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音叉くんのピアノは夏の雨だ。
上手い、というわけではない。というか、上手いとか下手とかいう枠をはみ出している。
荒く鍵盤を叩きつける指から、驟雨のように降り注ぐ音が聞く者を圧倒する。
音楽がどうして音を楽しむというのか、音叉くんは知ってた。
viva・la・musica!
当たり前のように音と遊び、自由に旋律を駆けまわる。
五歳の私は耳をつんざくその音に完全にイカれてしまった。
当時の私は今よりずっとブスだった。
見た目の話ではなく、存在の話。いつも何か不満げで、つまんなそうで、可愛げがなくて、どんくさいくせにプライドは高くて、ペットショップの犬だったらいつまでも売れ残るタイプ。
そんな私を母は毎日のように何かの体験教室に連れ出した。音叉くんのピアノ教室もその一つ。たぶん、母は焦っていたのだろう。習い事行脚はいつもひとり片隅にいる私に何とか居場所を作ってやりたいという、母の祈りだった。
そして私は出会った、音叉くんに。彼の弾くあのピアノに。
教室が開かれていたのは近くの公民館で、私は水曜日のレッスンに通うことになった。
そうなったのは見学した日、つまり音叉くんのいる日が水曜日で、そこじゃなければ嫌だと駄々をこねたから。
十六時近くになると、小五の音叉くんはランドセルを背負ったまま教室にくる。
私のレッスン後、音叉くんは「翼ちゃん、またね」と先生が挨拶をしている後ろで、さっさと椅子の高さを変えてピアノを弾いた。
母に「ほら、先生にご挨拶して」と促されながら「さようなら」と口の中で呟く私は、「さようなら。お家でも練習してね」なんて先生の声はまったく耳に入れず、音叉くんの引っ叩くようなブルグミュラーだけに集中する。
命の鼓動。魂が震えるあのピアノ。
viva・la・musica!
母に手を引かれながら、私は音叉くんのピアノに陶酔した。
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