58人が本棚に入れています
本棚に追加
◇◆◇◆◇
「………」
「行ってほしくないって顔してるな」
「……してない」
むっとしてる俺の顔をじっと見て陽介さんが笑う。行ってほしくないって言ったら行かないでくれるのかな。
専務のお嬢さんと会う日が来てしまった。なんとなく手を伸ばしてネクタイを直してあげると、ぎゅっと抱き締められた。
「すぐ帰ってくる」
「……うん」
「俺には誠也しかいないから」
「………」
本当に大丈夫だろうか。陽介さんの出世にも響くかもしれないし、俺の存在が邪魔にならないだろうか。こんな風に考えるのは嫌だけど、なにもできない俺より、陽介さんに将来のいいポジションをくれそうな人のほうがいいんじゃないか、なんて思ってしまう。
「……期待しないで待ってる」
あ、なんか嫌な言い方しちゃった。
「? どうした」
やっぱり陽介さんは俺の言葉に反応して、顔を覗き込んでくる。だから俺はもっと俯く。
「別に陽介さんが他の人を選んだって構わないって言ってるの」
お願い。そんなこと言うなって言って。大切なのは誠也だからって…誠也だけだって言って。
陽介さんはきっと、『拗ねてるのか、しょうがないな』って……。
「……本気で言ってるのか」
予想に反して冷たい声が聞こえてきて顔を上げる。怖い顔。怒ってる…。会社でもこんな顔は見たことがない。
「本気で言ってるのか、誠也」
「…本気で言ってる」
なんだか引き返せなくなってそんなことを言ってしまう。
「……誠也はそういう気持ちなのか」
「………」
喉がぐっと詰まって言葉が出ないからただ頷いて背を向けた。
「いってらっしゃい。遅れるよ」
「……誠也がそういうつもりなら、俺にはどうにもできないじゃないか」
「え」
すごく辛そうな声が聞こえて振り返る。
「あ……」
泣きそうに顔を歪めた陽介さんが俺をじっと見て唇を引き結んでいる。
どうしよう、すごく傷付けちゃった…?
本心じゃないよ。でもそう言わないと苦しくてどうしようもない。俺なんかにしがみ付かなくたっていいんじゃないかって思ったから言った言葉に、俺自身も傷付く。
「……ゆっくり楽しんできて」
なんとかそれだけ言って寝室に入る。だって俺じゃなにもできない。俺なんかじゃ、つり合わない。
玄関のドアが開いて閉まる音がして、陽介さんが出かけたのがわかる。服を着て、俺も陽介さんの部屋を出る。ポストに大切な合鍵を入れて自宅に戻った。
どこをどう歩いて帰ってきたかわからないけれど帰れた。頭がぼんやりする。部屋に入って冷蔵庫を開けたら陽介さんがネットで買ってくれた地域限定のビールが入っていて、視界がじわじわ歪んできた。一本取って一口飲むと、涙は堪えられなかった。
「っく…」
しょうがないじゃん。俺はなにもしてあげられないんだから。身を引くくらいがちょうどいい立場だろう。ようやく陽介さんにひとつ、してあげることができた。いつもしてもらってばかりでごめんね。最後だから…最後だけ、傷付けさせて。
ビールを一本飲み終えて、シャワーを浴びる。身体のあちこちに残る小さな赤い跡に涙が堪えられない。
大切に愛してくれた陽介さんに返せたのがこんなことだけだってことに苦しくて申し訳なくて、冷たいシャワーを浴びた。陽介さんの手の感覚を流すように。
浴室を出て、ぼんやりそのまま床に座り込む。力が入らない。
ばかだな、俺…あんなこと言わなきゃよかったって今更思っている。
インターホンが鳴っている。誰だろう…誰でもいい。出たくないし、服を着ていないから出られない。ドアをノックする音が聞こえる。
陽介さんの記憶だけ持って消えてしまいたい。ぼーっとどこでもない場所を見つめる。
インターホンの音もノックの音も聞こえなくなった。陽介さんだったらいいな、と思ったけど、陽介さんなわけがない。今頃陽介さんは、陽介さんの支えになってくれる女性と会って、それで………。
「……自分勝手だな、俺」
陽介さんを全部思いどおりにしようとしている。
床に寝転がって、そのまま力を抜いた。
「誠也!?」
陽介さんの声がする。夢だ。目を閉じて、そのままでいると身体を起こされた。
「どうした、具合悪いのか?」
「……?」
瞼を上げると本当に陽介さんで、なんで、と思いながらしがみ付いたらまた涙が止まらなくなった。
「ようすけさん…っ」
「ああ、俺だ。大丈夫か」
「…だいじょぶじゃない。くるしい」
陽介さんが、救急車呼ぶ、とスマホを出すのでそうじゃないと首を横に振る。
「誠也?」
「…なにもできないの、くるしい…。……なにもできないから、身を引くんだ、俺」
陽介さんの腕の中が心地好くて、夢心地でそう言うときつく抱き締められた。
「ばか。誠也が身を引いたら俺には誰もいないだろ」
抱き締められて、陽介さんの腕に身体を委ねる。大好きなにおい。
「……ごめんなさい、陽介さん」
「その『ごめん』がどういう意味かによっては許さない」
「…………嫌なこと言って、ごめんなさい。嘘吐いてごめんなさい」
陽介さんを見上げると、優しく微笑んでくれてほっとした。大好き、大好き。
「その『ごめん』なら許す」
「どんな『ごめん』だったら許さないの?」
「もうそばにいられない、ごめんなさい、だったら一生許さない」
横抱きにされて寝室に連れて行かれた。ベッドに寝かせてくれて、タオルケットを身体にかけられる。
「……それが言えたら、よかったんだけど」
「全然よくない。俺が誠也と別れられるわけないだろう」
中途半端な俺を怒らず受け止めてくれる。突き放したくせに、やっぱり嫌だと泣く俺を怒らない。
「…専務のお嬢さんは」
「大切な恋人が待っているから帰ります、とすぐ言って帰ってきた。会ってくれと言われてちゃんと言葉どおり『会った』からいいだろ」
「………」
よくないよ、それ。心象最悪じゃん。
「陽介さんの出世に響く…」
「は? 響くわけないだろ」
「…なんで言い切れるの」
「それくらいで認められなくなるような仕事はしてないってことだ」
キスをくれて、瞼を下ろす。
「強気だね」
「でも…そうだな、出世より誠也をとったんだ。ずっと俺のそばにいろ」
頷こうとしたら、陽介さんが首を傾げて、違うな、と呟く。
「?」
「誠也さえいればそれでいいんだよ。そばにいさせてくれ」
手に陽介さんの部屋の合鍵がのせられた。
「すぐ帰ったのに部屋に誠也はいないし、ポストに合鍵は入ってるし……こんなに焦ったのは生まれて初めてだ」
「…ごめんなさい」
焦ってくれたんだ。
「慌ててここにきたけど、インターホンを押してもノックしても出てこないから、嫌だけど合鍵で入った」
「なんで嫌なの」
「誠也が自分から開けてくれないと意味がないから」
陽介さんは大人だなぁって思った。止まった涙がまたこみ上げてくる。陽介さんの手をとって、手のひらにキスをする。
最初のコメントを投稿しよう!