第2章 神童から落ちこぼれになった10代

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 小説家になるためには、早稲田大学の第一文学部に行かないといけない、と永沢は考えていた。神童であっても、もちろん入試のために努力は必要である。だが、勉強をすればするほど、永沢のなかで違和感が生まれるようになった。そして、「小説家になるために早稲田の一文に行きたい」「勉強などしたくない」という、相反する行動を取っていった。  永沢は宣言通り、早稲田大学を受験するが失敗。文学や芸術への知識・批評眼は高校生離れしていたが、何せ勉強をしなかったのだから、当然の結果なのだろう。東京で浪人生活を送ることになった。早稲田にある予備校と寮の費用は、母親が支払った。  だが2ヶ月後、永沢が予備校に行かず、毎日図書館で本を読んでいるようだと、寮母から実家に連絡が来る。父親は激怒し、寮に迷惑だからすぐ追い出せとまくしたてたが、母親はすぐ東京に行き、寮にお詫びをして、永沢のためのアパートを都内に借りた。無理に大学に行く必要もないから好きなことをしなさい、とも伝え、仕送りも続けた。息子への期待も願望も叱咤も嘆きも超越し、慈愛だけでただ彼を包んでいたことが伺える。    母親が金銭的なサポートを行えたのは、永沢が中学1年生のとき、治療院を開業したからだった。姑といざこざが起きたのをきっかけに、自立できる生き方を目指したのだ。それまで営んでいた編み物教室では、子ども2人の教育費にはならないため、指圧マッサージの国家資格を取って、永沢治療院を開業した。1回につき約8000円の施術を、毎日5~6人に行っていたという。客は当時の仙台市長をはじめ、比較的余裕のある人が多く、常に繁盛していたそうだ。  永沢は「自分の目に触れるところには看板を出してほしくない」と言ったそうだが、この治療院で母が稼いだお金が、長きにわたって彼を支えることとなる。  受験から解放された永沢は、読書やアングラ演劇のサークルでの脚本制作にのめり込んだが、やはり進学への思いも捨てられなかった。しかし、受験勉強はまるでしていない。そこで、入試が小論文だけしかない大阪芸術大学を受験し、2浪で入学が決まったのだった。  この話には裏側がある。永沢は受験前日、大阪・天王寺のホテルに宿泊した。その近くにあった鳥仙という焼き鳥屋に入り、客たちに大阪芸大の受験が明日であることを話すと、「あそこは朝まで飲んでいかないと受からないよ」と助言された。気づけば、朝4時までどんちゃん騒ぎをし、二日酔いで試験に行ったところ合格。焼き鳥屋の人たちの言うことは正しかったんだな、と永沢はしみじみ思ったという。
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