頃は藤本さんは亡くなっている。そこで家庭的な親友のところに転がり込めばなんとかなると思ったのでしょうね」 「ええ。お姉さんが亡くなられた後も実際にその子の面倒を見てくれていましたしね」 「でも藤本さんがしたことでこんな結果を招いてしまったんです」 「赦せませんか?」 「私には彼を赦すも赦さないも言える立場ではありません。でもこの世に置いて行けるものって色々あると思うんです。例え子供を残せなくても誰かと楽しく過ごした思い出とか」 「形ではなく心、ですね」 「はい。形なんてやがて壊れてしまうものです。心があるから形に意味があるんです。それが親子という形をまとっていてもそこに心がなければ無意味なものです。反対にそれが本当の親子でなくとも心があればそこに意味が見いだせると思うんです」 「その子を引き取られたのですね」 「はい。父もまだ幾ばくか命の火が残っているようです。ですから是非この子を父に会わせたいと思いまして」 「それはあなたの養子にしたいということですか?」 「はい」 「そうですか。あなたの手でこの子を育てるんですね」 「はい。私はこの子が姉の子だと思っています。そして父親はいなかったのだと」 「そうですか」 「だから両親にもそう説明しようと思っているんです」 「その子には父親のことはどう伝えるんですか。あ、すみません、立ち入ったことを聞いてしまって」 「いいえ、いいんです。そうですね。どう伝えましょうか。その時が来たらちゃんと話をするかもしれません」 「そうですね。きっとわかってくれると思いますよ」 「でもいっそのこと、私の本当の子供だと言ってしまった方がいいのかもしれませんが」 「そういう養子縁組もあります」 「はい。家裁の方から伺いました。でもそうなると父親が誰なのかは今度は私の問題になって来てしまいます」 「確かにそうですね」 「父親は影山さん、ではいけませんか?」 「え?」 「私ね、ずっと影山さんを追い掛けていたんです。でも、まるでアキレスと亀の追い掛けっこみたいに私が影山さんのいる場所に追いつくと、影山さんはいつもその少し先に進んで行ってしまっているんです」 「え・・・・・・」 「心の距離の話です。影山さんは姉のことでずっと私の傍にいてくれました。ですがそれは身体の距離の話です。心はずっと遠くにあったように感じたんです。最初はそれが鈴木さんのところにあるのかと思いました。或いは仕事一筋なのかもしれないと思ったんです。ですがそのいずれでもなくて何か遠くに心を置いて来てしまっているんだなと感じたんです。まるで北の国の氷の牢獄に囚われているみたいに」  影山は美奈の言葉を黙って聞いていた。 「永遠に寄り添えない愛、辛すぎると思いませんか?」 「・・・・・・」 「だから私・・・・・・」 「・・・・・・」 「私、愛には色々な形があると思うんです。私は独占される愛を選びます」  美奈はそう言ってその子の手を引いてホームに入って来た甲府行きの列車に乗り込んだ。そして列車のドア付近で影山に一礼するとそのまま中に消えて行った。影山はその列車が雪景色の中に小さくなって行くまでそこで見送っていた。そして美奈が最後に言い残した氷の牢獄という言葉を思い返すとそれは加奈自身が自らを閉じ込めた牢獄のことを言っていたのだろうと思ったのだった。  
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