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◇◆◇◆◇
「だめだ。新鮮さがない」
「………」
あの甘い空気を微塵も感じられない会社での市川課長。
企画会議で企画を出せと言われて用意したプレゼン資料を見た課長の一言でおしまい。まあ、いつものことですけど。
「大野、この企画からはなにも伝わってこないが、テーマはなんだ。なにを伝えたいんだ」
「…えっと…」
なにを。
「まあまあ、市川課長、次の人を見てみましょうよ」
「…わかった」
事務係の係長の言葉で次の人の企画発表に移る。椅子に座った俺は溜め息を呑み込んだ。いつまで経っても基本の仕事だけしかできない。それに比べて陽介さんはどんどん新しいことを始めていく。俺は置いてきぼり。
陽介さんの顔をそっと見てみる。真剣な顔がとてもかっこいい。俺に気持ちを伝えてくれたときもこんな表情をして、『一生懸命な大野を支えたい』って言ってくれた。支えられっぱなしでもいいのかな…。少しは成長したい。
あ。
「………」
目が合った。でもすぐに逸らされてしまう。これがあの陽介さんなんだろうか、と思うときが多々ある。可愛い可愛い愛してるの陽介さんと、だめだで切り捨てる市川課長。陽介さんの甘さは俺だけに見せてくれている。
「大野」
企画会議が終わり、自席に戻ろうとしたら陽介さんに呼び止められた。なんだろう、と近付く。
「もっと練ってこい」
そう言って手のひらにのど飴をのせられた。
「あの…?」
「声、少し嗄れてるだろ。気を付けろ」
「………」
誰かさんが、『可愛い声を聞きたい』って、いっぱい声出させるからじゃないですか。
と言いたいけれど言えない。小さくお礼を言って今度こそ席に戻る。この飴は取っておこう。
口元が緩む。優しくしてもらっちゃった。不意打ちで“陽介さん”に触れられて嬉しすぎる。もともとは陽介さんの告白から始まった関係だけど、今じゃ俺のほうが陽介さんが好きだと思う。そう言うとたぶん『負けるわけないだろ』って笑われる。俺だって負けないよ。
その後、部長が陽介さんを呼んでなにか話しているのを見た。珍しく陽介さんが困った顔をしているので、どうしたんだろうとちょこっと様子を見た。あんまり見ていると怪しいから、ちょこっとだけ。
あ、目が合った。本当になんだろう。
「専務のお嬢さんに会ってほしいと言われた」
夜。会社帰りに陽介さんの部屋で、俺が聞く前に陽介さんのほうから教えてくれた。お嬢さんとって……え。そういうこと?
「断りたかったら断っていいって言われたけど」
付け足された言葉に眉を顰める。そんなの、断れるわけないじゃん。むっとしていると、いつものように陽介さんが髪を撫でてくれる。そんなのでごまかされない。
「……会うんだ?」
「仕事の一環だ」
「………」
それ、絶対相手は既に陽介さんが好きってパターンだよ。付き合うことになったら俺はどうなるの。陽介さんは断ってくれると思いたいけど、専務のお嬢さん…難しいんじゃないか。
「そんな顔するな。俺には誠也だけだから」
「……信じていい?」
「信じて」
ちゅ、とキスをくれて、とりあえず納得した顔をすると、陽介さんが少しむっとした。
「どうしたの?」
「そんなに簡単に信じちまうのか?」
「え?」
なに言ってるんだろう。首を傾げる。
「誠也はもっと我儘を言っていい」
「?」
「誠也のことで困りたいから、俺を困らせてくれ」
すごいことを言われた。俺、充分我儘言ってると思うけど。まだ足りないってこと?
顔がどんどん熱くなっていく。こんなの、ずるい。陽介さんにぎゅっと抱きついて顔を見上げる。すごく嬉しそうな顔。
「そんなに俺が好き?」
「好きだな」
「もう…」
俺が困らされている。こんな風に愛されたら蕩けてしまう。陽介さんが骨まで支配して、全てを呑み込まれる。こんなに愛されて、信じないわけがない。でも簡単に信じると陽介さんは不満だし…困った。
「誠也、困ってるのか?」
「うん。なんでわかるの」
「そういう顔をしている。なにをそんなに困ってるんだ」
本人は気付いていないのか。じっと顔を見たらキスをされた。もう。
「陽介さんを困らせることに困ってる」
正直に言うと、陽介さんはきょとんとした顔をしてから、くくっと笑い出す。この笑顔、本当に好き。
「真面目だな」
くしゃくしゃと髪を撫でられ、ちょっと照れくさい。
「せっかく困るならベッド行くか」
「なんで?」
「もっと困らせたい」
答えの前に抱き上げられてしまった。これじゃ逃げられない。逃げるつもりもないけれど、少しくらい抵抗してみたい。
「…俺が陽介さんを困らせるんじゃないの」
陽介さんの首に腕を回しておとなしくしてしまう。抵抗はしてみたいけど、嫌じゃないから結局陽介さんが思うとおりになる。悔しいとも思えないくらい完敗。でも更に追撃される。
「困らせていい、困らせてくれ。好きな人のために困るって最高に幸せだ」
本当に、もう…どうしようもない。この人の愛情って綿あめみたいにふわっふわで、口に含むとものすごく甘い。ふしゃ、と口の中で溶けていく愛情と一緒に俺自身も溶けていく。
「しょうがないなぁ…」
「だろ?」
「だろ、じゃないよ」
絶対敵わない。
ベッドに寝かされて肌を暴かれる。その手の熱さに身体を委ねて、落ちてくるキスに酔った。
……でも、本当にいいんだろうか…。
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