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「いじめっ子にさ、“いじめをやめてください”って頼むことはできると思う。でもいじめって、やめてって言っただけで終わるほど簡単なもんじゃないでしょ?」
「それでやめるなら、いじめなんかしてないだろうしね」
「うんうん。本当は、ジャイアンが変わってくれるのが一番良いけど、外部が徐々に働きかけていって変わってくれるのを期待するしか方法がないわけ。で、子供ののび太個人でそれをやるのはすごく難しいじゃん?だから、即効性のある自衛策としては“のび太が変わる”しかないってこと。だからドラえもんは最初に“練習していじめられないようにしよう”って言ったんだよ。実際、のび太が派手にミスしてチームの足引っ張らなかったら責められてないわけでしょ」
確かに、合理的だというのはわかる。ただ。
「……練習したって、のび太じゃうまくなるわけないじゃん」
これである。
彼は自他ともに認める“運動音痴”という設定だったはずだ。何故か射撃とあやとり、昼寝スキルだけは高いということになっているが(ていうか、なんであんなに射撃が上手いし実弾だって撃てるのに、他の運動神経が壊滅的なのかがわからない。体幹がしっかりしていなければあんなに撃てないと思うのだが)。
野球だって、きっと練習しても上手くならないに決まってる。結局頑張っただけ無駄になるということではないのか。
「頑張っても無駄なら、意味ないなら、そんなの最初から頑張りたくないだけじゃん。だったら、ジャイアンがいなくなってくれた方がいいに決まって……」
そこまで語ったところで、私ははっとしたのだった。自分が、のび太と同じ思考を辿っているということに。
ジャイアンにいじめられないかもしれない方法、は確かにあった。ドラえもんは確かにそれを提示してくれていた。にも拘らずのび太は“ジャイアンの方が消えればいい=自分がそのための努力をする必要がない(したくない)”と投げ捨てたのだ。
確かに悪いのはいじめを行うジャイアンだったことだろう。
しかしそれならば、自分は“いじめられないように努力する”ことは本当に不要だったのだろうか?いじめに対して己に非があるだの無いだのと言う話ではない。自分が幸せに生きるために、笑顔になるために努力するのは本当に無駄なことだったのだろうか。
確かに彼は運動神経が悪いとされている。しかし射撃があれだけ得意ならば、きっと動体視力は悪くないし体幹も悪くない。ちゃんと鍛えれば、それなりの野球スキルを身につけられた可能性だってゼロではないのではないか。否、この世に完全にゼロな可能性なんて本当にあるのだろうか。
――やってもいないのに決めつけるのは……そのための努力をしない言い訳がしたいから、だ。
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