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「よかったですね、山本さん。娘さんとお散歩できて」
施設のスタッフの瞳が小さな三角を描いた。車いすに座る父の麻痺した顔面から、遠くの空へと上がり、私に降りる。
「曇りで日差しが弱まって助かるけど、夕立になりそうですね」
とは言うものの、スタッフは笑顔だ。天気への不安よりも、父が入所して三年、音信のなかった娘が突然訪れたことへの嬉しさが勝ったのだろう。
私には今日、是非とも父に聞いてほしいことがあった。
「丘の公園に行きます。東屋がいくつもありますから、雨が降ったらそこで」
私の指さした先に、緑の小高い丘が広がる。猫が毛糸玉を転がしてコースを決めたのか、くねくねの遊歩道が頂上の一本杉を目指していた。
ゆるい上り坂だが、車いすが重い。工事現場の監督を勤めるためには、職人たちになめられないよう、高い背丈と広い肩幅が必要なのかと想像する。
分厚い雲で太陽は隠れていても、八月の気温は私の額に汗をならべる。
「お父さんにはよく怒られたよね」
私の呼びかけに返事はない。脳の血管が詰まって以来、父は言葉と表情と手足の自由を欠いていた。
右手のふるえを、父は自分の意思でとめられない。このふるえを、専門用語で振戦と呼ぶのだと教えてくれたのは、手術にあたった医師だった。
「お母さんとよく話すんだ。あんなことで怒られた、こんなことで怒られたって」
母は毎日、怯えながら食事の支度をした。しばしば「飯が不味い」と責められたせいだ。
茶碗を投げつけられるのを娘に見せたくなかったからか。父が暴れ出すと私が食事を摂れなくなるからか。
おそらくは両方だろう。小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、家に帰りつくとすぐ、私の夕食は始まった。
休日、どうしても父との同席が避けられなかった食卓は、作り笑顔と緊張でまるで味がわからなかった。二回に一度は食後にもどした。
父の帰宅時は「おかえりなさい。今日も家族のために働いてくれてありがとう」と頭をさげた。出迎えが少しでも遅れれば頬を張られた。
「廊下にほこりが落ちとる」
「タバコを切らすな」
「本を読むひまがあったら俺の肩をもめ」
「女に学問などいらん。高校を出たら働け」
些細なこと、時代錯誤なことで雷が落ちてきた。
私は過去の理不尽と不快を掘り出しながら、黙って車いすを押す。長いと思った頂上までの道のりも、残すところあとわずかになっていた。一本杉が黒く高くそびえ、曇天に刺さりそうだ。いよいよ夕立が迫ったのか、頬をなでる風の勢いが増した。
「あのね、お父さん。私、結婚しようと思うの」
父は苦労して首をひねり、おうえおお、と意味をなさない声を漏らした。
おめでとうと言いたかったのだろうか。それともまた、反対するつもり?
社会人になって間もない頃のことだ。私が男性と付き合っていると知った時、「お前の結婚相手は俺が決める。上司や得意先の息子を物色中だ」と拳で殴られ前歯が折れた。
「結婚するまでは処女でいろ。そのほうが高く売れる」と付け足し、大声で笑った。自分の出世のために娘の人生を左右するのは、当たり前と考えた人だ。
私を利用する前に父は脳梗塞で倒れた。休職の後に退職を選んだのは、会社が早期退職者を募っていたため。退職金が大幅に上乗せされた。
そのお金があったからこそ、母が介護を拒否しても父は生きながらえている。
施設での暮らしが快適かどうか。そこは問題ではない。問題は、蓄えの底が見え始めていることだ。
「昨日、プロポーズされたんだ。お母さん、喜んでたよ」
一本杉の根元に車いすを止める。
「お父さん、現場監督だったから、空模様の変化にくわしいでしょ」
今日、唐突に父を訪ねると決めたのは、プロポーズを報告するためではない。昼休みに食堂で見たニュースが、夕方は急激に天気が荒れると流していたからだ。
予報は当たった。数キロ先の町が雨と稲妻に襲われている。その激しさは、黒雲の中に龍が巣食っているのではないかと思うほどだ。
これならば、祈りは通じるかも。
丘の上からだと、雲の動きがよくわかる。もうすぐ、私たちの上にくる。
「たたいきのしらきれんら」
「そうだね。雷だもんね。高い木の下は危ないよね」
「はやきゅ」
「うん、急がなくちゃね。その前に私の話を聞いて。お父さんにはよく怒られたけど、私、感謝してる。ぶたれたのだって、今なら笑い話だよね」
父の目に光が差し、麻痺を乗り越えて口元がかすかに持ち上がった。
が、そこまでだ。次のセリフで喜びを消してやる。
「とでも言うと思った? もしそうなら、おめでたすぎるよね。私とお母さんが、お父さんの雷にどれだけ怯えたかわかる? 今から味わってもらうわ」
父の肩がふるえ始めた。振戦ではない。怖れという自ら起こした意思で、ふるえているのだ。ざまあみろ。このまま死ね。施設に払う金が惜しい。
「あのね、お父さん。ここにいてくれるかな。私は東屋で、雷が落ちるよう祈ってるから」
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