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笑顔のおまえは見たくない
コホ…
朝起きたら軽い咳が出た。俺は昔から喉が弱くて、ちょっとしたことが刺激になり咳が出やすい。昨日は雨のせいか急に気温が下がったから、そのせいかもしれない。とりあえず、いつもより丁寧にうがいをして朝の支度を整えた。
その後は忘れていたからか、咳は出なかった。でも、「そういや、もう咳出ないな」と意識したらコホコホッとなった。始業から一時間ほど経った、パソコン作業中。
「藤川さん、風邪ですか?」
隣のデスクの池井が声をかけてくる。
「いや、たぶん違う」
「のど飴いりますか? 確かあったはず…」
デスクの引き出しを開けてガサガサと漁る池井。大丈夫、と言おうとしたら、俺のデスクにすっとのど飴が置かれた。
「?」
「どうぞ」
見るとうしろの席の岡野だった。驚いた。岡野は人とあまり関わらないから。
見た目は背がすっと高くてスタイルもよくて、顔立ちも整っているイケメンだが、ほとんど笑わないし、話しかけられても必要以上の会話をしない。もったいないと女性達が噂しているのを聞いたことがある。
「ありがとう。悪いな」
「いえ」
優しいところもあるんだ。個包装から出したのど飴を口に入れると、喉がすーっとした。
うしろの岡野を見ると、のど飴をくれた余韻などもうなく、淡々とデータをグラフにしていた。
午後、課長から資料をいくつか取ってきてほしいと頼まれ、手の空いている俺と岡野で資料室に向かった。
「さっきはのど飴ありがとな」
「いえ」
「俺、喉が弱くて咳が出やすいんだ。こういう季節の変わり目は特に。風邪ではないと思うんだけど」
「そうですか」
「………」
「………」
わかってはいたけど、ほんとに会話続かないな。
資料室でメモを見ながら頼まれた資料を探していると、また軽い咳が出た。ファイルを取ったときにホコリが舞ったからかもしれない。
「のど飴いりますか」
岡野がスラックスのポケットに手を入れる。
「どうぞ」
「悪い」
手のひらにのど飴がのせられる。その手がぐっと掴まれて引っ張られた。なに、と思うより先に岡野の腕の中。動けない。
「……もし風邪だったら、人にうつすと早く治るらしいですよ」
「え、んっ…!」
…!?
突然唇が重なり、柔らかな温もりがじんわり伝わってくる。混乱しているのに、唇の柔らかさははっきりわかる。
のど飴が床に落ちる音が微かに聞こえた。
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