第3章 酒浸りの大学生活と母の寵愛

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 Rさんは、彼を死へ向かわせていたのは、母親の昌子さんの存在だったと断言する。前述したが、昌子さんは同居していた姑との関係が良くない時期があった。夫に相談しても、まったく耳を傾けてくれない。苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみ、やるせなさ……味方もおらず、降りかかるさまざまな感情をひとりで受け止め、押しつぶされそうになっていたとき、自分の前にいたのが永沢だった。私はこれから、この子と生きていく。そう決意してから、昌子さんの思いが永沢に取りついたのではという。 「お母さんは相当に苦しまれていたと思います。永沢の幼いころの思い出のなかで、『一緒に死のう』と母に首を絞められたことがあると言っていました。彼がうつ病になり、死へ向かっていったのは、そういう影響があまりにも大きかったのではないでしょうか」  もちろん、あくまでRさんの感じ方や想像であって、真実はわからない。だが手がかりのひとつとして、昌子さんが「思い出したくもないことだが」と当時の出来事を振り返っている文章を引用しながら、照らし合わせてみたい。永沢が小学校4年生のときである。  姑が私に対して異常な行動をとることが増えてきていた。夫に相談しても暖簾に腕押しで、全く頼りにならなかった。息子の職場での失敗も嫁のせいにしてなじられるような状況だった。私はどんなになっても姑に反発はしたことがなかった。ある時、姑の恐ろしい形相に、私は足ががくがくするほどの恐ろしさを覚えた。 『神様のプレゼント 永沢光雄・生きた 書いた 飲んだ』永沢光雄/永沢昌子  永沢も、このときの出来事が印象に残っているのか、私小説でその場面を描いている。  母親が祖母の部屋に夕食の準備ができたことを知らせに行った。すると、今まで耳にしたことのない母親の「キャー!」という悲鳴が聞こえた。「キャー!助けてえ!」  台所でテレビを見ていた弟と私が走った。母は祖母の部屋の前で腰を抜かして座り込み、顔をひきつらせていた。そしてその前にはいまだに思い出すと全身に震えが走るのだが、体中から酒の臭いを発散させた全裸の祖母。その両手には包丁が握られている。目を血走らせて白髪を振り乱した祖母が母に低い声で言った。 「お前を殺してやる」 『恋って苦しいんだよね(『日常には何もない』)』永沢光雄  母親は永沢と弟の手を引いて、近所にある母親の弟の家に逃げ込んだ。だがそこで夕食を食べた後、永沢は「家に帰る」と、父や祖母のもとへ戻ってしまった。永沢が何を考えているのかわからず、親子の絆が突然立たれたように思え、母親は大変落ち込んだという。実は永沢は、弟だけでなく自分も母親と一緒にいたら、両親が離婚し、家庭崩壊してしまうと考えたため家に戻ったのだった。  永沢には会いたいが、祖母のいる家に戻るのは怖い。逡巡していた母親が、占い師に相談したところ、「姑もあなたを待っているから帰った方がいい」と助言され、ようやく家に戻った。永沢と再会して、昌子さんは彼の気持ちをこう理解した。  光雄は「お母さん帰って来た!」と私に飛びついてきた。その時、光雄が突然自分ひとりだけで家に帰った真意を悟った。「自分がいるところにお母さんはきっと戻ってくる」と確信していたのだ。 『神様のプレゼント 永沢光雄・生きた 書いた 飲んだ』永沢光雄/永沢昌子  お母さんは自分から離れない。自分を捨てるはずなどない。必ず戻ってくる。永沢がそう思っているのだと気づいたことで、「この子と生きていく」という決意や覚悟を決めたと読み取れる。離婚や家庭崩壊を防ぐため、という永沢の真意とは若干ズレがあるように思える。昌子さんが夫や姑の力を借りなくても自立できるよう、指圧マッサージの資格を取ろうと決めたのは、この出来事の直後である。  Rさんの話に戻る。彼女は、昌子さんの寵愛から永沢を引き離そうとした。自立させ、本来の永沢として生きて欲しかった。けれど、自分にはできなかったと、Rさんは吐露する。 「お母様に取り込まれて苦しんでいるんだったら、自分を解放するために一緒に闘おうよ永沢、って私は思っていました。2人で乗り越えたかった。けれど、自分の人生なんだから、自分で解決すべきだとも思っていたし。若かったこともあって、応援の仕方がわからなかったんですよね」  お互いの結婚観や家族観の違いもあった。結婚したら永沢姓になるのが当たり前だと思っていた永沢や彼の家族に対し、Rさんは夫婦別姓を望み、さらには夫というだけで彼が世帯主になることを許せなかった。そして付き合い始めてから8年、永沢が30歳のときに、Rさんは別れを切り出した。彼は著書のなかで、当時のことをこう書いている。  毎日、図書館に行って分厚い本を借りてました。それを机の上に置いて、いかにも勉強をするふりをして酒を飲んでいましたね。そしたら、ずっと同棲していた女性の堪忍袋の緒が切れたようで、「出ていって」と言われたんです。 『ノンフィクションを書く!』井田真木子、中村智志他  その通りだったのかRさんに確認すると、「私が言ったことを、世間に向けた共通語で表して、そう書いたのだと思う」という返事だった。実際にRさんが伝えたのは、「あなたのなかの悪魔を私が追い払えないから別れる」という言葉だったという。  永沢のことが好きという気持ちは、最初から変わっていない。けれどこのまま2人で進むと、彼か自分が死ぬしかないところまで追いつめられることが、明らかに見えていたからこそ、別れを決意したのだった。 「それ(死)を私が引き受けるか、引き受けないかという選択を迫られるような精神状態になっていました。そういったものに連れていかれて死んでしまうのは、彼の美学ではあったかもしれない。でも私の美学ではないなと思ったので、別れたんです」 「あなたのなかの悪魔を追い払えない」という言葉を、永沢はどのような思いで受け止めたのか。言葉の意味は伝わったのか。咀嚼して飲み込めたのか、それとも口に入れただけで吐き出してしまったのか。文章にするとき、どんな思いで世間に向けた共通語に変換したのだろうか。  今や知る由もないが、永沢がこのエピソードを文章にした際はいずれも、「恋人に愛想を尽かされて去られたダメな自分」という、ユーモラスなトーンで描かれている。
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