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「ぼ、坊ちゃん…」
ミリーナは膝をつき怯えながらミシェルを見上げる。目の前にはガウンを裸体の肩に羽織っただけの姿をしたミシェルが立っていた。ミリーナを静かに見下ろして、その目は凍り付いてしまうほどに冷たい。
「誰にも言いませんから…」
ミリーナは戸惑っていた。今、目の前に立っているのは本当に、自分が昼間に見た美しくも優しい笑顔で自分たち使用人に笑いかけてくれたミシェルなのだろうか…と。まるで別人のような雰囲気に、ミリーナはすっかり萎縮していた。
「君は……ミリーナ、だったよね」
ミシェルが静かに口を開く。
「西部出身の没落貴族で、仕事を求めて帝都にやって来た18歳。君の家族は——」
そして、ミシェルの口から次々にミリーナの家族構成から個人的な内容までの個人情報が語られていく。ミリーナはどんどん顔を青褪めていった。ミシェルとは今日初めて顔を合わせた筈なのに…どうして自分の情報をそこまで把握してあるのか、訳が分からず恐ろしくなった。
「僕が何も調べないで帝都に来ると思う?」
ミシェルが微笑む。クリスティアンは別に、リーゼロッテにミシェルの入学の事を秘密にしていたわけではない。リーゼロッテが知らないことを知らなかっただけなのだ。
去年ミシェルは何度も帝都に来ていた。リーゼロッテには知らせず、まるで路地に座り込んでいたあの頃の自分のように遠くからリーゼロッテを見つめ、そしてタウンハウスに勤める使用人たちの屋敷外での素行を調べ上げた。
ギャンブルにハマっている執事とか、最近離婚裁判を起こしている侍女とか…業務中に恋人を連れ込み睦み事に耽る御者とか。
アラン・ビートの件で学んだミシェルは、リーゼロッテの周りも徹底的に把握することにしていた。すぐ触れられるところにリーゼロッテがいるのに…自分に我慢を強いるミシェルだったが気が狂いそうだった。
こうして、帝都でのリーゼロッテの暮らしぶりとその周りの者たちの情報を集めつつ、南部へ戻ればクリスティアンとセイラに架空のリーゼロッテと過ごした帝都の日々を語ってみせた。だからクリスティアンはまさかリーゼロッテが何も知らないとは思いもよらなかった。
ミリーナの本能が警告音を鳴らしていた。ミシェル・ブランは得体の知れない人物で、狂っている男だと。しかし、もう遅い。ミシェルに目をつけられた者の末路は…。
「君だよね? 姉さんの宝石を盗んでいる人…」
ドクン、と心臓が痛いほどに鼓動を打つ。ミリーナは目を大きく開き固まり、そして冷や汗を流した。
「な、なんのことだか私には…」
まるで自分の声ではないみたいだ。恐怖でギュッと締まる喉からなんとか言葉を搾り出してミリーナは言う。
「姉さんが南部から持参したものとこちらで購入した宝石の数を合わせても計算が合わないし、盗みを働いてる奴がいるなってすぐに分かったんだ」
雲で隠れていた月が顔を見せると同時にミシェルを照らす。ミシェルの裸体は素晴らしく綺麗で、その色白の肌は発光しているかのように煌めいている。
恐怖心はあれど、あまりの神々しさにミリーナは思わず見惚れていた。ミシェルの青い目はどこまでも無機質で、ミリーナをまるで『家畜』でも見るような目で見ている。
それがミリーナの目には、ミシェルは自分よりも高い次元にいる者のように映り、無意識に彼を神格化させつつあった。
「君、少し前に宝飾店でエメラルドを売っただろ?」
「なぜ知って…あ!」
ミシェルに見惚れていたからか、口が滑ってしまった。ミリーナは慌てて口を押さえるも、ミシェルはニコリと優しく微笑んで言った。
「あれ、僕が昔姉さんにプレゼントしたものなんだよね」
そしてその笑顔が凶悪なものへと変化していく。
「証拠も揃ってるよ。君を犯罪者として保安所へ突き出してあげようかな…」
ミリーナはすぐに頭を下げて、床に額を擦り付けながら懇願した。
「申し訳ありません! 申し訳ありません! 二度とこのような不遜な気は起こしませんから…どうか、このまま働かせてください!」
ミリーナが犯罪者となり職を失えば、西部の家族たちも苦しむことになる。自分の行いが悪いのだが、どうして主人の物を盗むというような愚かな事をしてしまったんだとミリーナは自身を責めていた。魔が差したのだ、リーゼロッテが何気なく当たり前に手に取る宝石一つで、家族が一ヶ月は暮らしていけると…少しくらい大丈夫だろうと…。
「申し訳ありませんでした!!」
ミリーナは後悔から涙が出た。鼻水を啜りながら謝るメイドを見下ろして、ミシェルは歪な笑顔を浮かべていた。
「君にチャンスをあげるよ」
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