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岡野の話によると、岡野が入社して正式に課に配属になってから半年ほど経った頃のことらしい。よくクレームの電話をかけてきたお客様で、そのとき対応をしたのが岡野だったようだ。次から次へと言われることに対応しきれなくなっていたところに、俺が通話をモニタリングして隣で返答をメモしていった。メモのとおりに答えたところ、無事通話を終えられた、と。そんなこともあったような……。
でも、岡野が課に配属されてから半年って、二年とか三年とか前の話だ。その頃から俺が好きだったってこと、か…?
「俺、無愛想でしょう」
「自覚あるのか」
「ありますよ」
そう言って笑う岡野は無愛想ではない。
「言葉も足りないから、近寄りにくいって思われてるの、自分でもわかっていました。だけどあのとき、藤川さんは嫌な顔をせず、すぐに助けてくれて。すごく嬉しかったんです」
「………そうか」
そんなに嬉しかったのか。忘れてしまっていたことが申し訳ない。
岡野が俺の手を取るので、ちょっと身構える。
「藤川さん、好きです。本当に好きです」
「いや、あの…」
「付き合ってください」
「………」
こういうの、どうしたらいいんだ。初めてだからわからない。とりあえず、手は離してくれないかな、と手を引いてみるけれど、がっちり握られている。
岡野を見る。真剣な表情。
「……気持ちの整理も、心の準備も、できてないから」
だからまだなんとも答えられない。それが今の答え。真剣に気持ちを伝えてくれている岡野に、ごまかしや嘘で返したくない。真実を答える。
「だったら考えてください」
「えっ」
「たくさん考えてください。俺のことだけ、考えてください」
「……あの…」
なに、なんかめちゃくちゃ押してくるな。俺がちょっと後ずさると、その分だけ迫ってくる。
「えっと、待って…」
ちょっと待てと言っても岡野は迫ってくる。
「逃がしません」
岡野が握ったままの俺の手を引いて距離を詰めてくる。急に距離が縮まって、心臓がどくんと高鳴った。
「……気持ちの整理と心の準備ができたら、付き合ってくれる気はあるんですか?」
「わ…」
囁くように問われて、顔が熱くなる。男にも色気が存在するのは知っているけれど、これは反則だろう。
「どうなんですか、藤川さん」
「…っ」
どんどん頬が熱くなっていって、心臓の音がうるさくて。ぎゅっと目を瞑って、こくんと頷く。
「……本当に?」
もう一度頷く。だから離れてくれ。
「やったー!!」
明るい声と共に岡野がベッドに転がった。ころころ転がりながら、やったやった、と呟いている。なんだこいつ、可愛いな。口元どころか、顔中すごく緩んでいる。
「『やっぱなし』は聞きません」
「……わかってる」
こんなに喜ばれるとは思わなくて、びっくりしてしまう。しかも岡野のこんな緩み切った表情……レアすぎる。
なんとなく岡野の髪を撫でると、岡野が軽く目を見開いて、それから心地よさそうに目を細めた。
「早く整理と準備、してください」
「……急かすなよ」
「急かします」
またころんと転がる岡野。いて、と言うのでなにかと思ったら、スラックスのポケットからのど飴を出す。
「のど飴が当たって痛かったのか」
「はい。藤川さん用ののど飴」
「? 俺用?」
岡野が俺の手を取って、もう一度撫でてと言うように自分の頭へと持っていくので、その願いどおり髪を梳くように撫でてやる。
「あのとき、藤川さんが言ってたんです。俺を助けてくれた後も少し咳をしていて、風邪ですかって聞いたら、喉が弱くて、ちょっとしたことが刺激になって咳が出やすいんだって」
「そうか…」
「のど飴なら、俺でも藤川さんに渡せるかなって思って…。でも藤川さんが自分で持ってたり、俺も恥ずかしかったり緊張したりでチャンスを逃して、三年経っちゃいました」
苦笑する岡野。そんなことをしなくたって話しかけてくれたらよかったのに、と思うけれど、岡野にとっては難しいことだったんだろう。
「…まさか、三年前ののど飴?」
「まさか! 毎回、渡せなかったことを後悔しながら自分で食べてましたよ」
かっこ悪いでしょう、と言うのでもう一度髪を撫でてやる。
「……少し、待ってくれ」
それだけ言うと、岡野は微笑んだ。今夜は岡野の色々な表情を見ている。
「出ましょうか」
岡野が身体を起こす。
「…そうだな」
そっと頷いてベッドから立ち上がったら、少し足が痺れていた。
ふたりでホテルを出る。なにもしなかったけど、なにかはあった。
「あの日、キスしてよかった」
「………」
俺も、してくれてよかったと、ちょっとだけ思ってしまった。
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